胙(ひもろぎ)はその身を喰らわせ懊悩する 06

「そういえば、倖姫、良いのが手に入ったんだよ」

「えっ、マジで?」

 放課後に法条にそう言われて、倖姫が珍しくテンションの高い声を出す。

「なにー?」

 置いてきぼりのノウィが首をかしげると「自転車の事だよ!」と倖姫が勢い付く。

倖姫は自転車を持っておらず、法条に中古でいいから安く譲ってもらえないかと頼み込んでいたのだ。

「撤去された放置自転車を廃棄するってんで、ちょっと融通してもらったんだ。状態もいいし、ある程度修理したら十分使えんだろ」

「ありがとう!取りに行くよ!」

「おお、じゃあ今日仕上げしておくから、明日以降に来てくれよ。カッコよく塗装しておいてやっからよ」

「えっ……なんか急に不安になったんだけど。ありのままの姿で大丈夫だから」

「遠慮するなよー金もいらねえからさ。お前あの根暗助けたんだろ、見直したよ」

 忌憚のない讃辞に倖姫の頬が紅潮する。法条に友人として認められたような気持になる。

「今日も犯人退治するのか?」

「そこまで調子に乗ってないよ。家の手伝いもあるし。じゃあ、明日取りに行くね!」

 法条に別れを告げると倖姫とノウィは学校を出た。

倖姫には確かめたいことがあった。今まで埃の被ったしきたりだと思って目を逸らしていたことに、果たして何の意味があるのか。知ることを今まで放棄してきたからこそ、いざ知ろうとすると手探りになってしまう。

 倖姫は寄り道せずに家に帰ると、台所の裏手にある井戸に向かった。ノウィが深い井戸を覗き込む。底にゆったりと水が流れているのが見える。

御焚山から流れている地下水で、コバルト事件があると清めの為に倖姫はこの水を汲んで配っていた。

「なあノウィ。この水、墨の染みの洗い流しに使ってるんだけど、どう?効果はある?」

 ノウィが鼻をひくつかせる。

「御焚山のみず――きれいなみずだけど、ちょっときよめられるくらいだよ」

「そうか……でも少しは効果があるんだな?」

「うん。いちど墨染の袖がでたとこは、またでやすくなる。だけどこれで洗ったら、でやすいのはなくなる」

「出なくなるわけじゃないけど、マシにはなるってことか」

「そう。昔もよくにんげんはこのみずであらってた」

 対処療法でしかないが、あちらこちらから奴らがぽこぽこ湧き出る姿を想像すると、少しでも何かしておかなければという気にさせられる。

 倖姫は井戸水を汲み上げるとポリタンクに詰めた。配り歩いたポリタンクは数日の後に比与森家に戻されるので、いつも多めのポリタンクが常備されている。

汗を流しながら四つのポリタンクに水を詰めると、ノウィに二つ持たせた。

「どうするの?」

「藍ヶ淵を巡回して、墨色の染みがあったら洗うんだ」

 他の人達と違い、倖姫には模倣犯と本物の化け物の痕跡との区別がつく。コバルトブルーの染みは無視して、黒い染みだけをターゲットにして洗えばそこまで清めの水も必要ないはずだ。

藍ヶ淵はそんなに広くない。御焚山の麓の一部分だけであり、その範囲なら何とか倖姫でもカバーできる。

「倖姫は、ずーっと昔からかわらないねえ」

 重たいポリタンクを持ってよたよたと歩き出す倖姫の背を見つめながら、ノウィが呟いた。

「ずーっと、ずーっとかわらない。まえの倖姫のころから、ずーっと」

 それは、嬉しいような、困惑しているような、不思議な声の響きだった。


 小さな地蔵が並ぶ側道の墨色の染みに清めの水をかける。光を反射しない墨の跡は、水をかけられると地面へと吸い込まれるように消えていく。

「思ったよりあるな」

 顎を伝う汗を拭いながら倖姫は徐々に夕焼けに染まっていく空を見上げる。これで三つ目だ。

店先や民家の壁ならすぐに住人達が洗い落そうとするが、こういう誰の場所ともつかないところは放置されがちになることが多い。大体そんな場所は、人通りの少ない所ばかりだ。墨染の袖が笹鹿の時のように一人を狙う性質があるなら、危険度はぐっと増してくる。

「あとは?」

「そうだな……、あぁ最近閉店したクリーニング屋があるんだ、念のためそこも見ておこう」

 倖姫はノウィを連れて住宅街にあるその店へと向かう。店主が高齢で店を畳み遠方の息子夫婦の家に引っ越したと聞いていた。洗濯機や乾燥機、仕上げの大きな機械設備が店の横のプレハブ小屋に設置されていて、今は無人になっているはずだ。

シャッターの下りた店の前にポリタンクを置いて、倖姫は小屋の中を覗き込む。窓から差し込む夕日の光だけを頼りに目を凝らすが、どうやら墨の染みは無いようだった。

「よし、大丈夫だな」

 その時、倖姫の背中に遠慮のない声がかけられる。

「まぁ~倖姫くんじゃない、丁度良かったぁ!」

 びくりと肩を跳ねさせて倖姫が振り返る。やたらと大きな声で話す中年の女は、この近くにすむ護の友人の妻だった。でっぷりと肥え太った身体に、派手な花柄のワンピースが驚くほど似合わない。

「ああ、おばさん。こんばんは」

「どーしたの?御子柴さんはもう住んでないわよ?」

近くで見ると身体から吹き出る汗が、花の柄に染み込んで斑に染まり毒花のようだ。

「やっぱりそうですか、ちょっと近くを通りかかったらシャッターが閉まってたんで、どうしたのかなって。もう息子さんの所に行かれたんですね」

 違和感のない程度の言い訳をして倖姫は悪気など一ミリも無いのだという笑顔を向ける。

夕日に染まる猩猩緋の髪を疑わしそうにじっと見ていた護の友人の妻は「一週間くらい前よ。寂しくなるわね」とやがて不審を解いたのか肩の力を抜いた。

「そうそう、その事じゃなくて、倖姫君の持ってるそれ。それが見えたから声をかけたのよ」

 倖姫の足元にあるポリタンクを丸い指で差す。

「実はうちの壁もやられちゃって、お水、貰えない?」

「え……」

 丁度あと一つだけポリタンクの水は残っていた。

だが、女の指差した先の壁の染みは倖姫の目にもコバルトブルーに映っている。あれは、模倣犯によるただのペンキの悪戯だ。

「いや、ごめんなさい。これは持ってくところがあって」

「なによぉ、いいじゃない、うちと比与森さんの仲なんだしい」

 図々しい女の言い草に若干辟易としながらも「明日持ってきますから」と倖姫は宥めるように言った。その途端、女が険しい目つきで倖姫を睨む。

「倖姫君。あなた養子の胙だから、比与森とうちの家の関係を、わかっていないのかしら」

 侮蔑の極みのような暴言に、倖姫は怒りを通り越して笑ってしまった。それが癪に障ったようで「旦那に言いつけてもいいのよぉ」と女が言葉を重ねてくる。

 倖姫の心を荒涼とした風が吹き抜けていく。

さっきまで少しでも襲われる人が減るようにと、懸命に頑張っていただけに反動も一塩だ。やはり倖姫を『胙』として見る典型的な人間の態度を目にすると心に堪える。

さあ何て答えようか。そう残り少なくなった理性で倖姫が考えようとする前に、ノウィが動いていた。

 ばしゃぁぁぁ―――

「きゃあっ!?」 

「そんなにほしかったら、あげる」

 片手で空になったポリタンクを掲げて、ノウィが冷たい目でびしょ濡れになった女を見下ろしていた。青と緑の双眸が、紅い夕日を受けて妖しい光を孕む。

女が金切声を上げた。

「能井君!?こんな酷いこと」

「倖姫のこころをひっかいた。あんたのほうがわるい」

 ゆらりとノウィが女に詰め寄る。二メートル近くある長身の男に凄まれて、女は目を泳がせると「ありえないわ!」と踵を返して逃げ出した。

 驚いて目を丸くする倖姫の猩猩緋の髪を、ノウイの手が撫でた。

「躰もきずついて、心もきずついたら。倖姫はきっとしんじゃうよね」

 大きな手は化け物の癖に、人並みに温かい。

「躰をきずつけるのは俺だけ。だからそのかわり、心は誰にもきずつけさせないよ――」

 人の心を理解しきれているとは到底思えない白い大男の言葉はどこか嘘臭くて、だけど倖姫は何故か急に泣きたくなった。

 そうか、自分を守ってくれるのだ、この化け物は。その事実が倖姫の胸に沁みる。

「かえろ」

「……うん」

 残ったポリタンクを持って、二人で帰路に着く。夕日が御焚山の陰に沈むとぐっと辺りが暗くなる。目を凝らして墨の染みを探しながら帰っていると自然と足が遅くなり、家の近くまで戻って来た時には、殆ど相手の顔も判らない――誰そ彼はという頃だった。

 山の手沿いの森林公園を横切った時、急にノウィが足を止めて怪訝な表情を浮かべた。

「血と墨のにおいがする……」

 木々が生い茂る公園は夏場涼しくよく親子連れが訪れるが、夜は花火等も禁止されているので人気は殆ど無い。

「まさか」

 蒼白な顔をして倖姫が公園に入る。遊具のある広場を抜けて、奥まった芝生のグラウンドまで辿り着くと、眼前の光景に釘付けになった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る