化け物は胙(ひもろぎ)に出会い歓喜する 07

「くそ、気になってしょうがないじゃないか……」

 結局倖姫は立てかけてあった傘を引っ掴むと部屋の外に出た。開いた傘の上をばちばちと雨粒が撥ねて五月蠅いことこの上ない。

駆け足で門を抜けて、倖姫は滝のような雨に視界を奪われながら叫んだ。

「おいっ!いるんだろう!?」

 返事があったのか、そもそも自分の声が相手の耳に届いたかすらもわからない。

そんな中で倖姫が怒鳴る。

「答えろ!ノウィ!」

 煙る視界の中で、何かが倖姫の目を引いた。ぴたりと倖姫は動きを止め、それを凝視する。

「っ?」

 大きな飛沫、いや染みか。鮮やかなコバルトブルーのっぺりとした染みが、比与森家の真白の壁にくっきりと浮かび上がっていた。

「これは……!?」

 巷を賑わせている悪戯か。倖姫はその染みへと近寄ると、膝をついて指先をその液体に浸す。指先に纏わりつく感覚もなく、さらりとしたそれはペンキというより――

「やっぱり俺には……」

「何よ、これ」

 背中にかけられた静かな怒声に、倖姫の指の動きがぴたりと止まる。

「涼子か」

 振り返ると大雨の中、躑躅つつじ色の傘を差して棒立ちになっている少女がいた。ほっそりとした身体から無駄な肉がついていないすらりとした手足が伸びている。斜め降りの雨のせいで学校指定の紺のセーラー服はぐっしょりと濡れていて、水分を吸って光を弾くほどに黒く沈んだ髪が顔に貼りついていた。

「このコバルトブルー……ついに比与森ウチにまで手を出してきたっていうの!?」

「……これ、やっぱり例の藍ヶ淵コバルト事件――だよな?」

「見ればわかるじゃない!?何言ってるのよ馬鹿!」

 蔑むような目で倖姫を見下ろし「清めておいて――後、夜は神事を行うから」と言い捨てると涼子は門を潜って姿を消した。

 一人残された倖姫は辺りを改めて見渡す。やはりノウィの姿はない。

「なんだったんだろあいつは……」

 白昼夢のような怪物だった。子供のように持ち上げられたあの感触はリアルだったが、それでも今となっては現実だったのか判然としない。

「それにしても――」

 倖姫は壁にぶちまけられた液体を見つめる。

 藍ヶ淵コバルト事件――この地域で起こっている無差別な建造物および器物損壊事件。霊山ぐらいしか観光名所がないこの退屈な田舎に突如舞い降りた奇妙な現象はここ一か月ほど前から人々の話題となっている。

 藍ヶ淵の不特定多数の場所――家屋や、電柱や、果ては山肌に立つ社にまで――コバルトブルーの染みができているというものだ。模倣犯らしき者は何名か捕まっているが、未だ真犯人――最初にこの事件を起こした人物は捕まっていない。

 が、それは倖姫にとって関心のあることではない。

 倖姫が気になっているのは真犯人の正体でも、次はどこが狙われるかということでもなく――もっと事件の、根本的な部分だった。

「やっぱり――黒……だよな……?」

 倖姫の視界には、青は一切見えていない。ただただ目の前には、底の見えない闇のような、黒々とした染みが広がるばかりだ。触れるとさらりと溶けて、肌の表面を滑り落ちていく。

 この感触は、小学校の頃の書道の授業で慣れ親しんでいたそれに、とても近い。

「俺には、墨にしか、見えないんだけどなあ……」

 皆が指差して鮮やかなコバルトブルーだと言う。だが倖姫にはそれが青だとはどうしても認識できなかった。最初は藍ヶ淵にちなんで強引に青だと言い張っているのかと思っていたが、今の涼子の反応で確信した。

 これはどうやら、自分にしか黒にみえていないらしいと。

誰にも言えない秘密を前に、倖姫は静かに溜息をついた。

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