第5話 美しい鶴の恩返し

 





花を散らして青々とした葉をつけた桜が、遠く向こうまで並ぶ土手道。

そこへ適当に自転車を置いて、緩やかな斜面に広がった新緑の絨毯に腰を下ろす。

転校早々に悪目立ち。

許容しがたい現実に、俺は眼前に広がる河川と山々を呆然と眺めた。


突然現れた彼女がさらりと落とした爆弾。

それは校庭にいた数少ない生徒達の視線を独り占めするには、十分過ぎる威力を持っていた。

視線が突き刺さるなんて言葉があるけど、あれはまさにそれだ。

思い出しただけで、背中に嫌な汗が滲んできょろきょろと目が泳いでしまう。


あぁ、俺は明日からどうなってしまうんだ。

想像するだけで頭が痛い。

思春期真っただ中である高校生達が、あんな出来事を黙ってなんかいられるだろうか。

いや、絶対に無理だ。

そんな事、考えるまでもない。

少なくとも俺が当事者ではなく他人だったら、好奇心を抑えられずに質問の嵐を浴びせるだろう。

それで友達と情報を共有して、あらあらやだやだと与太話に花を咲かせるに違いない。

まぁ、そんな友達は今の高校にいないんですけどね……。


「ぐ、ぐふっ!」


「えぇ!?だ、大丈夫!?」


「もぅ……ムリ……」


過酷な現実を直視した俺は、耐えきれず新緑の絨毯に倒れ込む。

友達ゼロ人。

文字にしてみるとなかなかこう、心にくるものがあった。

一種の爽快感まで感じるくらいだ。

さらにそんな状態の俺が友達をたくさん作って、青春を謳歌しようだなんて考えていたことが、弱った心に追い打ちをかける。

捕らぬ狸の皮算用とは、正にこのこと。

友達の一人も作れそうにない状況で、そんな妄想をしていた自分が恥ずかしい。

雑草がちくちくと刺さるのも気にせず、俺は顔を大地に埋めた。

もう無理、穴があったら入りたい。

あぁ誰か、この愚かな俺をお救いください。


「き、救急車っ!」


「それはやめて」


激しく狼狽した彼女から携帯電話を取り上げる。

救いが欲しいっていっても、救急車の救いは無用なんですよ。

こんな元気なのに救急車なんかで運ばれたら、今度は違う理由で転校することになっちゃうよ。

傷に塩を塗るのはやめなはれ。


「どうしようっ!追崎さんいなくなっちゃう!また―――」


冷静さを失った彼女は顔を青くして、俺に手を伸ばしては引っ込めてを繰り返す。

その表情は不安に恐怖、そして怯えが入り混じった酷く危ういものだった。


俺は自分の過ちに気が付いた。

瑞樹姉さんのお陰で改善しているとはいっても、昨日まで不安定な精神状況であった彼女にあんな姿を見せていいはずがない。

今までを乗り越えたからといって、これから何があっても平気ってわけじゃないんだ。


俺はすぐに身体を起こした。

雑草を制服に付けたまま、さっきまでのは冗談なんだと笑って見せる。

それでも泣き出しそうな彼女に、俺が「あ、あいむ、べりーおっけぃ!」なんて壊滅的な語学力を披露すると、幾分かその面持ちは和らいだ。


「ささっ、立ったままでは話しにくいですから、お掛けくださいな」


「は、はい……失礼します」


すかさず着座を勧めると、彼女は素直に従った。

俺の隣にまるで誰かがいるように一人分の空白を空けて、おずおずと腰を下ろす。


「あーえっと、その……さっきの件なんですけど、あれは言い間違えとか人間違えではなく……?」


「はい。他の誰でもない、追崎さんに私は使ってもらいたいんです」


「そ、そうですかー。はっ、はは……」


乾いた笑みが口につく。

事ここに至っても縋り付いていた一縷の望みは、恐ろしく凛然とした表情で俺を見据える彼女に、いとも容易く打ち砕かれた。


これは駄目だ。

受け入れてはいけない。

こんなうら若き乙女からの、好きに使っていいだのという甘美な提案を一度でも受け入れてしまえば、人様に見せるどころか話す事さえ憚られる、めくるめく官能の世界へ飛び出してしまうに決まってる。

そうなれば俺は名実共に正真正銘のド畜生だ。

そんな奴が、家の皆と一緒に居ていいわけがない。

幸治、一時の欲に身をやつしてはならんぞ。


そもそも、この提案は無謀過ぎる。

男ならばまだしも、女性である彼女が自分を好きにしろなんてあまりに危険だ。

一体、何が彼女にそこまで言わせているんだ。


「追崎さんがいてくれなければ、私は待ち望んだ今日を迎えることは出来ませんでした。幾ら感謝してもしきれません。だからこそ、ご恩返しがしたいんです。助けてもらった私の全てを使って」


疑問をそのまま言葉に変えると、彼女は一片の躊躇いなくそう答えた。

俺は嬉しかった。

一度は手放そうとした彼女が、自分の意志で再びそれを掴もうとしている。

それが他人の事なのに、自分の事のようにたまらなく嬉しかった。

同情か、それとも他の感情からなのかは分からないけど、まぁそんなことどうだっていいだろう。

じんわりと温かで柔らかな思いが胸に広がる。

でも、それと同時に俺の中では罪悪感が首をもたげていた。


「いやーでも、そんな大したことはしてませんし……そのお気持ちだけでも十分です……よ?」


実際、俺がしたことなどたかが知れている。

後ろから抱き着いて、数メートル下がって、後は背負っただけで、他は瑞樹姉さんに任せっきり。

お礼など、折り菓子がもらえれば御の字といった程度の活躍だ。

むしろ、世の男性が求めて止まないあの弾力を、服越しとはいえ味合わせていただいた俺の方が、何かお礼をすべきかもしれない。


「そんなことありませんっ!追崎さんは私を救ってくれました!……お願いします。どんな扱いも喜んでお受けするので、どうかご恩に報いる機会をください」


「で、でも……ほら、こっちが勝手にしたことなんで、ね?そんなご恩だなんて深く考えなくても……」


「いいえ。追崎さんの理由がどうであれ、助けてもらったのは事実です。そして、助けてもらったのならお返しをするのは当然のことだと思います」


「ま、まぁ確かに―――はっ!いやいやっ!そうかも、しれませんけど……お返ししてもらうにしても、もっとこう、軽いので良いといいますか……」


「支払われる対価は相応であるべきだと思います。そうでなければ追崎さんが損をしてしまいますし、私は追崎さんに負い目を感じてしまう。これでは、お互いを不幸にするだけです。今回、私は命を救ってもらいました。ならば、お互いが幸せになる為にもその対価はこの救ってもらった命で払う他ありません」


「ぐ、ぐぬぅ……」


だと言うのに、どうしてこれほど大層な恩を売ったことになってるんだ……。

次から次へと繰り出される彼女の強引な話術に、俺は思わず言葉を詰まらせる。

その後もやんわりとお断りを入れるのだが、彼女は決して引き下がらない。

狼狽えながらもなんとか凌ぐ俺と、いくら断られてもめげずに攻勢を仕掛ける彼女。

俺達は互いに譲らず、解決の糸口すら掴めない状況が続く。

話は平行線。

このまま消耗戦に移行するものだと、その時の俺は思っていた。


「絶対に、絶対に追崎さんの役に立って見せます!損はさせません!お願いします!」


「といっても、その、困ってることも……ないですし」


続く押し問答に、俺の方は言い訳が苦しくなってくる。

勢いに押されながらも何とか吐き出した言葉は、まったくの嘘だった。

昨日までなかった困っていることはまさに今日、山ほど出来たのだ。

しかし、怒涛の攻勢とそれを受け入れた先に待ち受ける悪逆非道な汚名を回避する為、俺は心を鬼にする。


「……追崎さん、こちらに帰ってきてまだ日が浅いんじゃないですか?」


「えっ?あ、はい。よくご存じ―――」


「―――なら学校のことで困ってますよね?」


「うぅ!?」


な、なぜバレた!?

彼女は俺の嘘を易々と看破して、痛い所を的確に突いてきた。

言葉に詰まる。

疑問形ながらも確信めいた口振り。

それはまるで、俺の考えなんてお見通しなのだと言われているようだった。


「学科は違いますけど、追崎さんと同じ二年なんで色々と力になれるはずです。たとえば学校の案内とか、特有のルールとか、近寄らない方がいい場所や人も教えることが出来ます。それに―――」


「そ、それに?」


宝箱だった。

身体が前のめりに傾いた。

彼女が並べる言葉は、俺の知っておきたいと思っていたものばかり。

学校生活を円滑にこなす為の情報。

是非ともご教授願いたい。

そんな俺の内心を表すように、今まで変わらなかった彼女との距離が少しだけ近くなる。


「―――追崎さんが早く周りに馴染む為のお手伝いだって出来ます」


何故か彼女は数瞬だけ頬を緩めたが、すぐに凛とした面持ちを取り直してそう言った。


「な、なんと……!そんなことまで……!」


「どうでしょうか?私なら困っている追崎さんの力になれます。自身の為にも、全てを私だけに任せてください」


「……でも、一筋縄じゃいきませんよ?ほら、俺ってこんな感じですから、かなり手間が掛かると思うんですけど……」


「大丈夫です。むしろ私的にはそのま―――」


そこで彼女は慌てて言葉を区切った。

むしろ、なんなのだろう?

その先が気になって聞こうとしたけど、彼女は強引に話を進めた。


「んんっ!兎に角、大丈夫です。安心して私に任せてください。絶対に悪い様にはしませんから」


「うーん……よし分かった!じゃあ貴方にお任せちゃいますっ!」


「あ、ありがとうございますっ!!」


澄んだ瞳を潤ませて頭を下げる彼女に、俺は鷹揚に頷いて返した。

うんうん、よかったよかった。

彼女に手伝ってもらって友達が作れれば、高校生活を楽しむという目標の第一段階は達成だろう。

最初の難関で挫折して、受け賜わった言い付けを果たせず、ごめんなさいをする危機はこれで去ったわけだ。

そう思うと心の中で立ち込めていた、重い暗雲が嘘のように晴れていく。

あぁ清々しい。

この晴れ渡った大空のような心境なら、どんなことがあろうとも「まあいっか」で済みそうだった。


「追崎さんに全身全霊を捧げて、全てのお世話をさせていただきます!これからまた、よろしくお願いします!」


「ん?んんー?」


おかしい。

何かがおかしい。

俺は首を傾げる。

この世の幸せを全部集めて、そこに詰め込んだような笑顔を見せる彼女が斜めになった。

いつの間にやら、俺の世話を彼女に任せる話になっている。

さらに、そこには『全ての』なんて物騒極まりない文言まで加わっていたりする。


まったく、これじゃ俺が一人で何も出来ないダメ人間みたいじゃないか。

って、いやいや、問題はそこじゃない。

そうだ、話に食い違いが起きているんだ。

いけない、早く訂正しないと彼女を落胆させてしまう。


「あのぉ、やる気になっているところに水を差すようで申し訳な―――」


「追崎さん」


「―――え?あ、はい」


俺の言葉はまた遮られた。

遮った彼女は、今まで自分からは侵そうとしなかった一人分の空白に踏み入る。

その雰囲気は歓喜を爆発させていたさっきまでと違い、酷く真剣ながら何処か怯えたものへと変わっていた。


「追崎さんと私は同級生で同い年です。それなのに、敬語を使い合うのは不自然じゃないでしょうか?」


「う、うーん?まぁ、そうかも?」


俺としては年上だろうが年下だろうが、たとえそれが敬う必要を一切感じない人間であろうとも、敬語を使うことに違和感はない。

昔はあったんだけど、あっちに行ってからは特に感じなくなっていた。

それが俺にとって日常であり、普通になっていたんだ。

だけど彼女にこう言われてみると、確かに少し違和感を感じた。

同じ学校の同級生同士。

どちら共がそう認識しているのなら、敬語を使うなんて考えは端(はな)から頭を過らないだろう。

普通はそうなのだと思う。

ならばため口で話す方が自然で、敬語は不自然ってことになる。


「ですよねっ!それで、その……私達も敬語をやめてみたらどうかな、と。も、もちろん、追崎さんが嫌なら私は敬語を使い続けますから!」


いや、その方が不自然だよ。

同級生同士で片やため口で片や敬語ってのは、如何にも後ろ暗い訳アリ関係じゃないか。


「いいですよ、敬語なくても」


「いいんですかっ!?」


「は、はい……」


ぐいぐいと押し寄せる彼女は、「本当に本当ですか!?」とか「やっぱり駄目とかなしですよ!?」とか、そんな詰問にも似た語調で言葉を投げつけくる。

なんともまぁ凄まじい迫力である。

吹けば消えてしまいそうだった昨日の彼女とは大違いだ。

そんな剣幕に気圧された俺は、ただこくこくと頷いた。


「じゃ、じゃあ今日から……よろしく、ね?えっと……」


再び口元をだらしなく緩めた彼女は、思い出したように口を閉じて逡巡する素振りを見せた。

今度は一体、何を考えているんだろう。

俺は咄嗟に身構える。


「……追崎さん」


しかし、出てきた言葉は今まで通りの俺の名字。

肩透かしを食らったようだ。

苦笑いと少し沈んだ声。

本当にそれ以外、何も変わらなかった。


「あ、うん。よろしく……あっ、名前……」


手をポンと叩いた。

そういえば、俺はまだ彼女の名前を知らない。

自己紹介が出来る落ち着いた時間なんて、今の今までなかったからだ。

俺は面と向かって、貴女の名前知りませんでしたというのはどうにも気が引けて、ちらちらと伺うように彼女を見た。


「……そう、だよね」


そこには歓喜に沸く彼女も、口元を緩めた彼女も、さっきまでいた苦笑いの彼女もいなかった。

いたのは肩辺りまでの髪を垂らして、顔を隠すように俯いた彼女。

深く沈んだ声が地面に落ちていく。


俺は慌てた。

何か悪いことを言ったかな?

名前を知らないってのは失礼過ぎたかも?

駄目だ。

分からない。

でも取り合えず何でもいいから声をかけようと意を決したが、その前に彼女が顔を上げた。


「あぁごめんね、何でもないから。えっと、それで私の名前は……矢谷(やたに)。うん、そう私は矢谷(やたに)っていうの」


「お、おぉそっか。俺は知ってるだろうけど追崎。これからよろしく、矢谷さん」


「……うん。よろしくね、追崎さん」


それから俺達は二人で帰路についた。

本当は一人で帰ろうとしたのだけど、彼女、矢谷さんにそう告げた途端、荷台を掴んで離してくれなくなったから、結局二人で帰ることになった。

だって不安そうな声色で、それに上目遣いでお願いなんてされたら、断る方が悪者みたいだろう?

まぁそんな訳で、親に付いて行く子供ように、俺の後ろや横をぴったりと付いてくる矢谷さんとの何処か気まずい下校風景が完成したのだった。


「あら?あれ?なんか忘れてるような……?」


「ほら追崎さん、前見ないと危ないよ」


「わっとと!ごめんごめん、ありがと」


縁石に向かっていたハンドルを矢谷さんに修正されながら、そんなことを思い出した。

矢谷さんに言うことがあったような、そんな気がしてならない。

はて、なんだったろうか?

頭を捻ってみるけど、真っ白な壁が邪魔立てして、いくら考えても思い出せなかった。


「……まぁ、いっか」


むず痒いけど仕方がない。

人間はこういった時、思い出しにくくなっているそうだ。

確か、何処かでそう聞いたと思う。

それが本当かどうか知らないけど、今は信用して諦めよう。

忘れる程度のことだし、さして重要でもないんだろう。


「……よしっ」


「どしたの?急にガッツポーズなんかして」


「ううん、何でもないよ?」


何もないのにガッツポーズはしないだろ。

そう思ったけど、口には出さなかった。

俺は空気の読める男なのだ。

幸せそうに微笑む矢谷さんのそんな奇行を見て見ぬ振りをしながら、俺はトンネルへと続く坂道に向かってペダルを踏み込んだ。





 

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