竜は物語を語れない
1 本は本棚に入れるものだと知らないの?
男が帳面から顔を上げたとき、窓から橙色の光が差していた。昼食に弟子が持ってきてくれたパンは一口しか齧っていない。慌てて立ち上がり、小屋の窓を開けると洗濯物はすでに取り込まれていた。書物や帳面が占拠している机から懐中時計を引っ張り出す。ばたばたと本が落ちた。弟子が文句を言いながら片づけた床がまた散らかったが、今はそれどころではなかった。
約束の時間はとっくに過ぎている。
「あぁ……」
男は力なく椅子に座り込む。ごつんと額を机にぶつけ、かけていた眼鏡がずれた。
「川に行く約束をしていたのになぁ」
暖かな春が過ぎ、新緑の季節になった。ここ最近、少女と弟子は魚捕りにはまっている。昨日は罠で捕まえた魚を蒸し焼きにして食べた。魚捕りといっても、少女七歳、弟子は十歳の子どもだ。川で遊んでいるのだろう。帰宅した二人から川の匂いがした。
二人が遊ぶのは微笑ましい反面、心配がある。昨夜、自分も行きたいと言ったところ、弟子からは冷たい視線が刺さったが少女は賛成してくれた。
その結果がこれである。
午後から行く約束だったが、研究経過を書いていたら没頭してしまい、気づけば夕方になっていた。話しかけられたような記憶がうっすらとある。これは男の悪い癖。何かに熱中すると周りが見えなくなってしまう。背もたれに背中を預け、長く息を吐く。二人だけで行ってしまったのだろう。優しい少女は怒らないが心を痛めているはずだ。それは弟子も同じだろう。
腑甲斐無い。二年前に純血の人間の少女を匿ったのはいいが、人の育て方は知らなかった。見様見真似でやってはいるものの、どれが正解なのかさっぱりわからない。せめて二人が帰ってくるまでに夕食を作るべきだろうが、自分の不器用さは嫌でも知っている。皿を何枚割ったのかは数えていない。とうとう弟子に、食器は触るなと怒られてしまった。
「旅をするより、父親になるのが難しいとは」
にゃあ。
まるで返事をするかのように猫の鳴き声が聞こえた。研究室の小屋の扉は閉めたはずだ。魔法生物が逃げないよう内鍵もかけている。とっさに鍵ネズミがまた逃げたのかと瓶を見たが、鍵ネズミは好物の光り物である硬貨を抱いてご満悦だ。すやすやと眠る鍵ネズミに安堵すると、とんっと何かが机に跳んできた。
詰み重なった本の上に、赤色の猫が器用に座っている。手入れされた毛並みのよい長毛種だ。男は瞬きもせずに黒の眼で見据えた。
「やぁ、君か」
にゃあ。
猫は肯定するように鳴き、机を下りた。その瞬間に本が崩れ床に散乱した。
「また床が見えなくなるじゃないか」
男が本を拾い上げ、机に載せていく。猫は男を通り過ぎ、扉の前に座る。急かして鳴く猫に、男は「はいはい」と適当な返事をしながら机に本を積み上げた。
内鍵を開けると、そこにはよく知る森の景色ではなく、庭園が広がっていた。白い鳥籠の東屋で若い風貌の女性が座っている。深紅の薔薇を思わせる長髪は束ねず、ティーカップを持ち上げた指の爪は髪と同じ色に染まっていた。胸元が開いた黒のロングドレス姿で、ティーテーブルで紅茶を飲んでいた女性は男に優雅に微笑んだ。
「ごきげんよう、『語らずの黒竜』」
鮮烈な紅玉の瞳は、未来を見通す力がある。
「やぁ、『紅玉の魔女』。元気そうでなによりだ」
未来を予知する魔女は、賢女とも呼ばれている存在だ。竜と同じ迫害の歴史があり、今では重宝されているが魔女によくない印象を抱く者はいる。国によって違いがあるが、人間とは距離をおいている。人と離れて暮らす魔女は珍しくはなかった。
彼女たちは独自の共同体を築き、情報交換をしている。そのひとつが『魔女集会』と呼ばれるものだが、『紅玉の魔女』ことシィラは集会に顔をださないことで有名だ。魔女の国と異名がある、水の国からの呼び出しさえ断った魔女だ。居住を転々と変え、飽き性で気まぐれで面倒臭がりな性分だ。一部からは『根無し草の魔女』とあだ名をつけられているらしい。
「あなたって、本は本棚に入れるものだと知らないの?」
赤い猫は彼女の使い魔である。猫は魔女の膝に飛び乗り、ごろごろと喉を鳴らして甘えた。告げ口したのはこの猫だ。
「そういう君は、そろそろどこかに落ち着いたらどうだ」
男と魔女は旧知の仲だ。魔女の家から招待を受け、使い魔に案内されたのは何度めだったか。椅子に座った男に紅茶を注がないのは知っている。親しみからだが、一応、客人である。招待とはそういう意味ではなかったかと疑問が浮かんだが、黙っておいた。
「いやぁよ。だって、ずっと同じ場所って面倒じゃない?」
大皿に載せられた焼き菓子を魔女は摘んだ。こんがり焼けたビスケットは弟子の好物だ。
昨年の年末に少女と誕生日プレゼントとして選んだところ、とても喜んでくれた。
「場所を移動させるほうが面倒だと思うけどなぁ」
男は成り行きで弟子ができたが、魔女は弟子を作るよう話がきている。魔女は竜と同じように長命だ。人間に比べれば長く生きている。縛られるのを厭う自由な性格の彼女は、強制されない限り弟子をとる気はないのだろう。
「そうかしら。新しいところって楽しいじゃない。わたしを知っている人がいないのよ」
「君の名前くらい知っている人はいるだろう。魔女を嫌う存在もいるんだ」
男が持ち上げた白磁のティーポットから、薄紅のローズヒップが注がれる。抽出時間を長くすると酸っぱくなってしまう茶葉は、魔女に似ている。
「いつもよ」
「慣れることじゃない」
「あなたのそういうところ、好きよ」
「それは光栄だ」
赤い唇で微笑む魔女を適当にあしらう。彼女の甘言に惑わされた人間は、男女問わず知っていた。
「それで、『私』に何の用かな?」
「今日は父親の顔ではないのね」
「君に父親の顔を向けてもね」
魔女の赤い指先がテーブルに封筒を滑らせた。箔押しの質のいい封筒に男は訝しむ。差出人の名前はない。不器用な手つきで封を切り、手紙に目を通した。
「……シィラ」
男は深く息を吐く。声がわずかに震えていた。
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