血肉を捧げ食ますは外道かされど畜生か 08

「そろそろかえろうよ!もうばんごはんだよ」

「日が落ちたら鳥目には辛いわー」

 二匹の化け物が根を上げたので、今日の練習は終わりにして帰ることになった。

自転車を手で押して、河川敷を登りサイクリングロードに上がる。茜空の下何処までも続く道には人っ子一人いない。

 川の大きさに対して、町の人間が少なすぎるのだ、折角整備したのに勿体無い、と倖姫は思う。

「じゃあ、家あっちだから」

 倖姫と法条は一本道を、反対を向いて歩き出す。ある程度進んだところで、倖姫は前かごの中に入った工具に気づいた。

 機械油の浮いたスパナを見て、倖姫は「すぐ返してくるから先行ってて」とノウィとポルカに告げると自転車を漕ぎだした。カーブも緩やかで平らな道なので、危なげなく倖姫は運転してすぐに法条の背中に追い付く。

「法条―!」

 初の一人運転に感動しつつ声を上げる。法条が振り返った。

「良かった!追い付いた」

 まだブレーキに自信の無い倖姫は、少し手前で一旦速度を落として足を着くと、自転車を押して走っていく。

「忘れ物!」と言うと思い当たる節があったのか、「わりぃ!」と法条が笑って手を上げた。倖姫が足を速める。

 もう少しという所で、法条の笑顔が固まった。

「倖姫っ!」

 突然法条が、走ってくる倖姫を自転車ごと蹴り倒した。

 反射的にハンドルを離した倖姫の包帯だらけの手を法条が掴む。そのまま強引に、倖姫と自分の位置を法条がぐるりと回転させて入れ替えた。倖姫の視界が鈍色の作業着で塞がれる。

 ぶつんっ

 聞いたことの無い歪な音だった。少しして倖姫の腹に、どっと生温かい液体が染み込んでくる。

「え……?」

 なんだこれ、気持ち悪い。視界を塞がれたまま、倖姫の手が法条の身体に触れる。動かない法条の胸の中から顔だけ這い出し、目の前に両手を掲げると、掌から腕までびっしょりと濡れている。

「え?……え?何――これ?」

 そういう間にも倖姫の服は、生温かい液体にどくどくと浸蝕されていく。

 倖姫にはまだ理解できないでいた――これが、すべて友人の身体から流れ落ちる命の雫だということを。

「……怪我、してないか?」

「大丈夫だよ。大丈夫、ありがとう」

 ぐったりとした法条が発した言葉は、自らの置かれている状況を完全に置き去りにしていて、酷く滑稽だった。そのせいで、倖姫の返答も妙に場違いなものとなってしまう。

「ちょっと、ごめんな」

 そっと、倖姫は法条から体を離した。

 そして倖姫は法条の姿を改めて目にして、ただ言葉を失った。

 もっと取り乱して、泣き叫んでもいいはずなのに、倖姫にはそれができなかった。法条が余りに静かすぎるせいもあったし、彼の腹に半分以上食い込んで肉を抉り千切る、大きく黒い蟹鋏に現実味を感じられないでいるせいもあったのかもしれない。

「何だよこれ……ひでぇな」

 法条が力無く笑う。彼の立つ地面に底なし沼のように真っ黒な染みが広がっており、そこから、身の丈ほどもある影絵のように巨大な漆黒の蟹鋏だけが飛び出ていた。

「おかしいだろ絶対。胙だからって、本当に化け物に喰われていいなんて有り得ねえよ」

 とんっと、倖姫の身体が後ろに押された。倖姫は無様に尻餅をついて、呆然としたまま法条を見上げる。

 蟹鋏はじわじわと力を加えているのか、めり込んだ法条の腹からからぐじゅぐじゅと肉を潰す音が溢れ続けている。腹を押さえた法条が、激痛と絶望の狭間で最期に笑う。

「とっとと逃げろ――藍ヶ淵から――」

 それ以上、言葉は続かなかった。大鋏が万力を籠めて法条の身体を捩じ切り、彼の上半身は腰を境に真っ二つになって――一瞬だけ宙を舞い――そして下半身と共に墨の海へと沈んでいった。

 蟹鋏は残った倖姫を前に、左右に揺れ多少の逡巡を見せた後、ごぽりっ――と黒い泡を吐き満足気に沈んでいった。墨の海も地面に吸い込まれるように消えていく。

 そして、静寂が場を包んだ。

 倖姫の前に、何も残っていなかった。悲劇の残渣も、惨劇の余韻も。

 自分の身体を濡らす法条の血だけが証だったが、それすらも墨で汚され、今はその証すらも頼りない。

「あ――あぁぁぁ―――ぁぁぁぁあああ!!」

 倖姫の喉の奥から、醜い蛙の鳴き声のような音が絞り出された。それを皮切りに倖姫は頭を抱えて絶叫した。倖姫の猩猩緋の瞳から、涙が零れだす。

 自分の目にした数秒の光景が、脳裏に焼き付いて離れない。目の前に何も残っていなくても、刻みつけられた記憶が輪唱するように怨嗟の念を吐く。

 殺された。墨染の袖に。

 化け物に。友達が。大切な人が。

 腹を裂かれ。血を撒き散らして。殺された。殺された。

 大切な友達が大切な大切な大切な大切な化け物が化け物が化け物が墨染の袖に腹を裂かれた化け物に腹を裂かれた大切な人血を撒き散らして墨に沈んで―――殺された。

 焼印のように押し付けられ痛みを放つ光景が、記憶の楔に罅を入れ砕く。普通の人間であるなら知る必要が無い、そもそも気づくことのない、魂に積み重ねられた記憶を塞ぐ分厚い扉を、繰り返されてしまった悲劇を鍵にして倖姫自身が押し開く。

天を仰いで、涙を流して倖姫が咆哮する。

――知りたいの?

――知ってどうするの?

 そっと、倖姫の心に囁きかける声がする。幼い声音。小さな手が倖姫の魂を撫でる。

――これは、あなたのせいではないよ。

――可哀想な子。人の幸せのためにささげられるお姫さま。あなたは何もわるくないのに。

 労わるような優しい声を振り払って倖姫は叫ぶ。

「憎い、墨染の袖が!!俺の大切なものを奪うあいつらが!!あいつらを滅ぼしたい!!だから教えろ!過去にどうやってあいつらを倒したのか!!もう、間違えないために!!」

――変われないね。それこそがひもろぎの魂のありかたなのかな――

 その言葉を最後に、囁く声が遠ざかっていく。心の中に残るのは、大きく開け放たれた記憶の扉。

 連綿と続く魂に紐付く、短い人間の生の重なり全てを綴ったそれは、倖姫に読まれることを今か今かと待っている。

 その記憶の一端に触れて、倖姫は堰を切ったように再び泣き出した。

 誰か助けて。抱き締めて。何も奪わないで。

 助けて、俺を助けて――――

 だけど、紅く染まる空の下、誰も可哀想なお姫様を助けに来るものはいなかった。

 散々泣いて、倖姫は顔を上げる。

 その目に浮かぶのは、強い決意だった。


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