全てをしずめる墨の海を揺蕩うのは 02

 渡されたのは、黒い鈴懸と杖代わりにもなるぴかぴかに磨かれた錫杖。八目草鞋を履かされ、結袈裟を掛けられて、村の長は小さな倖姫の肩を叩く。

「これで、お前も胙として霊山に入る資格が与えられた」

 その台詞、三ヶ月前に蘇皇すおうにも言ってただろうが。そう毒づきたがったが倖姫は何とかそれを堪えて無理に笑顔を浮かべた。

「妹に代わって、今度こそ御勤めを果たして参ります」

 粛々とそう告げれば、周りに群がっていた村人達が倖姫に手を合わせ頭を下げる。比与森神社の神主が大幣を倖姫の猩猩緋の頭の上で振った。

「では、頼んだぞ」

 最後に傘を頭に着けられて村を送り出される。背中に手を合わせ続ける村人達を無視して倖姫は、傘の陰から眼前に聳える御焚山を憎々しげに見上げて呟いた。

「絶対に生きてるはずだ……蘇皇、待ってろよ」


 山の麓の樵の家で、倖姫と蘇皇は生まれた。

 珍しい猩猩緋の髪を持つ男女の双子で、その顔は愛らしい人形のようだった。

だが二人は、その髪色のせいで両親から引き離される。

村にはあるしきたりがあった。

 猩猩緋の髪は、霊山に棲む大神の気が母親の胎内に入った事で生まれる。だから、時期が来ればその子達は山へと還さねばならないのだと。

『大神様はおひとりで御焚山の神籬から藍ヶ淵をお守りくださっている。だからお前達猩猩緋の髪を持つ胙が、せめて使いとなって大神様をお助けせねばならぬ』

『そうすれば藍ヶ淵は庇護される。墨染の袖が現れた際に、大神のお慈悲が与えられるのじゃ』

 幼い二人は鏡合せのように良く似ていた。

 蘇皇と倖姫、本来なら付けるべき性別と逆の名前を与え、性別の概念を融かし、どちらでもあり、どちらでもないかのように二人は育てられた。

 双子は、大神に対面しても恥ずかしくないように比与森神社の神主から礼儀作法と教養を躾けられた。

 双子は、胙として大神を助けるようにと事あるごとに村人達から言い含めてられていた。

 そして二人が十になった頃、村の近くで墨染の袖が久方ぶりに現れた。藍色の染みを見つけた村人たちは、二人へ大神の元へ向かうようにと命じたのだった。



 登っても、登っても、一向に山頂が近づいてこない。初夏にも関わらず倖姫の吐く息は白くなっている。

 やっと七合目を過ぎたころだろうか。残雪に足を取られ、濡れた足袋のせいで足の感覚が無くなっている。休憩を取っては冷たい足を揉み解し、何とか足の指に力が入る状態にしてからまた雪の中に足を突っ込む――この繰り返しだった。

「蘇皇――どこにいるんだ?」

 倖姫は細かく休憩を取りながら、周囲を手に広げている御焚山の登山図と比べて確認する。

 三ヶ月前の春に最初に送り出された蘇皇――倖姫の妹にも同じものが渡されていると聞いている。登頂したら狼煙を上げて合図を送るようにという話だったが、待てども待てども経っても煙が上がることは無かった。

「きっと生きてるはずだ……!!」

 村人達が蘇皇は死んだと結論付けた際も、倖姫には俄かに蘇皇の死が信じられなかった。勘でしかなかったが、双子の片割れはまだ生きている。そう倖姫は感じていた。

 倖姫は山の頂を睨みつける。そして、倖姫は錫杖で雪の深さを測りながら、かじかむ足を再び踏み出した。

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