化け物は胙(ひもろぎ)に出会い歓喜する 06

 中学に入学する頃、母屋から小さな橋のような廊下をいくつも渡らねば辿りつけない離れに移された。

 食事は母屋で、それ以外は風呂もトイレも離れのものを使えと命じられても特に不快には思わなかった。むしろ風呂に関しては分けてくれてありがたいとさえ思っていたくらいだった。この家には従妹の涼子がいる。その頃はまだ小学生だったとはいえ、異性の居候はお互いに刺激が強すぎる。

 それ以来、倖姫は言いつけを守り、静かに静かにこの比与森の家で生活している。まるで時が止まったようなこの部屋で、誰の邪魔にもならないように。誰の迷惑にもならないように。

「涼子はまだ帰ってないんだな」

 門の明かりが灯っていなかったので無人なのは最初から分かっていた。叔母さんは町の会合に出ていると予め聞いていたが、あの涼しいを通り越して冷たい目をした従妹の方は弓道部の練習でも長引いているのだろうか?滅多に話すことも無い彼女のことを考えながら、これまた年代物の二ドア式冷蔵庫から麦茶の詰められたガラスポッドを取り出し茶碗に注ぐ。一息にそれを飲みきると倖姫は長く息を吐き出し、やっと落ち着いたと座布団につっぷして寝そべった。

 くすんだ硝子窓から中庭を眺める。屋敷の中で一番奥まった場所にある此処は玄関前とは違い、庭の手入れも御座なりだ。手水鉢には必ず毎夏ボウフラが湧くのでそれを薬で殺し、窓枠の高さを超えたものが出たら、適当に雑草が引っこ抜く。庭に面しているので生活に困らない程度の世話は行っているが、風情も何もない。

「ナイト――まだあいつ居るかな?」

 倖姫が呼びかけるとナイトはするりと顔の近くまで移動し寝そべった。同じ目の高さに合わせてやると、ナイトは目を細めて「なぅ」と咽喉を鳴らす。門側の右耳がぴんと伸びたところを見るとまだあのノウィとかいう男は門の前に居座っているらしい。

「門のほう行くなよ、喰われちまうぞー」

 心得たとばかりにナイト尻尾を揺らす。その姿を見ると、お前を俺のオマケとして差し出したなどとは口が裂けても言えない。後ろ暗い気持ちを誤魔化すように倖姫は和箪笥の一番上の段を引き出し、朽葉色の表紙をした古めかしい本を取り出した。

 専ら倖姫は部屋で過ごすときは、勉強をしているか、それに飽きたら和箪笥の中に入れっぱなしになっていた古い本をひたすら読んでいた。図書館や図書室では貸出上限数まで勉強用の参考書ばかり借りているので、娯楽はこの染みだらけの和書しかない。殆ど読めない蛇ののたくったような(達筆なのだろう)筆致を理解するのに最初は相当苦労したが、そのお蔭もあって苦手だった古文の成績は芳しく改善された。

「どれどれ……」

 記述されているその殆どが藍ヶ淵の風土記だったが、まれに御伽草子のようなものもあった。それらが昔の――それこそ平安時代の頃の本を風化せぬよう何世紀に渡って写したものだとわかったときは、現代と同じ漢字かな交じりの文字列を前に、さして文学に興味の無い理系の倖姫でさえ感動を覚えたものだ。

 それ以来、これはどんな人間が筆を持ちしたためどんな人々が読んでいたのだろうと、写真も残っていない頃にこの地にいた人々への想いを巡らせるのが、倖姫の楽しみだった。

「この地に誇りし霊峰御焚山、藍ヶ淵で望めぬ場所はなく、湖清く澄みわたり、木々瑞々しく山肌を覆わん――しかして冬はすべてを白き雪が拒み、冷たき其の底に神々もまた奉られん――」

 風土記に記されているのは、現代においても同じ名で呼ばれている霊山の事だ。美しい筆致で綴られる自然の姿、そこに彼らが見る神的なものへの畏れと感謝の心情がありありと伝わってくる。地元民と思しき筆者はよほどこの山が好きだったのだろう。部屋の窓からも見える御焚山を眺めながら倖姫は想像する。

 全てを凍てつかせ閉ざす真白の山肌が春の訪れとともに緑を芽吹かせ、雪解け水が木々に力を与えながら湖に流れていく――そう、まるで――

「……って、なんで俺はあの化け物のことを思い出すんだ……」

 ぶんぶんと首を振ってその想像を飛ばす。

「――ん、」

 ナイトが髭をぴくぴくと蠢かせた数分後には、しとしとと小雨が降り出した。ナイトの髭は高感度の降雨センサーを備えているようで、百発百中で洗濯物を取り込むタイミングを教えてくれる。

 教えてくれたのは、今は挨拶さえも交わさない従妹だ。夕暮れどきにナイトの髭を指差して雨を予想し、棒切れで描いたけんけんぱをしながら、庭の真ん中でびしょ濡れになって笑っていた涼子は勝気で可愛い女の子だった。

 その頃はまだ彼女も小学生で、それが一年を過ぎて中学校に入学したころには、すっかり似合いのセーラー服を身に着け思春期という名の病にかかってしまったのだから、兄としても寂しさを禁じ得ない。

「あーこれは結構降ってるなー」

 夕立は勢いを増して庇を叩き、時代を感じさせるムラのある窓硝子に雨粒が張り付く。次第に、門扉の前に置いていった大男の事が気になってくる。

「あいつ――まさかまだ待ってたりしないよな」

 この雨だ、堪らず家に帰るだろう。だがしかし、倖姫の脳裏には出会ってから片時も自分から目を離さない、朴訥とした大男の姿があった。いやそんなはずは、だけどもしまだ居たら――

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