第5話 思考の隅(研究対象)

 ――時々、脳を近所の側溝のように思う時がある。


 少しひび割れた声がいかにも怠そうにそうこぼした。

 部屋は白い。


「流した笹舟を追い掛けて、遠くに行ってしまったのを見届けると妙に満足するだろう」


「思考も同じようなものだ。どこぞの誰かも人間は思考能力を持つ草の一種だと言っていたから大して変わるまい。……違ったかな」


「思考は感情より怠慢ではあるが忠実な部下だ。だが時折、思考の中にも主の知らぬうちに視界の端を掠めて流れていくものがある」


「そういうものに限って物事の真理を指していたりするから、逃したことが口惜しくて仕方ないと思う」


「だが」


「知らないうちに流れていくのだから、そもそもそれが真理かどうかさえ判ったものではない。そうだろう」


「故にあとに残されるべきは真理を失った絶望ではない。単に、あれこそ真理だったかもしれないという、皮算用でがらんどうの期待だけだ」


「そんなものを必死に追おうとするのだから俺も余程暇なんだろう。溺れる者は藁をも掴む。ただ春の夜の夢の如し。……いや、違ったかな」


 無機質なレコーダーから錆のように落ちていた声はそこで一旦口を噤んだ。気の利いた二の句を探し疲れて、とうとう諦めたようにも見えた。三拍後に何かを引き摺るような音が近寄ってきて、残り香のように漂っていた静寂がぶつりと音を立てた。

 部屋は白い。


「時々、奴等は生きているんじゃないかと思うことがある」


 先程よりも近い距離で声は続いた。思い出し思い出し話すような歯切れの悪さで、それでも止まずに垂れ流される。


「流れていったやつが、ドブ川の彼方で立ち上がるのが見えることがある。そこでようやく判るんだ」


「ああ」


「帰って来やがった、と」


「恐らく……恐らくだが、そこで理解できる。そういうものなんだ。知らぬ間に流れていったあれはやはり真理に近いものだったんだ」


「脳の掃き溜めに寄り集まった思考は、その限りない整合性ゆえにいつしか思考そのものから」


「思考する、という動詞を伴った生き物に変わる」


 当然だが、と続ける声はいつまでも淡々と気怠い。響く部屋には何も無い。


「俺は俺で日々思考を続けている。その合間を縫って別の誰かに貴重な時間を割いてやる暇は」


「……無いんだ。だからすぐに分かった。俺の許可もなく俺の頭を使って、俺がこうしている間にも勝手に思考している奴が」



「いる」



 何とはなしに俯けていた顎を上げた。部屋は白い。円い部屋に一面の鏡。多角的な36人の自分が、あちこちでべしゃりとだらしなく座っている。


「一日中耳元で喚いてる。お前もそうだろう。この糞みたいな場所で一日中あんなことされちゃあよ、手前の身体だって便利か不便かよく分からないモノになるわな」


 さあ、耳を貸せ。お前の場末に追いやった、気怠い真理の声を聴け。


「お前がこれからすることはな」



 囁かれたので、辺りを見回した。

 見回したからといって、特に答えが与えられる訳でもなかった。


 ただ唐突に、本当に唐突に、自分の圧倒的優位を理解した。ぐるりを囲んだ銃口より、鏡の向こうの数十人より。それは言語化されていないざっくりとした概念の理解であり、飼われた獣が不意に得る直感でもあった。


 つまりあらゆる面において、自分はこれらを越え、

 掻き切り、

 千切って、

 食うことができる。


「奴等はいつだって腹を空かせている。時々餌をくれてやれ」


 さあ、お前の怪物はなんて言ってる?


 そうして何十回目かの再生が終わった。

 そろそろ頃合いだと思ったので、首輪を鳴らして立ち上がった。

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