全てをしずめる墨の海を揺蕩うのは 03
霊山の山頂に辿り着いたのは、二日後の正午過ぎだった。
「つ……着いた……!!」
そこには、草一本生えておらず、紺碧の水を湛えた湖とそこに打ち立つ鳥居があるのみだった。名残雪が湖の淵に三日月状に積もっており、時たまそれが端から零れ落ち湖面に波紋を広げている。湖の周りには平らに慣らされた僅かな平地があった。
ふらふらと倖姫は青い湖に近づく。竹筒にはもう水は無く、今日は朝に最後の一口を飲んだのみだ。
青い空を映すかのように静々とそこにある水面に直接口を付けることは躊躇われて、倖姫は竹筒をそっと水中へと差し入れようとする。
「倖姫!駄目よ!」
聞きなれた声が、耳を打った。倖姫の手がぴたりと止まる。
「なんだ……やっぱり生きてたんじゃないか」
自分が着ているのと同じ黒い鈴懸を着た蘇皇がそこにはいた。蘇皇は倖姫の姿を見るや走り寄り、竹筒を奪う。
「この青い水は毒のある鉱物が溶けだしているものだから飲めないの。ちょっと待っててね。すぐ水を汲んでくるわ」
蘇皇は猩猩緋の髪を揺らして元気よく走っていき、それから少しして、信じられないものを連れて戻ってきた。
「うわーほんまにひいさまと同じ顔やない!!めっちゃかわええなぁー!!」
背中に大きな黒い翼を生やした修験者姿の少年が、蘇皇を抱えて飛んできたのだ。
聞き慣れない都言葉で話す少年が、ふわりと倖姫の前に降り立った。
「ぽるか、ありがとう」
蘇皇は持っていた竹筒を差し出した。倖姫は一気にそれを飲み干して、大きく息をつく。
「ようこんな高い山一人で登ってきはったなあ……ひいさんといい倖姫といい、どっちも強い子なんやね」
ポルカは感極まったように二人を抱き締めると両手に抱え上げた。
「ここじゃ寒すぎるね。もうちょっと降りよか」
「ええーせっかく登ったのに!」
「ちょっとだけ!ちょっとだけやから!」
頬を膨らませる倖姫を宥めながらポルカが二人を八合目付近まで運ぶ。
丁度倖姫が登ってきた側と反対で、そちら側には背の低い高山植物と、小さく可憐白い花が揺れる斜面が広がっていた。
その真ん中に、斜面から水平に突き出た平たく大きな石がある。そしてその上に、ぽつんと一人座って空を見上げる青年がいた。
白い髪と、裾の長い純白の着物。幾重にも絡まる帯が大きく風に靡いて、青い空に棚引く雲と千々になって混じり合う。
「おーいぼんくら。来たで、もう一人猩猩緋の子が」
白い髪の青年が座る石にふわりとポルカが着地する。
「ほら、こいつが君が会いたかった大神さまやで」
下ろされた倖姫は目の前に座る大きな青年を見上げ、掌を思わずきゅっと握り締めた。
「…………」
白く長い前髪の間から、薄縹と若草色の瞳がこちらをじっと見下ろしている。
「これが、倖姫?」
「そうよ!見ればわかるじゃない。もう、のうぃったら!」
固まる倖姫を余所に、蘇皇がノウィに抱きついた。全く遠慮のない子供の仕草。とても村の大人達に教えられていた『仕える』からは掛け離れている。
「えっ、とあの――」
倖姫はたどたどしい仕草で、片膝をつき、頭を垂れた。
「この度、御焚山が神籬におわす大神に仕えるべく馳せ参じました――」
何度も何度も暗唱させられた難しい言葉が終わる前に、倖姫の視界が真っ青に変わる。
「下ばっかりみてると、ちいさくなっちゃうよ?」
倖姫は出会ったばかりの大神に、赤子のようにたかいたかいをされていた。
「やっ、止めてよ!!」
子ども扱いされて思わず口調が素に戻る、だがノウィは笑って倖姫を下ろすことはない。冗談みたいに澄み切った空と、どこまでも広がる野原の間を倖姫の小さな体が上下する。
「~~やめろって言ってるだろ!!」
「あははははーこうきはおもしろいねえ」
子供の小さな矜持が爆発して暴れ出すまで、ノウィがそれを止めることは無かった。
それからの生活は、村にいた時とは全く違うものとなった。
胙として学ばされた事は全く御焚山では必要とされず、倖姫と蘇皇は山の過酷な環境での生活に晒されながらも、自由な日々を過ごしていた。
ノウィとポルカは始終喧嘩ばかりしていたが、二人の面倒はよく見てくれていた。
人の勝手がわからぬ二匹は、二人が怪我をしたり、風邪をひいたりするたびにわーわーと騒ぎ、一度蘇皇が岩場でこけて腕の骨を折った際は、ノウィは涙目になって山中の薬草をかき集め、烏天狗の乱心に御焚山が嵐になったのも笑い話だ。
大神であるノウィは殆ど日なたの猫のように岩場でまどろんでいて何もせず、最近は二人が野原で遊ぶのを眺めるのがお気に入りのようだった。
「ねえ、私達の役目はこれでよいのかしら?墨染の袖?っていうのが出たから、私たちは御焚山に還されたのよね……?」
野原で小さな草の芽を摘みながら、蘇皇が困ったように何度か問いかけてくる事があった。だが、倖姫にもその答えは持ち得ない。
平和な日々。何も強要されない生活。倖姫の中で小さな疑念が膨張していった。
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