化け物は胙(ひもろぎ)に出会い歓喜する 12
「――もう大丈夫。ありがとう。ごちそうさまでした」
実際は数秒ほどだっただろうか。酷く時間の経過が緩慢に感じたが、わずかその程度の時間でノウィは食事を終えた。利き手と逆の手で幸いだった。真っ赤な弧を描く傷口は、お世辞にも治りが早そうには見えない。
「齧らないのか?」
「うん。かじったらなくなるから。俺は栗鼠みたいにうごく倖姫がすきだもの」
ノウィは血に濡れた口元もそのままに、ウミウサギに向き直った。爛々と目を光らせ、体中から精気を漲らせた白髪の大男を前に、ウミウサギは威嚇していた触角を僅かに下げ、逃げるような仕草を見せる。
「おそいよー」
ノウィが地を蹴り、一足飛びに五メートルの距離を詰める。そのまま勢いを殺さずにウミウサギの頭部を掴んで、その大きな体を投げ飛ばした。触れた刺激がスイッチとなったのか、ウミウサギの身体の白い星の部分がすべて突出し、針山のような状態となってお社に突き刺さる。
「ウミウサギは白いたまをとばしたり、ああやってはんしゃで敵をくしざしにしてたおそうとするの。だけどあの数のとげをあのはやさでだしたら。しばらくはおなじことはできない」
ノウィは黒い泉に躊躇いなく手を突っ込んで、笹鹿を引きずり出した。倖姫が駆け寄り受け取る。朦朧とした表情で、笹鹿は「ありがとう……」と呟いた。
その間にノウィは針を引っ込めて地面に着地したウミウサギに駆け寄り丸い背に圧し掛かると、思いっきり背中へ足を振り下ろした。一撃一撃が重く、鐘を叩くような音がしていたが、次第に歪な、罅割れた音へと変化していく。十を超えるころだろうか、めきゃっという音を立ててウミウサギの背中が大きく窪んだ。どうやらうねる表面の下に、固い甲羅か骨のようなものがあったらしい。ノウィは躊躇うことなく窪んだ背中の穴に両手を突き刺して、観音開きでその背を裂いた。
「えぐッ――っ!!」
勢いよくウミウサギの背から真っ黒な血が吹き出る。それをまともに浴びたノウィが「苦っ、まずっと」悲鳴を上げる。ウミウサギは痙攣しながらもノウィの身体の下から這い出ようとしたが、動きはやがて緩慢になり、最後に身体は流れ出る黒い血に同化するように消えていった。
「べーっ」
ノウィは口の中に入った黒い血を境内に吐き捨てる。余程お口に合わなかったらしい。
目が合うと物欲しそうな表情をするから、また齧られては堪らない、と倖姫は袖口を引っ張って齧られた手を隠す。その拍子に「うっ」と笹鹿が息を漏らした。
「大丈夫か?今助けを」
「ううん。僕、携帯あるから、これで助けを呼ぶよ。二人で動かない方が良い」
ゆっくりと起き上がる笹鹿の背を倖姫は支えた。穿たれた腹を庇うように傾けたまま、笹鹿はぐるりと視界を回し、境内に目を留める。倖姫もつられてそちらを見た。
そこには、もうノウィはいなかった。
残った真っ黒な染みを前に、笹鹿は辛そうに眉を寄せる。手早く携帯を操作して耳にあてる。
「あ――すみません。はい、事件です」
どうやら警察に電話したらしい。救急車を先に呼んだ方がいいんじゃないだろうか、という倖姫の心配をよそに緊張気味に笹鹿は話を続けている。そして次に告げた言葉に、倖姫は驚愕し目を見開いた。
「はい。課外授業中に襲われました。藍ヶ淵コバルト事件です」
「え?」
話の流れについて行けずに間抜けな声を出した倖姫に気づかず、笹鹿は言葉を続ける。
「犯人にモデルガンで撃たれました。怪我をしているのは僕一人です、クラスメイトが助けてくれて、犯人は逃げていきました」
冷や汗を滲ませ、恐怖と興奮が入り混じったその表情に、混乱や狂気は無い。自分を襲った状況を説明する同級生に、倖姫は内心動揺しつつも黙する。見下ろす手に付着した黒い液体は、指で擦ると昨日触れた壁の墨と同じだった。
黒い泉も、ウミウサギが噴いた黒い血も、すべて墨だったのだ。
そして、皆が藍ヶ淵コバルトと呼んでいる青も、同じこの液体だったということは、つまり――
「わかりません、ただ痛くて動ける状態じゃないんです」
倖姫が沈黙して思考を巡らせる横で、笹鹿は場所を聞かれたらしく、たどたどしく丘の社の事を説明している。やがて通話が終わったのか、笹鹿は携帯を下ろした。
「警察も、救急も、両方来てくれるって」
安心したのか笹鹿の身体から力が抜けた。
「あ……ありがとう倖姫くん。さっきは犯人に立ち向かってくれて……僕は君を怒らせたのに」
倖姫はまだ頭が整理できていない中でどう話を切り出したらいいのかわからなかったのだが、沈黙を気まずさと受け取ったらしく、笹鹿が無理に笑いかけてきた。
「……二度と言わなければいい。許す」
「わかった。ごめん」
「それで、警察が来たら、なんて説明するんだ?昨日俺の家の前で見た奴と、さっきの犯人は同じだったのか?」
さりげなくノウィの事を聞いてみると、笹鹿は怪訝な顔をした。
「昨日って何?僕は君の家のコバルトの染みは見たけど、犯人は見てないよ。さっきの奴はなんだか特徴のない服を着ていたし、顔をフードで隠してたから、誰だかなんてわからなかったでしょ」
やっぱり、記憶が改竄されている。濁流のように、すごいね、びっくりしたね、と連呼する笹鹿を宥めながら、倖姫の脳は思考する。
この藍ヶ淵で起こっていることが、どうやら自分とは無関係では無くなりつつあるということに。
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