胙(ひもろぎ)はその身を喰らわせ懊悩する 05
翌朝起きると、ノウィの姿はそこに無かった。乱れた布団は冷たく、まるで夢幻のように彼はまた消えてしまった。
「なんなんだよ……」
一緒に居たいとか言ってたくせに。不貞腐れながら倖姫は制服に着替える。左手に撒いた包帯を取ると薄皮の張った弧を描く傷跡がまだ赤々と生々しく、顔を顰めながら消毒をして新しいガーゼと包帯に取り換えた。
「おはようございます」
「おはよう」
台所に立つ怜子は何時ものように隙一つない黒エプロン姿で、昨日の儀式の疲れなど微塵も感じさせない。涼子は朝練なのか食卓の食器は既に下げられている。
「涼子はちゃんと寝てるんですか?」
気付けば口をついてそう言っていた。怜子が驚いたように切れ長の目を少し大きく開く。倖姫が涼子の話題を振ることは殆ど無いから、珍しかったのだろう。
「大丈夫よ。朝は元気そうだったわ」
「そうですか、最近神事の頻度が増えてるので、涼子も疲れてるんじゃないかって」
「あら……倖姫くんは、神事が嫌なのかしら?」
しまった、そういう意味じゃなかったのに。倖姫は狼狽しながら「そんなことないですよ、大事な役目だと思ってます」と何とも心の籠ってない返答をする。
「それに、僕は夜型ですけど涼子は朝型でしょう?だから心配になっちゃって」
しどろもどろになりながら言い訳すると、怜子は「大丈夫よ」と念押しするようにもう一度言って、シンクに向き直り蛇口を捻る。水流に紛れるように苛立ちの籠った低い声が僅かに耳に届く。
「あの子は祝りとしてちょっと人の纏う服を切り刻んでいるだけよ。私の頃に比べたら、なんてことは無いわ」
「……?」
聞かせる訳ではなかっただろう言葉に反応するのも野暮だ。それ以上何も言わずに黙々と朝食を食むと、倖姫は食器を下げる。
「洗っておくわ」
左手に怪我をしているのを見て、怜子は食器を倖姫から取り上げた。もういつもと同じ調子だったので倖姫は幾分ほっとすると「いってきます」と家を出ようとする。
「あっ、お弁当そのトートバックに入ってるから」
「はーい」
テーブルの上に乗せられたトートバックを持つと、いつもよりずしりと重い。なぜ今日は手拭い包みではないんだろうと疑問に思ったが、先ほどの遣り取りで若干の気まずさを感じていたところもあり、そのまま何も考えずに玄関を出る。
朝の明るい光の中、まだシャッターの降りた商店街を通って学校へと向かう。道すがらコバルトの染みが無いかときょろきょろしたが見当たらなかった。
クラスに着いて倖姫は何時も通り最後尾の席に鞄を置いた。そして隣の座席に当たり前のように座っている制服姿のノウィを目に留め、何度か瞬きする。
「…………は?」
数秒の後、倖姫は無言で白い頭を盛大に叩く。
「いったぁ……倖姫もうちょっとかげんしてよー」
「バレないとでも思ってんのか!」
姿が見えないと思ったら、こんなところまで先回りしているなんて。最後尾の席は少子化の進むこの学校で空席だらけだ。丁度倖姫の隣の席もそうだったのだが、まさかそこに陣取るなんて。
「お前、招かれないと建物に入れないんじゃないのか!?」
「おうちはそうだけどー学校はみんなのものだから、理由があれば入れるよ」
「理由?」
「うん。あっ、お弁当持ってきてくれたんだー」
倖姫のトートバックに目を留めて、ノウィが嬉しそうに手を伸ばす。中を開けると弁当が二つ入っていた。どうりで重いはずだ。それよりも、この状況の意味が分からない。
「おかあさんがまだできてないから倖姫にもたすっていってたんだー」
「かあさん……怜子さんの事か?なんでお前の事、怜子さんが知ってるんだ」
「だって、俺もあのおうちの子どもになったから」
だから、お弁当ももらえるの、そう言ってノウィがお弁当を抱えてすぐに食べようとするものだから「それは昼飯だ!」とまた白い頭を叩く。
「なんどもたたかないでよー」
「お前がちゃんと説明しないからだろう!」
「んーだから、倖姫がきのう俺を招きいれたでしょ?そしたら俺は倖姫のおうちにいてもいいってことでしょ?だからいてもいいように、世界がかわったの」
「そんな……たったそれだけのことで?」
「うん。だからもう、みんなそう思ってる」
しれっと舌を出すノウィに今度は拳骨を見舞おうすると、周囲からくすくすと笑い声が耳に入る。慌てて倖姫が周りを見渡すと、クラスメイト達が「朝から元気だねー」や「仲良いよね」と自分達を見て笑っている。
まるで、それが極めて自然であるかのように。
「ね?」
倖姫が驚きに目を見開いている横で、頭をさすりながらノウィはのんびりとしたものだ。
「倖姫、俺は、化け物だよ?」
「……それ、理由になってないし」
渇いた咽喉を嚥下して何とか湿らせながら、倖姫が呟く。
「化け物はね、何処にでもいて、何処にもいない。だから、こんなふうにもあらわれることもできるの」
おはよーと女子生徒に挨拶されて、ノウィは日向の猫のように目を細めて手を振り替えした。自分より余程馴染んだその態度に、倖姫は何とも言えない気持ちにさせられる。
「おはよ!」
雷のように金の髪を尖らせた法条が前の席にどかりと座る。唯一この学校で友達と言える存在に倖姫の心が少し明るくなった。
なあ、俺の横に見知らぬ白い大男が居座ってるんだ――そう倖姫が訴えかけようとした直後に「
呆然としていた倖姫に向かってノウィは笑いかけた。
「誰も、俺のことをふしんがったりふしぎがったりしない。そういうものなの」
そう言って、ノウィは眠そうに欠伸を一つした。
笹鹿の事は、藍ヶ淵コバルト事件の模倣犯によるものという説明が担任からされた。まだ数日は病院で治療が必要だということで彼の席は空いたままだ。
「それから、倖姫くん」
「はっ、ハイ」
急に声をかけられて倖姫は弾かれたように顔を上げた。クラス中の視線が集まるのを感じて顔に血が集まる。
「笹鹿君は本当に君に感謝していたよ。見舞いに行ったときにも、何度もそう言っていた」
「どういうこと?」「何か倖姫君が助けたらしいよ」「あんなひょろひょろで犯人と戦ったの?」「すげっ」
ざわざわとクラスメイトの間で波紋がいくつも広がり、ぶつかりあって情報が拡散されていく。法条が短く口笛を吹いた。
「静かに静かに。かといってキミ達が真似をしたり、犯人を捜すような無茶はしてはいけないよ」
担任がそう宥め「さあ授業だ」と話を打ち切った。しぶしぶ静かになる教室の中で、倖姫は顔を真っ赤に火照らせたまま、身の入らない授業のノートを取る。
「倖姫、嬉しそうだね」
ノウィが小さな声で呟く。
そうだ、その通りだ。おめでたい奴だってことはわかっていた。
だけど本当に嬉しかったのだ。
自分のしたことを肯定して、褒めてもらえるなんて久しぶりのことだったから。
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