47:死に損ないのバラッド

 春の四方津湾の水は冷たかったけど、泳げないほどじゃなかった。

 警察の包囲は厳しかったけど、逃げられないほどじゃなかった。


 チート能力を舐めてもらっては困る。

 呼吸しなくても大丈夫だし、無線通信なんていくらでも妨害できるんだ。


 そういう訳で。

 俺は再び槇田動物病院の応接室で、ソファに腰を下ろしていた。


「生きていたんだね、紙袋マン君」


 手ずから紅茶を出しながら、槇田センセーは笑ってくれた。


「マスコミは、君達は二人揃って投身自殺ってずっと報道してたけど」

「まぁ、確かに、二度と四方津湾で泳ぎたくはないですね」


 とにかく臭いがキツかった。まだ髪がドブ臭い気がする。

 まあ、それはいい。大したことじゃない。


「今日はセンセーに、渡したいものがあって来たんですよ」

「遺品や遺言なら受け取らない。彼の親族が受け取るのが筋だからね」


 俺は神妙な顔で、上着のポケットから一枚の紙切れを差し出した。

 東南アジアの某国――詳しい場所は想像に任せるけど――行きのクルーズチケット。

 槇田センセーは、訝しげな表情でそれを受け取った。


「俺からのお詫びです。センセー、この前ので、むち打ちやったでしょ?」


 センセーはちらりと視線を上げて、


「……詳しく聞かせてもらっても?」

「今夜7時に、四方津港に到着する高級クルーズ船のチケットです。たまたま・・・・一枚余ったのを、友達から譲ってもらって。なんかすっごいリゾートを巡るらしいので、療養にはちょうどいいかなって」


 俺は、にっこりと笑う。


「連れの心配はいらないですよ。部屋のベッドにくくりつけてあるんで、また治療してやってください」


 センセーからの返答は、溜息だった。


「……君は、気取り屋すぎるな。紙袋マン君」

「すいません。一度やってみたかったんですよ」


 前に映画で見たことがあったんだ。

 逃亡犯と恋人の再会を手助けする、おせっかいな友人。


 まあ、実際に手配をしてくれたのは、シゲ兄さんだった訳だけど。

 流石はヤクザ、色んな人脈があるもんだ。


「ありがとう。旅の準備があるし、今すぐできるようなお礼は何もないけど。本当に、嬉しいよ」


 別にお礼が欲しくてやったわけじゃない、とは思ったけど。

 俺は黙って頷いた。


「君も、どうか自分を大切にしてくれ。いくら君が人間離れしてても、ダメージは負うんだから」

「ご心配ありがとうございます。ご覧のとおりですけどね」


 地上数十メートルから海面に叩きつけられても、傷一つ無い。

 これがチートじゃなくて、なんだっていうんだ?


「私には、少し疲れているように見えるよ。……多分、君は今の仕事を始めてから、それほど経っていないんだろう。血や暴力や、銃口に慣れているようには見えない」


 センセーの指摘は思ったよりも鋭くて。

 俺は返す言葉がなかった。


「いくら身体がタフでも、精神はダメージを負う。適切なケアをした方がいい。医師からのアドバイスだよ。専門は動物と死にかけの犯罪者だけど」


 言って、槇田センセーは優しく笑った。

 何か伝えたいと思ったけれど、いい言葉が思い浮かばなくて、結局俺は、笑い返すことしか出来なかった。


「……うん。ありがとう、センセー。元気で」


 ――槇田動物病院を後にして、俺達は帰途につく。

 我らが住処、メゾン・ヴァルハラヘ。


「いやー、これで後始末も終わりって訳だね。おつかれさま、清実ちゃん」


 いつもどおりペガサスの背中の上で、ブリュンヒルデが言う。


「……今回は、マジで、つかれた」


 天空から街を見渡しながら、俺は思わず、口走っていた。


「あら。珍しく素直だね。センセーのアドバイスのおかげ?」

「かもな」


 四方津市の街並みは、いつも通りの穏やかさだった。

 現実世界で普通の高校生として生きていた時は、縁もゆかりもなかった暴力と腐敗。

 そんな薄暗いものの気配はまるで感じられない。


「なあ、ブリュンヒルデ。ホントにこれでよかったのかな」

「ちょっと、なになに、熱でもある? お腹痛い?」


 ブリュンヒルデは肩越しに俺の顔を見やり、呆れたように微笑んだ。


「自分で言ってたじゃない。エザワくんがやったことには価値があった。センセーにとっても、他の誰かにとっても。だからここまでやった。でしょ?」

「ああ、そうだよ」


 もちろん、ヤツがやらかしたことはとんでもない重罪で、それは疑わないけど。

 それでもクソのような連中をのさばらせておくよりは、ずっとマシだった。

 俺はそう信じてる。


「……もしかして、自分じゃなくてエザワくんが転生すればよかったのに、とか思ってる?」

「お前だって言ってただろ。『天才だ』って」


 意志が固くて、腕っぷしが強くて、男前で、鈍感だけど女にモテる。

 異世界転生モノの主人公には、ピッタリだろ?


「おい、何笑ってんだ、ブリュンヒルデ」

「はは、ごめんごめん。清実ちゃんも意外とカワイイとこあるんだな、って思って」


 クソ、からかいやがって。


「まあ確かに。エザワくんなら、異世界に転生してもイイ線行ったと思うけどさ」


 だよな。かなりバイオレンス路線になるけど。


「清実ちゃんでなきゃ、エザワくんとセンセー、ついでに、槍度島のオッサンは助けられなかったよ」


 ……ホント、こういう不意打ちはズルいよな。

 正真正銘、女神のスマイル。お代はゼロ円でいいのかな?


「……別に、槍度島は助けたかったわけじゃない」

「でも、見殺しは『気分良くない』んでしょ? ほーんとツンデレなんだから、清実ちゃんってば」

「うるさい、別にデレてない」

「はいはい」


 ブリュンヒルデは、もうこっちを見ていなかった。


 だから、俺が少し笑ったのは、気付いていなかったと思う。

 危ないところだった。

 バレたら、またからかわれるからな。

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