第6話 いやはや実に悩ましい
暗闇と同化した世界から、掬い上げられるような感覚。
それと同時に、どこか遠くから聞こえてくる電子音。
そのけたたましい音がゆっくりと、でも確実に境界線を削りだしていく。
黒に塗り潰された世界が徐々に色を取り戻していく最中、
「ぅ、そぉ……」
俺は開口一番そう言った。
どんな理屈かわからないけど、どうしても俺はそれを信じられなかった。
「もうおきるじかんとかさぁ……ぜったいうそだからぁ……」
俺の頭は、「いやだいやだ」だの「まだだ、これちゃう」だのと、意味のない言葉を何度も反芻する。
それが無駄な抵抗だと理解していてもなお、縋り付かずにはいられなかった。
「ねむね、むねむねむむ……」
重い手をのろのろと動かし、ほぼ無意識で目覚ましを止めた。
力尽きたように崩れ落ちると、枕にぼすんと沈み込む。
からだめちゃめちゃだるいんですよぉ、あははー。
霞んだ意識の中で俺は自棄になって笑っていた。
こんなにも身も心も怠いのは、転校初日の学校がそれだけ俺にとって負担だったということだろう。
「んぁー……」
気の抜けた唸り声。
寝起きの頭でも考えしまうことは、芽生えたばかりの二つの悩みの芽。
言い付けられたことと、矢谷さんのこと。
学校生活ってどうなれば楽しいんだろう。
楽しくないとの境界線ってどこなんだろう。
矢谷さんは何故、あんなことをしたんだろう。
なんで昨日はあんなに必死だったのだろう。
考えれば考える程に新たな疑問が生まれ、どんどん深みに嵌っていく。
なんとも悩ましいことだ。
昨夜、意識が沈む間際まで考えていた問題は、殆ど回っていない今の頭で解消されるわけもなく、何の糸口も掴めぬままにまた騒ぎ始めた電子音に時間切れを宣告される。
俺は騒がしい目覚ましを止めて、這うようにして部屋を出た。
廊下の壁に身を預けながら、足を引き摺ってリビングへ入る。
あぁーいい匂いだぁ。
食欲をそそる香りが、寝起きで鈍っていた嗅覚をくすぐる。
食卓には数品の料理が並べられ、そこではすでに母さんが舌鼓を打っていった。
「どうした?えらく眠たそうだな」
「まぁ……色々あって……」
台所に立っていた父さんが、俺の様子に気が付いて声をかけてくる。
要らぬ心配をさせるのは申し訳ないし、曖昧な返事をしておいた。
瞼をこすりながら自分の席に着いて、とりあえず手を合わせて味噌汁を啜る。
「若さを迸らせるのは仕方ないかもしれないけど、ほどほどにしときなさいよ」
「んぐっ!?そっ、そんなんしとらんわっ!」
「はいはい。そうね、してないわねー」
「ちっとも信じてねぇじゃねぇか!父さんもその顔止めろ!」
分かるよとでも言いたげな顔をして頷く父さん。
まったく、折角こっちが気を使ってやったのに朝から品のない奴等だ。
これならむしろ、要らぬ心配をかけさせてやればよかったのかもしれない。
恨みがましい視線を母さんに送るけど、いつも通りの涼しい顔で流された。
「あんた、今日も帰るの早い?もし早いなら買い物頼まれて欲しいんだけど」
「そりゃいいけど、母さんが仕事終わりに買い物してもいいんじゃないの?」
そう言うと、それまで澄み切った威厳を漂わせていた母さんが、その表情を跡形もなく綻ばせた。
その様子はまるで恋する乙女。
あの母さんがこんな反応することといえば―――
「―――まさか!?」
「そう、今日は着いてきてくれるのよぉー。それに瑞樹ちゃんも一緒!兄妹揃ってよ!いいでしょいいでしょ?あーもう気分が昂って仕方ないわぁ」
「な、なんだってぇー!?」
初耳の情報に身を乗り出すと、母さんはそれまで蕩けさせていた表情を意地悪そうなものに変えた。
こいつ、俺が先日一人で挨拶に行ったことを根に持ってやがる!
な、なんて器の小さい女なんだ。
これが自分の母だとは思えない。
「……待て。父さん、その顔はなんだ?そのまるで、敗者を憐れむ勝者みたいな顔はなんだ!?」
「いや、それがなー?俺も、なんだよー。ははっすまんなぁ」
「こ、この裏切り者ー!!」
俺の叫びをそよ風のように受け止め、ニヤニヤしながら光栄だと返す父さん。
もう失望した!
わたくし幸治は、この夫婦に心底失望しました!
「あの二人を、うちの買い物になんて付き合わせるわけにいかないでしょ?だから幸治、頼めるわよねぇ?」
「ぐぬぬぬっ……」
憎たらしく煽る母さんに一矢報いたいところだけど、一本も矢がない俺には無理な話。
精一杯の抵抗として、「お駄賃は貰うからなっ!」といってやるくらいだった。
「じゃあよろしく。これが買い物のお金ね。余った分は好きにしなさい」
そう言って、差し出されたのは五千円。
俺の動きがぴたりと止まる。
た、大金だ。
財布の中にはいつも五百円くらいしか入っていない俺にとって、それは目が眩むような金額だった。
震える手で札を掴んで窓に向ける。
ちゃんと透けてる!
え、えらいこっちゃ、こりゃモノホンだぎゃ!
慄く俺は、優雅にお茶を飲む母さんをちらちらと盗み見た。
食料品で五千円とは大盤振る舞いが過ぎる。
高級品でも買うつもりか?
国産牛か?
いいや、何の記念日でもないのにそんなことはないはず。
買い溜めをするにしても俺は自転車通学だ。
一袋分しかカゴに入らない。
きっとそのくらい、承知の上だろう。
ならば、相当な金額が余るはず。
まさか敗者への哀れみのつもりか?
これで駄菓子でも食ってな坊主ってことか?
「ほ、施しは受けない!俺は気高き―――」
「なら余りは返しなさい」
「―――慎んで使わせて頂きます、お母様」
朝食の味は敗北の味だった。
悔しい、けど美味しい。
「そりゃありがとさん。今日の昼飯、冷蔵庫に入れとくぞ」
台所に立っている父さんが、美味そうな料理が乗った皿を見せてから冷蔵庫へしまった。
……ちょっと待て。
目をこする。
けど見せられた皿は、どう見ても一枚しかない。
おかしい。
そこには二枚の皿が並んでいなければならない。
それは俺が大食漢だからというのではなく、もう一人分必要だということだ。
この家は四人家族。
母さんと父さん、それに俺と弟の四人だ。
つまり、本来はそこに俺と同じように早上がりの弟の分もあるはずなのだが、どうにも見当たらない。
働かない頭をフル回転させ、そこから導き出された推測は、
「まさかっ!?」
「連れていけるわけないでしょ。和幸(かずゆき)は弁当よ」
「な、なんだ……驚かせよって」
あぁよかった、弟の和幸も負け組か。
俺は心底安堵してため息を吐く。
負け組が俺だけじゃなくて本当によかった。
もし俺だけだったら、通学中に心が折れて野垂れ死にしていたかもしれない。
あと母さん、しれっと俺の考えを読むのやめてもらっていいですかね。
「ん、これが買い物リストね」
「……多くない?これ自転車のカゴに入る?」
「荷崩れは気にしないから、上手いことして入れなさい。お父さんご馳走様ー」
「あいよー」
年甲斐もなく浮かれる母親は、鼻歌と共に自室へ引っ込んだ。
静かになったリビング。
ちらりと食器を洗う父親を伺うと、同じく浮ついた顔をしていた。
俺が目の下を黒くしているというのに薄情な両親である。
今度、瑞樹さんに言いつけてやろうか。
「父さん、ご馳走様」
朝食を済まし、洗面所で顔を洗うが意識はまだ霞みがかっていた。
間違いなく寝不足だ。
鏡に映るその顔が、何よりの証拠だった。
どうも昨日から上手くことが運ばない。
学校を楽しむというお題に悩みは尽きないし、クラスでは浮いてる感が否めないし、トイレ掃除係にもなるし、昨日結局瑞樹姉さん達のところへ行けなかったし、微妙に落ち込んだ俺を差し置いて両親は浮かれきっているし。
あぁ、なんてことだろう。
慎ましく生きている俺が、どうしったってこんな目に合わないといけないんだ。
「あぁ、もう駄目だ!母さん俺も付いていくぞ!」
「はぁ?あんた学校は?」
「や、休む!」
「それで瑞樹ちゃんが許してくれると思ってんの?」
「……いってきます」
「道中、気を付けなさいよー」
一縷の望みは呆気なく粉砕された。
清々しい笑顔を浮かべる母さんに見送られ、とぼとぼと裏口から家を出る。
自転車を押して歩くと、今日はやけに重たく感じた。
そんな俺を風が慰めるように撫でていく。
空を見上げれば、俺の心中とは反対に突き抜ける淡青がどこまでも続いていた。
そうだ、切り替えていこう。
まだ高校生活は二年も残っているんだ。
急げば事を仕損じる。
千里の道も一歩から。
色々と試行錯誤してけばいいじゃないか。
晴天に励まされ、俺の意識が覚醒していく。
「……お、おはよ」
「おはようございます。今日もいい天気ですねぇー」
よしよしと心機一転、気合を入れているとご近所さんから挨拶をいただた。
俺は東空に浮かぶ雲を眺めながら、反射的にお返しする。
はて、この声どこかで聞いたような……?
そんな考えがふと浮かぶ。
いや、ご近所さんなんだから聞き覚えがあって当然なんだけどさ。
聞いたことのある中でもこう、真新しいというか。
謎の違和感を覚えながら、俺は視線を空から落とした。
「一緒に行こうと思って来たんだけど……駄目、かな?」
「な、なして……っ!?」
「いや、だから一緒に学校行こうと思って」
そこにいたのはご近所さんなどではなく、朝の澄んだ空気がよく似合う女性。
今日もお綺麗な矢谷さんだった。
俺はかなり驚いた。
どうしてここが……なんてことは言わない。
昨日一緒に帰って分かったことだけど、偶然にも矢谷さんと俺は同じ町の住人だったからだ。
しかも、地区は違うけどお互いの家はかなり近い。
自転車なら五分とかからず辿り着ける距離だ。
家の位置を覚えようとしなくても、勝手に頭に入ってくるくらいの至近距離である。
「どうしたの?」
俺の様子に首を傾げる矢谷さん。
可愛い。
いやいや違う。
ここからが問題だ。
俺は矢谷さんと待ち合わせの約束はしていない。
昨日、そんな話は一切でてきてなかった。
だから俺が少し早めに家を出るなんてことは、露程も知らないはずなんだ。
なのに彼女はここにいる。
自転車のスタンドを立て、鞄をカゴに入れ、正しく制服を着こなし、俺をじっと見つめている。
完璧な佇まいだ。
慌ててここへ来た様子はない。
俺は戦慄を覚えた。
一体、いつからここで……!?
つまるところ、俺の驚いたのはここだった。
その驚きのあまり、踏み外した自転車のペダルが脛に直撃する。
かなり痛い。
「う、うぅ……」
俺は呻った。
じんじんとした脛の痛さと、ちくちくとした心の痛みで思わず声が出た。
申し訳がない。
友達作りを手伝ってくれる救世主のような矢谷さんを、春とはいえどもまだ肌寒い空の下で待たせてしまうとは無礼千万もいいとこだ。
「大丈夫?そんなに痛かったの?」
「いえ……その、私め(わたくし)のことなどお気遣いなく」
「な、なんで敬語にするのっ!?」
小走りで近付いてきた矢谷さんは、何故か俺の敬語に酷く狼狽していた。
とても綺麗な髪が、忙しい動きに合わせて肩辺りでさらさらと揺れる。
仄かに甘い香りが心をくすぐる。
それは、再び芽吹いた罪悪感をゆっくりと大きくしていくのだった。
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