胙(ひもろぎ)はその身を喰らわせ懊悩する 08

 墨染の袖たちは、羽衣のような鰭を揺らしながら、円陣をほどき、次は花一匁でもするように一列に居並ぶとこちらに前進してきた。ぴったりと揃った動きで鰭を生やした脚を蹴り上げて、あの子が欲しいと急かすように。

「おい、もういいだろ」

 倖姫の声に不満そうに「まだ食べたいー」と口を動かすので「痛い!それに物を食べながらしゃべるな」とその白い頭を小突く。

「いたぃ……」

しぶしぶノウィが血に濡れたままの唇をやっと離す。

「こっちの方が百倍痛いよ……おい、何かを食べるということは、何かを生み出さなければならないってことだ。わかってるだろうな?」

 一瞬視界がくらりと揺れた。

まずい、貧血だ。思わずたたらを踏んだ身体をノウィに支えられる。見上げると、ノウィの視線は既に目の前の敵に向けられていた。その口元が、普段の茫洋としている時からは想像できない程釣り上がっている。

ゆっくりとノウィは舌で薄い唇についた血を舐めとった。

「殺すよ。ぜーんぶ」

 そう言ったが早いか、ノウィは敵に向って走り出していた。大きな身体からは想像できない速度で正面に対する墨染の袖を数匹吹き飛ばし、その場で咆哮する。

化け物の口から出るに相応しい轟音に周囲にいた数匹の墨染の袖が硬直し、数秒間完全に無力化された。

「いっぴきめ――」

 ノウィは硬直した内の一匹の頭を片手で掴み上げる。そして反対の手で肩を掴み容赦なく引き裂いた。しかも素手で。

 敵の身体から、真っ黒な墨が噴水のように吹き出した。一拍おいて、墨染の袖の大きく裂けた口から、ガラスを擦り合せたかのような断末魔が夕闇の空へと迸る。

すぐに、辺りは阿鼻叫喚の惨状と化した。

 倖姫は、言葉も無くその光景を見続けるしかない。

 千切っては投げ、千切っては投げという言葉をここで使うのが適当なのかは分からないが、文字通り敵は裂け千切れ飛んで辺りにばら撒かれていく。墨染の袖から吹き出す墨と、力尽きた亡骸が溶け落ちた残滓で、瞬く間に地面が漆黒に染まった。

「にじゅうご――――!!」

 ノウィの声音は喜々としてあまりに場にそぐわない。昼間公園で遊んでいる子供と何も変わらない。全身に真っ黒な返り血を浴びているその姿も、まるで泥遊びで汚しただけのように思えてくる。

「おわりぃ―――っ!」

 完全に戦意を喪失して敗走の体を見せる最後の一匹を背後から掴みあげ、地面へと叩きつける。ぐしゃりという、聞いた事を後悔するような音が響く。

「倖姫、もうだーいじょうぶだよ」

 餌に向けるには到底不釣り合いな笑顔を浮かべて、ノウィが黒くぬかるんだ地面の上に立っている。少し誇らしげですらあるその表情は、芸を覚えた大型犬のようにも見えた。

「うえっ、口に入った!!不味いーー」

 笑った拍子に返り血を含んだ髪を食んだらしい。大きく開かれたノウィの口内にずらりと並んだ臼歯を見て、今更ながら自分が食べられたのだということを思い出し、途端に右腕が痛み出す。

シャツに滲んだ血に目を留めて、ノウィが鼻をひくりと動かした。

「口なおししていい?」

「いい訳ないだろう。馬鹿か」

 とりあえずハンカチで縛って止血する。早くこの場から立ち去りたかった。

「おうちかえる?」

「あぁ――――」

 くらりと眩暈がし、膝の力がかくんと抜けた。思わず四つん這いになって手を地面につくと、僅かに両手が地面に沈んだ。

「うわっ…地面が柔らかい……?」

墨がたっぷりと染み込んだ地面は、ウレタンのような触感で何だか気持ち悪い。

青と緑の目をぱちぱちと瞬かせてノウィが首をかしげた。

「倖姫、顔白い」

「やっと気づいてくれたか。俺は今、お前に食われて貧血なんだ」

 倖姫の具合が良くないのを察したのか、数歩の距離をノウィが水音を立てて歩み寄ってきた。倖姫が何とか自分の力で立とうと、真っ黒な地面を睨みつけ両腕に力を込める。

「――え?」

その時、何故そう確信できたのかはわからない。ただ、見下ろした光さえも吸い込む黒い地面を挟んだ向こう側――そこにいる見えない誰かと倖姫の視線が確かに重なり合った。

脳内に警報が鳴り響く。

怖い、と反射的に倖姫は地面から手を離そうとする。

 その手を、地面から生えた真っ黒な腕が、掴んだ。

「倖姫!?」

 倖姫は瞳を見開いて自分の手を掴む黒い腕を見つめていた。その手の暖かさ、柔らかさは、驚くべきことに人のものとなんら変わらない。

普段から人との触れ合いに飢え、欲している倖姫には、何故かそれがとても不吉なことに思えて堪らなく怖かった。

 倖姫の手に指を絡めて、黒い腕が墨の海へ倖姫を引き寄せる。

「離せ!」

倖姫は抵抗するが、あっけなく肩まで墨の海に沈み込んだ。ノウィに助けを求めようとしたが、墨の海からの金魚型の増援に足止めされている。何時の間にか女の死体も墨の海に沈み消えていた。

 まずい。倖姫の顔の左半分が墨の海に浸かる。

地面一枚下に、墨の大海原が広がっていた。不思議なことに光の無い世界でも、ノウィのこめかみから伸びる金の角の光が微かに差し込み、倖姫は視覚を僅かに得ていた。

自分を引き込んだ墨染の袖を、繋いでいる手を辿って探す。

(本当に人間の手みたいだ……!)

倖姫はその腕の先に目を凝らす――だが確認する前に、墨の海から倖姫は強い力で一気に引き上げられた。

「ひいさまぁぁぁぁぁぁぁぁ――――!!」

 声と共に突風が巻き起こり、公園中を掻き回す。木々が大きく揺れ、無数の葉が舞い散る。

地面を浸蝕していた墨から頭を出していた、金魚型の墨染の袖達にも三日月形の烈風が叩きつけられ、鰭や身体が無残に千切れ舞い上がった。

倖姫は一帯を掻き回す風から身を守ろうと、腕で顔を覆う。その身体を、現れた人物が横から掻っ攫い、そのまま空へと翔け上がった。

その間も、烈風は絶え間なく墨で染まった地面を打ち据え続ける。墨染の袖達は退却を決めたのかそれ以上浮かんでくることは無くなり、彼等が去ったことで、地面を浸していた大量の墨も向こう側へ吸い込まれるように消えていった。

肌を撫でる風が収まった頃、そっと腕を外した倖姫は、自分が公園の遥か頭上に浮いていることに気づく。

「ええ!?俺飛んでる!?」

 ばさりと大きな羽ばたきが聞こえた。首を回すと、大きな黒い翼が視界に入る。

「せやでー今世での初めてのランデブーやねひいさま♪墨臭ぁてムードもへったくれもないけどなぁ」

自分を軽々と抱き上げる――それもお姫様抱っこでだ――スーツ姿の小柄な影は、倖姫の見知った顔ではなかった。

「……ひいさまって、俺の事?」

「もちろんやん。僕がひいさまを見間違えるはずないやろ!!」

 突然の乱入者は倖姫に思いっきり頬ずりしながら、地面に這いつくばるノウィに勝ち誇ったようにウインクする。癖のない黒髪が星明かりを受けて何色もの艶を放つ。黒いプリズムというものがあればきっとこんな光を湛えるのだろうか。

ノウィが地上から、天上で余裕の表情を浮かべる少年を睨み、歯をむき出しにして威嚇した。

「……夜目のきかないあほうどりめ。それはちがう。倖姫だもん」

「なんやて!?」

「もうよるなのにとんでて大丈夫なの?あぶないよー?」

 珍しく、ノウィの声が刺々しい。無知な子供のような物言いしか聞いてなかった倖姫はそれに多少面食らう。

「で、何しにきたの、ポルカ」

 ポルカといわれたダークスーツの少年は、腕を組み口元を皮肉っぽく歪ませて、はっきりと言い放つ。

「そんなん決まってるやろ、ひいさまを食いにきたんや!」

猛禽類のように鋭く吊り上った大きな瞳が黒オパールのように煌き、言葉と同時に極彩色の羽が彼の周りに舞い散る。色を変えながら落ちる羽は地に着く前に霞のように消えていく。この羽はこの世ならざるものなのだ。

 ということは、この少年もまた、この世ならざる者という事だった。

 ぐっと重みを増した空気の中、ノウィがゆっくりと口を開いた。

「……ということは」

「せや」

 言葉を切ると、ポルカはびしりと倖姫を指差した。

「ここに第二次胙争奪戦の開幕や!」

「えっ、ええぇぇぇ――――?」 

 倖姫は最後に疲れ切った弱々しい悲鳴を上げ、そのまま貧血で気を失った。

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