第7話 お礼のお礼

 






「お疲れさま、追崎さん」


「……なして?」


俺は間抜け面を晒して、朝と同じ台詞を使っていた。

自転車前で待ち構えていた彼女は、そんな俺を見て柔らかく微笑んだ。


なんで矢谷さんはもうここにいるんだろう。

大きな疑問符が頭の中を占領する。

俺は今日、買い物が終わったら散歩をしようと思っていた。

いい天気であるし、気温も丁度良かったからだ。

折角なので、昼ご飯をタッパに詰めて外で食べようかとも思っていた。

日が暮れた後の散歩も乙ではあるんだけど、ご飯を食べてのんびりするなら日がある内がいいだろうと、俺は一番早くに教室を出た。


圧倒的な早さだと思った。

静かな廊下になんだかテンションが上がって、これが韋駄天走りだと独り言ちてまでいた。

なにせ、ここに来るまで他の生徒を一人も見掛けなかったのだから、そう思うのは当然だろう。

しかし、蓋を開ければこれだ。

俺よりも早い人がいた。

無人だと思っていた駐輪場に矢谷さんが君臨していたのだ。


もしかして駐輪場までの隠し通路とかあるのかな……?

なんとも涼しげな美人である矢谷さんが、ここまで必死に走っている姿は想像出来ないし、たぶん何か裏技的なものがあるのだろう。

今度、友達作りのついでに伝授してもらえないか頼んでみよ。


「ねぇ追崎さん。その、よかったらなんだけど……お昼一緒に食べて帰ったりしない?」


「あー……ごめん、用事がある」


「……そっか」


ずっと嬉しそうに微笑んでいた矢谷さんは一転、見ているこっちが悲しくなるほどしょんぼりとしてしまった。

凄まじい罪悪感。

捨てられた子犬がこっちを見て尻尾をふっているのに、見て見ぬ振りをするような感じだった。


すぐにでも前言を撤回して、ご飯でもなんでも付き合ってあげたくなるが、俺にもやらねばならないことがある。

そう、重要なお使いという用事があるのだ。

お給料までいただいているのだから、当然サボるわけにはいかない。


「その用事って、私がいたら邪魔?もし私でも手伝えることだったら、手伝わせて欲しいんだけど」


「んー……」


「……お願い。付いて行っちゃ駄目かな?」


じわりじわりと近付きながら、恐る恐るといった様子でこちらを伺う矢谷さん。

俺としてはありがたい申し出である。

自転車のカゴが二つあれば、帰り道に買った物が潰れたり、落としたりしないで済むだろう。

丁度良く、今日は多めにお駄賃が手に入りそうだし、それで何か買ってあげてお駄賃としようか。


「じゃあ、お手伝いお願いするよ」


「う、うんっ!ありがとう!私、頑張るから!」


「頼もしいなぁ。でも、そんなに頑張ることはないと思うよー?」


俺は矢谷さんの気合の入り様に小さく笑いながら、自転車に跨った。

二人一緒になだらかな坂を駆け下りて、国道に突き当たったところで右に曲がる。


「追崎さん」


「んー?」


「もし用事が早く終わったらさ……ご飯行けたりする?」


「行けるよー。というか、それなら先に食べに行こう」


「えっ、いいの?」


俺は鷹揚に頷いた。

先に食べてから買い物にいかないと、生鮮食品が傷むかもしれないし。

父さんが作ってくれた昼飯は、三時の間食として散歩の途中でいただくとしよう。


「じゃあ追崎さん、こっちこっち!」


道案内をする矢谷さんは笑っていた。

背の低い街並みの上に広がる淡い青と山に芽吹く薄い緑。

それらを背景にしても霞まない、晴れ晴れとしたその笑顔を彼女は俺だけに見せている。






――――――――――――――――――――






矢谷さんに案内されるまま五分ほど自転車を漕いで辿り着いたのは、昨日の土手道を過ぎて橋を渡った先にある小さな公園だった。

ペンキを塗り直したばかりなのだろう。

そこにある遊具はどれもが色鮮やかで、ここにも並んでいる葉桜と舗装も芝も施していない土の地面がよりそれらを際立たせていた。


すぐ近くにある山のざわめきがよく聞こえる。

俺達以外に誰もいない。

だからだろうか。

この公園の空気が、俺達を優しく歓迎してくれているような気がした。


自転車を置いて先導する矢谷さんに続きつつ、きょろきょろと周りを見る。

食べに行こうと言うもんだから、何処かの店に入るのかと思っていたけど、どうにもそれらしいものは見当たらない。

はて、こんなところに飲食店なんてあっただろうか?


「はい、追崎さんここに座って」


長椅子の座面を軽く手で払った矢谷さんに促されるがまま、俺はそこへ腰を下ろす。

矢谷さんも俺が座ったのを見届けてから同じ長椅子に腰を下ろした。

彼女と空白と俺。

俺達の間には昨日と同じくらいの隙間が、ぽっかりと空いている。


休憩かな?

ちらりと様子を伺うと、隣の矢谷さんは神妙な面持ちで深呼吸をしていた。

たぶん、そうなんだろう。

まあ、後に控えてる買い物も散歩も急がないといけないものじゃない。

寝不足と学校での緊張で、俺もちょっと身体が怠かったから丁度いい。

小さな頃に花見で訪れて以来、一度も来ていなかったこの公園の景色を楽しむとしよう。


「……こ、これ」


「ん?」


流れる時間に身を任せ、眼前に広がる風景と過去の情景を重ねていると、矢谷さんが何を差し出してきた。

銀色で四角い。

そんな箱らしき物だった。

何も考えず受け取った俺は、思わず首を傾げる。

急にどうしたんだろうか。

というより、これはなんだろう?


「お、おぉ……!」


とりあえず膝に乗っけて上蓋を取ってみると、綺麗に並べられた料理の数々が俺の目に飛び込んできた。

料理がまるっきり駄目で全然作らない俺でも、それが一つ一つとても丁寧に調理されて盛り付けてあることが分かった。

目の錯覚かもしれないけど、箱の半分を占めるご飯でさえつやつやとして輝いて見えるくらいだ。

漂ってくる匂いも俺の食欲を激しく刺激する。

美味しそうという他に言葉がない。


俺はいつの間にか手に持っていた箸を、そろりと料理に伸ばした。

そうだな、まずはこのえんどうと人参が目に鮮やかな筑前煮からだ。


「…………!」


驚いた。

びびった。

いや、本当に。

言葉が出なかった。

でも、箸は止まらず動き続ける。

それくらい美味しかった。


まさか父さんと瑞樹姉さんの料理以外で、こんなに美味しいと感じることがあるなんて想像していなかった。

俺は夢中で箸を進める。

この料理の数々は、きっと誰が食べても美味しいと言うだろう。

でも俺にとってはそれ以上だ。

絶品である。

なにせ、この味付けが俺に合っている。

ドンピシャなのだ。

それは父さんと瑞樹姉さんが熟知している俺の好みを、矢谷さんも知っているかのような的確な味付けだった。


「かぁー美味かった!ご馳走さま!」


これまた知らぬ内に持っていたコップを一気に煽ってから、俺は箸を置いた。

麦茶の香りと仄かな苦みが鼻から抜けて、口の中にはなんともいえない爽やかさだけが後に残っている。


いやぁ美味かった。

自分の感想にうんうんと一人頷く。

矢谷さんは間違いなく、俺が今まで出会った料理人の中でもトップファイブにランクインするだろう。

献立も良かった。

筑前煮にほうれん草の白和え、甘い卵焼きとぶりの照り焼き等々。


「ん、んん……?」


よく考えれば、弁当の中身は俺が好きな物ばっかりだった。

苦手な食べ物は一つも入っていない。

卵焼きとかは弁当の定番料理だから入っていても不思議はないけど、筑前煮はどうだろうか。

一般的な高校生の弁当箱に入っている物か?

いやいや、珍しいだろ。

そこまで他人の弁当を見たことがあるわけじゃないけど、入っているところなんて見たことがない。

小さな疑問を感じた俺は、答えを求めるように黙ったままの矢谷さんを伺った。


「え、えっとぉ……」


俺は困惑した。

目の前には矢谷さんがいる。

でもさっきとは少し違った。

優しく垂れ下がった眉と穏やかに和らいだ頬。

その下にある整った薄い唇は幸福を象り、慈愛に満ちているようで、それでいてとろけそうなほど甘い眼差し。

そんなふにゃふにゃな表情の矢谷さんがいつの間にか現れて、俺のことをじっと見ていたのだ。


「追崎さん、そのまま―――」


ポケットからティッシュを取り出した矢谷さんがそう言った。

白くしなやかな左手が俺の頬に伸びて、優しく添えられる。

右手は手慣れた様子で俺の口元を軽く撫でて去っていく。


「…………え?」


「ふふっ」


呆然とする俺に、彼女はより一層柔らかく微笑んだ。






―――――――――――――――――――――――






鞄を背負った俺達は、買い物袋をガゴに入れて二人並んで帰路についていた。

図書館の駐車場を抜けて、歩いていれば気付かないほど地味な坂道をのんびりと上っていく。

車の往来は殆どない。

後ろに見える国道にはそこそこの交通量があるけれど、一本横に逸れてしまえばど田舎の道なんて何処もそんなもんだ。

中途半端な時間帯も相まって、俺達が走る道は歩行者天国みたいなものだった。


「そろそろ何にするか決まった?」


「うー……ごめん、もうちょっと待って」


矢谷さんはそう言って、またうーうーと唸り始めた。

彼女は今、俺からもらうお礼を何にするかで頭を抱えんばかりに悩んでいるところだ。

これなら内容を決めてあげた方が良かったのかもしれない。

スーパーを出てから、ずっと真剣な面持ちで思考を巡らせている矢谷さんに俺はそんなことを思った。

本当は買い物ついでに好きな物を買ってあげようと考えていたんだけど、


「無理、絶対に無理。追崎さんにお金を使わせるなんて私が耐えられない。というか、それならむしろ私が何か追崎さんに買ってあげたい。ねぇどれがいい?欲しい物があればなんだって―――」


なんて長々と反論されて、断固として受け入れてもらえなかったのだ。

しかし、今回は俺もそのまま引き下がるわけにはいかなかった。

こっちは買い物を手伝ってもらった上に、弁当までご馳走になっているのだ。

これだけのご厚意、お返しをさせてもらわないとこっちも気が済まない。


俺は断固たる決意を持って、矢谷さんの説得に取り掛かった。

なかなか厳しい戦いだった。

何度も押し切られそうになった。

買い物の会計を矢谷さんが払ってしまいそうにもなった。

そんな苦境に立たされた俺が苦し紛れに、


「助けてもらったのなら礼をするのは当然のこと……ってあれ?これ、なんかどっかで聞いたような……?」


なんてつい最近聞いたばかりのような言葉を発すると、それまで立ち塞がる大岩の如く一歩も譲らなかった矢谷さんは、何故か慌てて条件付きながら俺の提案を受け入れた。

その条件は金がかからないこと。

なるほど、と俺は感心した。

人間関係というのは、金銭が絡むとどうしてもいざこざが生じやすい。

世の中でもその手の話は溢れていて、枚挙に暇がない。

俺としても転校した今の高校で、初めて話が出来るようになった矢谷さんと関係が悪くなってしまうのはとても寂しい。


だから俺はその条件を飲んだ。

じゃあ矢谷さんがして欲しいことを言ってくれたらそれをするよ、と。

そう言った時の矢谷さんの反応は、まあころころと変わってなんとも忙しそうだった。

あたふたとすれば次には考え込んで、にやけていると思ったら頬をうっすらと染めてちらちらとこちらを伺ったりしていた。

そして、それから今に至るまでずっと彼女はうーうーと唸りっぱなしなのである。


「……よし、決まった」


「ん、何にする?」


「追崎さんの連絡先を教えて欲しい」


「え?」


そんなのでいいのかと目で問うと、矢谷さんは小さく、でもしっかりと頷いた。

連絡先を教えることがお礼になるのか些か疑問だったが、彼女がそれを求めているのだからいいのだろうと自分を納得させる。

矢谷さんがいそいそと制服の内ポケットから携帯を取り出した。

きらきらと光る瞳が、俺の視線と重なったのを確認してから口を開く。


「じゃあ、市外局番からぜろ―――」


「ちょ、ちょっと待って」


「―――ん?どした?」


「市外局番って……もしかして固定電話?」


「そうそう、家の電話」


「携帯は?」


「持ってない」


「……お願い、変えていいかな?」


「そんなっ!固定電話に何の罪がっ!?」


話し合いの結果、俺は明日から矢谷さんが作ってくる弁当の味見役を拝命することとなった。

これではお礼をするどころか、俺の方が得をしてしまっている気もするけど、


「お願い、聞いてくれるんだよね?じゃあもっと美味しい料理が作れるように、追崎さんの弁当で練習させて」


と言われては断ることが出来なかった。

今のままでも十分以上の腕前なのに、それ以上を目指す高い向上心。

こちらを見据えて静かにやる気を燃やすその姿は、料理によほど強い思い入れがあるのだろうと俺に感じさせた。

ならば、俺も出来うる限り彼女の願いに報いるとしよう。


「謹んで、その役目お受けいたします」


「こ、こちらこそよろしくお願いします」


頭を上げた俺の後に、矢谷さんはたどたどしく頭を下げる。

なんだか懐かしかった。

そのぎこちなさが昔の自分に重なり、俺はつい小さく噴き出す。

顔を上げた矢谷さんが不思議そうにこちらを見てくるけど、笑いかけて誤魔化しておいた。


父さんが帰ってきたら味見について色々聞いておこう。

少しでも為になる感想を言えた方がいいだろう。

そうだ、父さんに作ってもらっている昼ご飯を食べてもらうのもいいかもしれない。

美味しい料理を作るには、まず美味しい料理を食べる必要があると何処かで聞いたことがあるし。


「……あれ、矢谷さん?おーい、矢谷さーん?」


束の間の考え事から帰ってくると、どういうわけか矢谷さんがこちらを見たまま固まっていた。

呼び掛けてみるけど、うんともすんともいわない。

完全な放心状態だった。


一体、彼女の身に何があったのか。

事態をさっぱり把握出来ずに首を捻る俺。

魅入られてしまったかのように、ぴくりとも動かない矢谷さん。

狭い道路の端で俺達は沈黙する。

遠くの山から響いているのだろうパーンという猟銃の銃声が、俺の耳にはいやに近く聞こえていた。





 

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