第4話 淫祠出征


 今日、この家を出て行く。それはさながら蠱毒のようだった。

 放たれようとしている災厄を前に、うふふ、と女は笑った。


 一通り支度は整い、時刻は既に逢魔が時を控えて部屋全体を橙に染める。夏から秋に特有の、あのじくじくとした逃げ場のない色だった。

 だだっ広い日本家屋というものは玄関まで同じように出来ていて、引き戸の硝子の向こうにも、ただただのっぺりとした橙色が刷かれていた。


 女の鼻唄に合わせて、かりかりと白壁を削る音がする。

 旧い木と色褪せた紙の匂い。古臭い畳が西日に焼かれるような、今は亡き懐かしさの皮を被った陰鬱な空気。それだけが、この家を占めていた。


 引き戸の向こう、橙の中に真っ暗な人影が立つ。その頭が音もなく落ちて、砂山が崩れるが如く消える。代わりにヒグラシが恐る恐ると鳴き始め、それもすぐ潰れたように鳴き止んだ。


 ぎちゃっ。


 女は退屈そうに自慢の黒髪を弄んだ。どこからか、ぷんと錆の臭い。

 透けた障子紙の向こうで、何かがくねくねと踊っている。


「あはははははははははは」


 飽きてふと口を閉じると、つんと耳を刺すほど静寂の音がした。

 どこかの水場を詰まらせている暗緑色の塊がごぼりと鳴く。


 人の気配はまるでない。


 それでも耳を澄ませば遠くの廊下を走る音でも聞こえたかもしれない。が、正真正銘、この屋敷は無人だった。


 欄間からぶら下がる濡れた髪を尻目に、組んでいた脚を三和土たたきに伸ばして踵を打つ。奥座敷には市松人形の首が転がって、肝心の身体ははりの上から仏間を睨んでいた。

 吊り下げられた爪先が畳を擦るような音がする。


「好い加減になさぁい。置いて行くわよ」


 女が白い喉を反らして呼び掛けると、ややあって仏間からごとりと重たい音がした。肩を竦めて首を回す。

 茶箪笥の下段、樟脳も枯れ果てた影濃い隙間から覗き続ける眼窩がある。先程から汚い色をしていた。


「なァに? あなたも来たい? 連れてってあげても良いわよ」


 暇潰しの問いかけに、下水音のような喘鳴がぜろぜろと応える。

 女が吊り上げた紅唇の先には、哀れな汚泥と髪の絡まった綿埃のみが残された。




 今日、この家を出て征く。

 差した橙はいつしか朱に染まり、宵に融ける素振りを見せて色濃く白壁に縋り付いた。柱時計の重い長針が、がこんがこんと行きつ戻りつを繰り返す。

 そうしてようやく一つ、がこん と進んだ。


「時間よ。しけた床下に永劫居たくないならいらっしゃい」


 どこかで大きな鳥が羽ばたく音がした。

 土間に投げ出された細腕が身動ぎする気配に、屋根裏の左足が倣う。

 壁の小面が、立ち上がった女をきろりと目だけで追った。

 背の上に正面の首を挿げた坊主頭がぎりぎり、り、と捩れながら後を追う。


 開け放たれた引き戸からぬるい風が一条抜けて、ひるがえった黒髪がてらりと夕日を映した。


 凶兆だの禍を呼ぶだの、かと思えば守護だの福徳を招くだの。

 御蔵に眠る襤褸ぼろ巻物の落書きをなんとまあ律儀に信じてしまった、愚かで、古臭く、不運な一族の内に、女はただ降りただけ。

 野に放てば良かったものを。祀り上げねば良かったものを。

 生半可な畏怖を以って巻き込み、取り込み、溜め込んで。何方付かずの彼岸の蟲は寄り集まり、喰らい合い、いつしか途方もなく大きな一つの厄を産み落とした。


 肚に籠められ眠る胎児は、外界を夢見て蠢動しゅんどうする。そういうものだ。そうしてまた、ここも人知れず勝手に絶えるのだ。もはや止まらぬ。


 風が吹く、風が薙ぐ。ごうと音を立てるつむじ風が瓦屋根を駆け上がり、黒髪を巻き上げ、災厄の前途を言祝ぐ。


 嗚呼、諸々まがごと罪ケガレの集い給い濁し給ふとまおすことの由を、魑魅魍魎、有象無象、やおよろずの妖共に、黄泉の醜女しこめの耳そばだてて聞こし召せと畏み畏みまおす。


 ああ清々したと女は笑った。


 あたしを、

「あたしたち」を、

 いつまでも、こんなところに閉じ込めておくからいけないのよ。


 後に黒々と伸びた影に手脚頭は無く、何が面白いのか、ただくねくねとのたうつ。

 それを一瞥して、女は至極満足気に爬虫類のような顔で笑った。



 ねぇ。

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