化け物は胙(ひもろぎ)に出会い歓喜する 10
「なんだ――!?」
聞こえたのは林道の先、濁ってはいたが確かに笹鹿の声だった。
倖姫は弾かれたように走り出す。まさか、こんな低い丘に熊でも出たというのか。曲がりくねる坂を駆け上がり開けた場所へと飛び出す。朱色の小さな社が視界に入った。
そしてその前に、倒れ伏せる笹鹿の姿と、それを覆い隠す小山のような影も。
「笹鹿!」
駆け寄ろうと持ち上げた倖姫の足がぴたりと止まる。
「――――!?何だ……?」
最初は、猪かと思った。だがもう少し見れば、合っているのはサイズだけとすぐに気づく。うねうねと常に揺らぐ体に足は無く、背中はこんもりと丸い蕾のような襞が波打っている。塗り込められたように真っ黒な全身には白い斑点が星のように散りばめられ、頭部と思しき部分には二本の触角が生えていた。その周囲には墨を零したように黒い染みが広がっている。
「ナメクジ……?いや、ウミウシか……?」
まさか、こんな大きな種類がいるはずがない。そもそもここは陸だ。
声に反応して、探るように黒ウミウシがこちらに触角を向けた。しまった、倖姫は身構えるが、五メートル以上離れている。俊敏な動きはできないだろうと、倖姫は距離を詰めないようにじりじりとウミウシの周囲を動く。笹鹿の姿が良く見える角度まで来て、初めて彼の腹が赤く染まり、怪我をしていることに倖姫は気がついた。
「っつ――!?」
それだけではない。笹鹿は地面から湧き出した黒い泉のようなものに、傷付いた腹を沈ませていた。流れ出る鮮血が漆黒の泉に注がれると、ぶくぶくと泡をたてさらに黒い泉が広がる。ウミウシもその泉に浸っており、黒い泉が泡立つたびに歓喜するように襞を揺らめかせた。笹鹿の足がずぶりとさらに黒い泉に沈む。
「おい!早く離れろ!」
怒鳴るが笹鹿は恐怖に顔を歪ませてゆるゆると首を振るだけで、一向に動こうとしない。倖姫は迷っていた。
こいつを身を挺して助けるのか?目の前のこの
何だかわからない、化け物と相対してまで?
立ち竦む倖姫を余所に、じりじりと笹鹿の身体は光一つ弾かない闇の中に吸い込まれていく。彼の喉から、死にかけた獣のようなくぐもった音が絞り出された。
「くっ――ぐぅうぅぅ」
見てはいけない。顔をそむけようとした時に、だが倖姫は見てしまった。
絶望を滲ませた表情で助けを求める、笹鹿の顔を。
その表情に、見覚えがあった。
――脳裏に浮かぶ、沢山の顔。赤々と燃える護摩。神経を逆なでし続ける祝詞。振りかざされる刃。
そして響き渡る、獣のような狂った絶叫。
「ぎゃあぅあああぁぁぁぁぁっぁ――――!!」
そう、あの耳を塞ぎたくなる醜い声は、俺ものだ。
涙と涎でぐちゃぐちゃになった倖姫の顔は、数回の神事の後に汚らしいと仮面をつけられた。
見たくないと隠された。
そこにいるのは人ではない。ただの名も無き胙だと、見る者達が納得できるように。
誰も、誰も自分に手を差し伸べてくれなかった。
あの時俺を見ていた奴らは、どんな顔をしていた?
そうだ、今の俺のように、哀れだ、だがしょうがないとせせら笑っていたんじゃないのか――?
「俺は――あいつ等とは、違うっ!!」
倖姫は大きく一歩踏み出す。何かに抗うように。そして倖姫は笹鹿と化け物に向かって走り出した。
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