化け物は胙(ひもろぎ)に出会い歓喜する 02
返事のない教室に背を向けて、倖姫は学校を後にする。空調の効いた校舎を出た瞬間、むっとした残暑の熱気が彼の身体に纏わりついた。
低くなった太陽から発せられる橙の光が、全てを平等に照らしている。倖姫は校門を潜り、帰宅路である空色のアーケードが掛かった商店街に入った。この田舎町で唯一栄えている場所だけあってシャッターの下りている店舗は殆ど無く、魚屋、自転車屋、金物屋、肉屋、クリーニング店、八百屋、酒屋、薬屋など、昔ながらの個人商店が居並ぶ。西日が差す中、夕飯前とあって活気を増す通りを、倖姫は俯いて足早に進んでいく。
なるべく目立たないように、なるべく見つからないように。
「あら倖姫君、今帰りかい?」
「倖姫君。昨日も神事、ご苦労様ね」
だがそんな倖姫の些細な努力も空しく、鮮やかな猩猩緋(しょうじょうひ)の髪を目ざとく見つけた店主達が、小さく丸められた背へ言葉を投げかける。俯いたまま、倖姫はゆっくりと深呼吸した。
「――いえ、それが自分のお役目ですから」
学校でしたのと同じ、愛想笑いを貼り付けた顔で倖姫は返事をする。
「この前は御清めの水ありがとう。あんなに沢山倖姫君一人で運んで、大変だったでしょうー」
「でも噂通りの効果で、本当に助かったわ」
「あら、倖姫君!今日の林檎は良いわよー」
「倖姫君、少し前髪切ったらどうだい?安くしとくよ」
倖姫君倖姫君倖姫君倖姫君―――!ああもう嫌になる。胙と嘲り呼べばいいのに。
それでも代わる代わる声をかけてくる相手に曖昧に会釈しながら倖姫は並ぶ店の前を通り過ぎていく。
わかっている。彼等は皆明朗な笑顔で自分を見送り、そして行き過ぎた倖姫のその背中に、死んだ蛙のような目を向けるのだ。
それでも受け入れるしかない。倖姫にもそれぐらいの分別はある。
もう少しで出口だ。アーチ型に切り抜かれた向こう側が別世界に見える。倖姫は喘ぐように空気を肺に取り込み、縺れるように足を動かす。
その時、もう少しでこの視線から逃れられると安堵しかけたタイミングで、
「あ――!倖姫、みぃつけた――」
その声は、雑踏の中で倖姫の耳へ真っ直ぐに届いた。
名前を呼ばれた事に、違和感は無い。この町で倖姫を苗字で呼ぶ者は居ないから。だが、こうも心から親しげに飛びかけられる事も無い。
足を止め、ゆっくりと通りを振り返る。
波が引くように周囲の音が遠ざかっていく。奇妙な感覚。
「え……?」
倖姫は目を瞬かせた。商店街から、人が消えていた。
倖姫と、見知らぬたった一人の男を残して。
倖姫は驚いて周囲を見渡した。さが、店員も客も、誰も彼もが石畳の敷かれたアーケードから消え去っている。
何時の間に?みんな何処に行った?
倖姫は混乱しながら一人残った男に目を向ける。
数メートル離れた先から男はじっと倖姫を見つめていた。
白い影法師のような、細長いシルエット。多分身長は二メートル近くあるだろう。だが身体つきが枯れ木のように細身なせいで大柄という印象は無い。若い男だった。
男の顔を見て、倖姫は思わず息を飲む。
人物というよりも美しい風景を思わせる端正な容姿だった。さざ波ひとつない湖のような花浅葱の右目と、光を浴びて瑞々しく伸びる若葉のような千歳緑の左目。そしてその二つの色を薄く覆い隠す、男にしては長い白雪の髪。
一瞬、雪深く静謐な森に迷い込んでしまったかのような錯覚を倖姫は起こし、その日本人離れした美貌に息を呑んだ。
もしや商店街にいた皆は、この田舎町には似つかわしくない彼に、驚いて隠れてしまったのだろうか。
倖姫の視線を受け、男はものの数秒で破顔した。
倖姫がたじろぐ程に、純粋な、まだ誰にも汚されていない新雪のような無垢な笑顔だった。
「こうき、こうきぃ……倖姫!!」
少し舌足らずの声は、子供のようにたどたどしく、思った以上に若い。だから驚き損ねたし、不審に思う暇も無かった。
彼が全力で自分に駆け寄ってくる。それを映画の一シーンのように呆けた顔で倖姫は眺めていた。
その結果、伸ばされた手に倖姫は咄嗟に反応できなかった。
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