第11話 形づくる 前編 1/3

 俺がするべきこと。


 残り香の行動を止めること。


 そのために、八白を助けること。


 そのために、結界の中に入ること。


 そして……



 俺は、自分の家に戻ってきた。隠遁術の札は貼ったままだ。途中で誰かに出会って、時間を取られたくない。俺は今、何をするべきか。それを調べて、確かめて、考えて、決めた。もう、決めた。必要な札を懐に入れて、隠遁術の札を貼り直す。


 家を出て、何度も通った山へ向かう道をたどる。何度も通った道。この角を曲がれば山が見える。そのまま真っ直ぐ進めば細い山道がある。その先には長い石段がある。石段を登り、鳥居をくぐれば社がある。


 夕日が眩しい。俺はこの色が好きだ。八白と会うときの色が好きだ。俺は大好きな色に染まる街をゆっくりと歩く。

「ここか」


 嗅覚は、もっとも原始的な感覚だと聞いたことがある。記憶と臭いは結びつきやすく、危険な臭い、好ましい臭いは、その臭いを放つモノを想起させる。血の臭いを恐ろしいと感じ、果物の匂いに喜び、プールの消毒の臭いを懐かしく思い、家族の匂いが染み込んだ家の空気に安堵する。


 だから、俺にはわかる。落ち着いていれば、結界がどこまで広がっているか。臭いで判断できる。八白の念が込められた結界だから。その念が放つ臭いに、俺は懐かしさを感じた。


「みんなを心配してるんですね」


 俺は、ゆっくりと結界に触れる。光る薄い膜の様なものがゆったりと波打つ。これ以上踏み込めば、惑わされて来た道を戻されるだろう。冷静さを失って走り回ったときのように、気が付いたころには家の前だ。


 自分の額に札を貼る。読心の札をつけて、結界にひたいをつける。目をつぶり、集中する。まずは、この結界を越えなくてはいけない。八白が張ったこの壁を越えないと……八白に近づくこともできない。


「聞こえますか。八白さん」

 結界には念が流し込まれている。札をどれだけ使ったとしても、それを維持し続けるためには供給が必要なはずだ。これだけ大規模な結界なら完全に札に任せているとは思えない。と、いうか、そうでないと本当に結界を越える方法がなくなる。


「聞こえますか。八白さん」

 目をつぶり、集中し、語りかける。それでも、視界はまぶたの裏を映すばかりだ。諦めず問いかけ続ける。何度も、何度も、何度も。


「八白……!」

 視界が、ぼんやりと白くなる。

「繋がった!」


 真っ白な空間。切り貼りされた景色と、その隙間を埋める書棚の海。そして、波のように盛り上がった書棚に囲まれて……八白がいる。手足を投げだして横向きに倒れている。俺は、八白に歩み寄った。


「結……?」

 八白が俺を認識した。だが、視線がこちらを向かない。目が見えていないのかもしれない。


「八白さん……」

「結か……?」

 声でわからないのだろうか。もしかしたら、耳も聞こえていないのか。


 近づくにつれて八白の姿が明瞭になる。手足には釘のような物が無数に打ち込まれ、地面に打ち込まれている。よく見れば、地面も書棚だ。書棚の天板の上に、また書棚の海ができている。


「結……なぜ来た……」

「助けに来ました」

「結……、結……」

 今の八白に俺を弾き出す力は残っていない。目も耳も利かず、手足に打ち込まれた釘の痛みに耐えながら、それでもなお俺の心配をしている。それが、臭いでわかる。まして、今は心の中だ。隠し事をする余力がない八白の心が伝わってくる。


 そしてそれは、こちらが伝えようとすれば容易に伝わる、ということでもある。

「俺がしようとしていること、わかりますよね」

「……」

 白い空間の中で、俺は八白の額に自分の額を押し付けた。


「阿呆……」

 八白が力なくつぶやく。

「……100年、早いわ」

「すみません。100年も待てないんで」

「……あほう」


 目を開く。


 薄く光る膜に、人が一人通れる程度の穴が開いている。俺はそこから壁の内側に入った。すぐに結界の穴が閉じたことが肌でわかる。引き返すことはできない。もちろん、そんなつもりはないけれど。



 何度も通った石段と、何度も見上げた鳥居。その向こうの夕暮れ。すべて同じはずなのに、真夜中のような静けさと獣の内蔵を思わせる生々しい悪臭が辺りを満たしている。


「思い出の場所を汚された気分だ」

 一人、口の中でつぶやく。俺はこれから、この原因であるを……


 できるかどうか、不安がぬぐい切れない。でも、八白は俺を信じてくれた。この場所にいられることが、その証拠だ。俺は、八白の中にあった冷たい壁の内側に、初めて足を踏み入れたんだ。


 悪臭は、人形のものと八白のものが混ざり合っている。なら、この悪臭の一部は八白が抱え込み続けた執着でもあるのか。この臭いは、寂しさだ。ゼツを失い、祠の一族に疎まれ、それでも見捨てずに、神谷家を――この土地を守ってきてくれた。たった一人で。


「“汚された気分”なんて……何も知らないで言うなよ……馬鹿か俺は」

 自分に腹を立てる。ここは、なんだ。八白が抱え続けた――あんなに強い人でも凍えるほどの、数百年分の寂しさの中なんだ。だから、八白が抱え続けたこの執着を、否定していいわけがない。


 俺は、この場所から八白を助けにきた。この寂しさから、八白を助けたい。人形との因縁から。ゼツの言葉から。八白を助けたい。それが、俺がずっとしたかったことだ。したかったことと、していることと、できることが一致している。


「だから。絶対に大丈夫……!」

 決して声に出さず、口の中で言葉を噛みしめる。助けるんだ。八白を。


 一段、一段と登るにつれて、寒気をもよおすほどの悪臭が鼻に押し付けられてくる。臭いが、来るな、来るなと語りかけるようだ。俺の頭も、その臭いに危険信号を発し続けている。気を抜けば、石段を転げ落ちてしまいそうなほどの圧力が鳥居の向こうから漂ってくる。


「この辺だろう」

 俺は、石段をれてやぶの中に入った。ここからが、俺の作戦だ。身を隠して、ゆっくりと社に近づく。


「チャンスは一度だけ」

 音を殺し、そっと近づく。


 隠遁術の札をしっかり確認してから、社のある広場を覗く。


 座り込む八白と、その前で渦を巻く何か――あれが人形だろう。そして、吐き気を抑えきれないほどの悪臭の中に、俺の予想通り、もう一つの匂いが漂っている。


 相手は遥かに格上だ。だから、隠遁術での不意打ちにかける。たった一回。一回だけ術を使えば……この状況を解決できる。はずだ。たぶん。おそらく。きっと。


 息を整える。気配を消す――なんてどうやればいいのかわからないけれど、とにかく物音を立てないように気をつける。一瞬でも疑われたら術を破られるだろう。だから、隠遁術を使った上でさらに細心の注意を払う。


 大丈夫だ。何といっても、今使っている札は八白が作った物だ。修行で使った見本の方を、八白は箱の中に一緒に入れておいてくれた。札の性能は遥かにいいはずだ。だから、大丈夫、大丈夫。


 ようやく心臓が落ちついた。決め手になる札――たった一回のチャンスをかける、文字通りの切り札を手に持ち、俺は藪から走り出た。


 瞬間、悪臭が渦を巻く。


 気づかれたが、それは想定内。重要なのはこの後だ。

「八白さん!!」

「……!」

 臭いの渦が一瞬止まる。八白が必死に抑え込んでいる。


 急げ! 急げ! 急げ!!


「……結!!」

 八白が悲痛な声を出す。渦がまた動きだす。


 だけど、間に合った。

「ゼツさん! 話があります!」

 俺は握りしめた札を、周囲と違った臭いを放つ部分に叩きつけて、そのまま飛び込んだ。


 土石流のように重く、痛みをともなってぶつかってくる強烈な悪臭の渦に身体ごと飛び込んだ俺は、意識を手放さないよう必死で歯を食いしばる。そして、貼り付けた札――今も、空中に浮かぶその札に……。


 俺は額を押し付けた。

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