化け物は胙(ひもろぎ)に出会い歓喜する 09

「今日誰も話題にしなかったよね。もしかして警察に言って無いの?」

「…………」

 勘弁してくれ――眉間に皺を寄せて笹鹿を睨みつけようとしたが、次の言葉にその表情は驚きで塗り替えられる。

「ねえ、僕見たんだ。あの大雨の中、鮮やかなコバルトブルーの染みの前に立ってる白い大男をさ!」

「――!!それ、本当か?」

 考えないわけではなかった。ナイトの反応から昨日は一時間ほど家の前にノウィが屯していたはずだ。それだけの時間があれば――たとえば壁に液体をぶちまけるなんてこともできただろう。それが謎の液体であれば尚更、化物だと自ら名乗ったノウィを疑ってしまう。

「もちろんだよ!なのに誰も騒ぎ立てない、警察も来ない、せっかく僕証言しようって思ってたのにさ!イエティみたいな大男が、比与森の家にペンキをぶちまけてたってね!」

 頬を紅潮させて興奮気味に虚飾織り混ざった目撃談を話す笹鹿はよほど人から注目されたいのだろう。折角の目撃談が水泡と化すことを恐れているようで、どうやら倖姫に事件を露見するように促しているつもりらしかった。

「いや、俺からは話せないから」

 家長からの通達だ、逆らえるわけもない。

「…………」

ばつが悪そうに視線を逸らす倖姫を無言で凝視した後、ふっと笹鹿は唇を歪ませて吐き捨てた。

「――胙に言ってもしょうがないか」

 その言葉に、心よりも体が先に反応した。倖姫の手は笹鹿の肩を乱暴に掴み、樹木に叩きつける。体格差もなく、力も無い倖姫の行動などたかが知れていたが、攻撃されたということが笹鹿の心にショックを与えたようだった。木の幹に背を預けたまま、三白眼を見開いて「……なにさ」と戦慄く声で虚勢を張ろうとするが、怒りを滲ませた倖姫の相貌にそれ以上言葉が続かない。

「――悪いが気分が悪くなった。俺はここで休んでいるから、笹鹿、お前一人で社まで行って二三枚写真を撮ってきてくれないか?ほら、もう五分も歩けば着くだろ?」

 ここが他人の目のある町内であればもう少し違った反応もできただろう。苦笑いをしてやり過ごしたかもしれない。だがここは鬱蒼とした林の中、何時ものように気を遣う必要も無かった。

「えっ……でも」

「行ってくれるよな?」

 有無を言わさぬ雰囲気に唾を大きく飲み、「……わかったよ」と不満そうに笹鹿がうねる林道の先に消えていく。

 倖姫は近くにあった岩に腰かけて大きく深呼吸をした。何度も何度も、木々の発散する清廉とした空気を肺一杯に取り込み、ゆっくりと吐き出し、

「――ちくしょう」

 そして、零れたのは苦悩に満ちた声だった。組んだ両手を額に押し当てて、目をぎゅっと閉じて何かに耐えるように動かない。

 ひもろぎ。その四文字の言葉が倖姫の心を易々と千切り捨てる。否定する。

 他者の犠牲を受容するために生まれた言葉を彼等は当然のように振りかざし倖姫に叩きつけてくる。それは柔らかな稲穂ではない、硬く筋張った拳だという事を、彼等はわかっている筈なのに。

 受容を超えた先にあるのは軽蔑か。なんて馬鹿な話だろう。

「ちくしょうっ…………!」

 あの笹鹿の目。クラスでぱっとしない、友達もいない、つまらない自己顕示欲の塊のような男にさえ蔑まれる。

あいつだけじゃない、この藍ヶ淵の住人全てから、此奴よりはマシだという視線を向けられる。最悪だ――

「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁ―――!!」

 底なし沼にも似たマイナス思考から倖姫を掬い上げたのは、獣じみた絶叫だった。

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