第4章
全てをしずめる墨の海を揺蕩うのは 01
ここ数日の藍ヶ淵は風が強く雨も多い。いよいよ残暑も抜け秋の季節に入りだすのかと藍ヶ淵の住人達は思っていたが実際はそうではない。
この天候不良の原因は、小さな烏天狗の突き抜けた不機嫌のせいだった。
「ひいさま、一旦休憩しよ?そんな無理したら」
「――死ぬって?大丈夫だよ。これぐらい、なんでもない。だって」
法条は身体が真っ二つになったんだよ、と倖姫が口の端で陰惨に笑う。ポルカは思わず強く自分の拳を握り締める。その心に連動して、家の壁を叩く風が一段と荒々しくなったのが分かった。
法条が消えてから、倖姫は変わった。昼は大人しく学校に行くが、放課後から夜にかけて藍ヶ淵中をノウィと徘徊して、墨染の袖を潰して回っている。
ミズタコ、ウミウシ、ロブスター、クラゲ――様々な水棲動物の姿を模して墨の海から湧き出てくる彼等を、倖姫の身体と引き換えにノウィは撃滅していた。
「こんなことしてたら、その内最悪の事態になる。ひいさま、僕もちゃんと話すから目え覚ましてや」
倖姫はあの日以来、まともにポルカたちと話をしなくなった。相手にされない苛立ちを隠そうともしないポルカに、倖姫が急ににじり寄る。
「ねえポルカ?可笑しいよ。二人とも俺を食べたいんだろう?じゃあいいじゃないか。俺はあいつらを根絶やしにしたい。だからいくらでもこの血肉を差し出すよ。不思議だな。なんでポルカは俺を食べないんだい?」
何年にも亘って、胙として神事で祝ふられ続けてきた倖姫は、無意識のうちに完全に自分の身体をノウィの餌として扱うことに抵抗がなくなっていた。
さらに法条という友人を失ったことをで、倖姫の自己犠牲に歯止めが利かなくなっているのは見ていて明らかだ。
「……いらないなら別に食べなくてもいいよ。ノウィがいくらでも潰してくれる。ね?」
「うん」
壁際に蹲っていたノウィが顔を上げて虚ろに頷く。ここ数日、ノウィ殆ど日中は寝ている。戦いの連続で、流石の大神も疲れているのだ。白い髪の隙間から見える目の下には薄らと隈が滲んでいる。
「あほうどりは余計なことしないで」
「するわ、その為に京から派遣されてきてんねんで。わかってるやろぼんくら、お前の脳みそはな、忘れてることが多過ぎる」
「なにいってるの?――もういいや、あほうどりもつぶしちゃおうかな」
頭が痛いのか、ノウィが額を押さえながら淡々と凶悪な言葉を吐く。薄気味悪いものをポルカは感じていた。何か、出来すぎたものを感じる。
まるでこの藍ヶ淵という大きな一つの舞台で、全てが予定調和の脚本通りに進んでいるような。
自分が藍ヶ淵の外、京都から入ってきたせいだろうか。幕間の後に登場した役者のような心持ちで、全体を俯瞰しているポルカからすれば、この状態は些か都合よく悪い方に転がり過ぎだと思えた。
「今日はもういいよ。天気も悪いし、帰りに五匹は斃したから」
倖姫は粗雑に制服を脱ぐ。ポルカは思わず目を背けた。
酷い姿だった。露わになった肩口も脇腹も背中も、血の滲んだガーゼと包帯で埋まっている。傷に触れないように浴衣を緩く着て、何錠か薬を飲むとすぐに倖姫は床に就いた。
あれだけの数の傷だ、一つ一つが重症ではなくとも、体には重く響いているだろう。倖姫が飲んでいる痛み止めと解熱剤の量が増えていることからもそれは窺えた。
「ほんまに難儀なおひめさまなあ……」
すぐに深い眠りに落ちた倖姫の髪を、そっとポルカが撫でる。
「なあ倖姫。俺は、ひいさまに逢いたいねんで」
ポルカの周りに羽が散る。彼の悲しみを、涙の代わりに流すかのように。
「つらいなあ、これが因果応報っていうんなら、あの時の俺は、どれを選べばよかったって言うんやろうなぁ……」
散った羽は床に触れる前に墨が水に薄まるように溶けて消える。虹の光を撒き散らしながら、黒い羽根を散らし続けるポルカは、一晩倖姫の枕元から離れることは無かった。
何時の間にか嵐は止んでいた。
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