化け物は胙(ひもろぎ)に出会い歓喜する 05

 比与森。

 この藍ヶ淵において指折りの名家と誉れ高いその家の門の前に倖姫は立っていた。家の源流は神社であり、広大な家の敷地の中には、平安の頃より建立している社もまだ遷宮を繰り返しながら現存している。一般参拝は行っておらず、決まった神事の際しか藍ヶ淵の住人達は中には入れないが、それでも神社への寄付は絶えることは無い。地元での比与森神社の存在は、信仰の拠り所として確固たる地位を築いていた。

目の前の固く閉ざされた門扉を、挨拶無しにくぐる権利を倖姫は持ち得ている。

 だがそれだけだ。その権利を得るために果たしている胙としての義務は、十二分に彼を蝕んでいるのだから。

「おっきい門だねえ」

 影のようにぴったりと後ろをついてきたノウィが、自分の身長と門の高さを比べて感動している。爪で引っ掻いても傷一つつかない、黒褐色の硬い柴栗で出来た門。その両脇には漆喰で固められた白い壁が、遥か遠くまで伸びている。

 倖姫が門戸を押して中へと入る。波模様の浮かぶ敷石が二十メートル以上先にある屋敷まで続いている。零れるように咲き続ける紅色の日々草が道の両端を飾り、凛と背筋を伸ばした細い茎からは桔梗が首を傾げるように垂れ下がる。きっちりと剪定された低い萩の木の鈴生りに咲いた赤紫の花が、暑さを孕む風に揺れていた。

「…………ん?」

 気付けば、背後に感じていた圧迫感が消え去っている。振り向くと門の外にノウィが立ち尽くしていた。大きい門などと言ったくせに、抜きんでた長身のせいで、彼の鼻から上は門の屋根に隠れてしまっていて、表情は窺えない。

 何で来ないんだ?そう問おうとしたが、倖姫は止めた。この家での倖姫の立場は気軽に人を招けるようなものではない。おいそれと他人に入って来いなどと自分が言う事が躊躇われたからだ。倖姫は踵を返して、一人で屋敷の中へと入っていった。

 戸を閉める瞬間、横目に見た門の向こうでは、相変わらず顔の見えないノウィが立ち尽くしている。

「何なんだあいつ……?」

 三和土で靴を脱いでいると、「にゃーご」というのんびりした鳴き声と共に、倖姫の足にふわふわと柔らかく温かいものが絡みついた。

「ただいま、ナイト」

 ふにゃあ、という間の抜けた返事をして、ナイトは倖姫の顔を見上げる。軽く頭を撫でるとビー玉のように薄青い目が細まった。自室へと向かう倖姫の足に、くすんだ茶トラの毛並みを擦り寄せて付いてくる。

 倖姫の部屋は玄関から左の長い廊下を突き当りまで歩き、さらに渡り廊下を抜けた先の離れにあった。一度入ってしまえば、食事と風呂以外でこの渡り廊下を戻る事は無い。誰も訪れる事の無い屋敷で一番寂しい場所だ。

「ただいま」

 ここが本当の俺の家、俺の居場所。倖姫の声は無人の部屋に静かに散っていった。純和風の屋敷の外観を裏切らない、漆喰張りの壁に畳敷きの部屋。離れは三部屋から成っているが、ものぐさな倖姫は一部屋だけで生活している。

 明治時代からこの家に放置されていた、古い家具や有り合わせの物で整えられた部屋に初めて案内された時は、レトロを通り越した黴臭い空気にげんなりしたが、慣れた今となっては塗装の剥がれた箪笥も軋む卓袱台も、染みの付いた和柄の座布団でさえも気に入っていた。

 箪笥の上には少し色褪せた身重の母の写真が飾られている。たまたまこの屋敷で一枚見つけたもので、やたらと大きなお腹をした若い頃の母が、幸せそうにはにかんでこちらを見ていた。髪は黒い。どうやら倖姫のこれは両親からの遺伝ではなかったようだ。

 この家に倖姫の肉親はいない。十一歳の時に他界した母のるいがこの名家の当主、比与森護(まもる)の妹であり、その縁で倖姫はここで養ってもらっている。

 元々倖姫には父親がおらず、藍ヶ淵から離れた小さな地方都市に母子家庭で暮らしていた。倖姫は藍ヶ淵の生まれだったが、産まれてすぐに母親は故郷を離れ、それから一度も帰省することは無かったので、倖姫は母親が過労で死ぬまで親族に会ったことすらなかった。そして遺された倖姫を、比与森家がたっての希望で引き取ったのだ。

 曰く、猩猩緋の髪の仔は藍ヶ淵の宝。ぜひ家に貰い受けたい、という理由で。

 それから五年間、倖姫は何不自由なく育てられた。勿論、義務を果たしているが故の処遇ではあるが、それでも感謝の念が消えることは無い。そう考えるほどには倖姫は謙虚だった。

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