第8話 消える 2/3
風呂場の排水溝を探す。短い男の毛を見つける。結の物だ。自分の体毛と選り分けて、結の物だけティッシュにまとめる。
「……変態っぽいが仕方ないじゃろ」
この髪は結の体の一部であり、囮に使うには最良だ。家に染みついた気配を術で強め、加えてこの髪を
家の中を一回りして術の準備を整えて、玄関先に出る。集めた髪に火をつけて、札をかざして念を送った後、火の中にくべる。どうか、これで上手くいってほしい。
「肌まで晒したんじゃしな……」
一緒に風呂に入るというのは、本当に、それはもう本当に、気恥ずかしいものだった。思い出すたびに顔が熱くなる。つい、両手で顔を抑える。結の方は、まったく気にしていなかった様子で――意識されない方が術を仕込むには好都合なのだが、それはそれで、非常に複雑かつ苛立たしい。
「混ぜ埋め込めてしまいたい……」
好都合とはいえまったく意識しない結にも、時間がないとはいえこんな手段を取った自分にも、ぶつけようのない怒りと後悔が湧いてくる。
こんな風に感情を波立たせることも、ここに居ついてからはずっとなかった。それが、儂には心地よいのだ。だから、儂はこの居場所のために戦わなくてはいけない。
空を見やる。気配が近づいてくる。
姿はない。
「やはり、すでに形を失っているか」
「……会いたいの?」
結の前に現れた時も、声だけだった。姿を隠していたかも、と思っていたがどうやらもう人形としての体は朽ちてしまったようだ。
人形の声が耳元で響く。
「会わせてあげようか」
「余計なお世話じゃよ」
会話をしながら引き付ける。
結界は一度張ったらそれまでだ。準備に時間がかかるし、体力も精神力も消耗する。失敗してしまったら、一回消してからもう一度挑戦、というわけにはいかない。しっかりと、間合いの中に引き付ける。
人形がささやく。
「会いたいなら……」
「“死ねば会える”とでも言うつもりか?」
「……すぐに会わせてあげる」
気配が急激に濃くなる。それでもまだ引き付ける。おぞましい臭いが辺りに満ちるが、その臭気の中でも奴がどこにいるかわかる。それほど強烈な執着が、そこにいるのだ。臭いのかたまりは、渦を巻きながらこちらに向かって突進してくる
飲み込まれる刹那、軽く地面を蹴る。身体がフワリと浮き、その下を人形が通り抜けていく。空中で身体を捻り、通り過ぎた人形の背を睨む。上下逆さまになりながら、身体を人形の方へ向ける。
臭いが再度、渦を巻く。体勢を崩した人形が立ち上がろうとしている。形を持たない悪臭の渦が、そこにいる。
「情念のかたまりじゃな」
印を結び、念を込める。着地すると同時に地に手の平を押し付けて、叫ぶ。
「
仕込んだ結界が起動する。
臭いが渦を巻き、こちらを振り向く。
空高く光の輪が浮かぶ。
その
光の輪は同心円状に広がり、山を囲う。
臭いの濁流が目の前に迫る。
並んだ円は高さを変え、山を包み込む。
両手を地面につけたまま、両足を浮かせて半身を捻る
光は、ほどなく空間に溶け込み一体になる。結界が完成する。
全身のバネを利かせて、揃えた足底を臭いのかたまりに叩き込む。
人形が、ぐにゃりと歪んで臭いが舞い散る。
「無駄じゃ。散ったところで逃げる場所などない」
「……会いたくないの?」
「お前の知ったことじゃない」
声がまだそこにある。結界はきちんと機能しているようだ。
「お前の始末は、あいつがやり残したことじゃ。じゃから、儂が終わらせる」
「会いたいのに」
「やかましい!」
人形が投げかけてくる言葉は、まるで温度がない。同じことを繰り返すばかりで、こちらを動揺させようとか恐怖させようとか――まるで意図がないのだ。
もしかすると、人形には自我というものすらもないのかもしれない。子を失った親の願いから産まれ、旅人たちの願いを受け止め、求められるがままに呪いを振りまいた呪物だ。自我など、初めからなかったのかもしれない。
「いや……おかしい」
形も意志もないものが存在を保てるはずがない。10年前に、もう形を失っていたとしたらそのままの状態で存在し続けられるはずがないのだ。
悪臭が一ヶ所に集まり、
「会いたい……」
「しつこいやつじゃな!」
蹴り飛ばしても吹き飛ぶだけだ。動きを縛り、封印で形を押し固めて、その上で叩き潰す。人形の動きには対応できている。手順がかかるくらいは大した問題ではない。
「お前には、願いを叶える力なんぞない」
「会いたい」
「お前には、何もできん」
「会いたいよぉ……」
「ここで死ね」
挑発してみたところで、人形の動きは変わらない。しかし、近づいてくれるならそれで十分だ。まず、
これで、ゼツが遺した因縁も終わる。心のつかえが一つなくせる。呼吸を整え、人形の動きを注視する。
次の瞬間。
「会ぁぁぁああああああああああ! いたいよぉおおおおおおお!!!」
「!!?」
突然、人形が絶叫し、動きが激しくなる。臭いは一層濃くなり、結界の中――山一つをすべて覆う程の範囲に、激烈な臭気が充満する。
「なんじゃ……!」
臭いが強すぎて本体の場所が分からない。結界によって閉鎖された空間になっていたことが裏目に出た。こんな広範囲を、ここまで濃い臭気で満たせるとは想定していなかった。
正面で臭いがねじれる。何かが動いている。
「……ぁあああ!!」
「チィ!」
人形の突進を、咄嗟に身をひるがえして避ける。絶叫と共に人形が遠のいていく。姿勢が崩れるが、すぐに立て直して縛術の準備を整える。
「場所がわからなくとも」
両手を前に出し、構える。
「真っ直ぐ飛ぶだけなら他愛ないわ!」
絶叫を上げながら再度突進する人形を正面に見据える。
「……ぁぁああ!!」
「
捉えた。結界内の臭いがおさまっていく。縛術が効いたようだ。だが、まだ終わりではない。 動きを止めた人形に、封印をかけようと近づく。
「……あいたい」
「本当に、しつこい……!?」
近づこうとした足が、動かない。
「どういうことじゃ……そんな力が使えるはずがない」
人形は“術”を使えない。使うための技術もなければ、込める念を調整するための理性もない。力任せに術の真似事をしたとしても、自滅するだけのはずだ。理解できない事態が起きているが、敵も動けないのは同じ。
術にも呪いにも念がこもる。そのため、臭いをたどるのと同じ要領で、誰の術かも調べることができる。人形の他にも敵がいる可能性もある。慎重に、しかし素早く、込められた念の出所を探る。
「これは……!?」
術にこもる念の先にいたのは……あり得ない。
「儂の術を返したのか!?」
儂自身だった。
力づくで呪い返しをしたのか? いや、もしそうなら、人形も動けなくなるのはおかしい。術をはじき返して一方的に攻撃できるはずだ。では、やはり見よう見まねで儂と同じ術を使ったのか? それもない。込められた念が自分のものであるからには、儂を縛るこの術は儂が使った物だ。
「まさか……同調しておるのか」
いわば、無理やり相手の体に口寄せされることで、自分と相手を同じ状態にする――悪霊が憑りついて身体を乗っ取るようなものか。しかも、それを自分の一部だけを切り離してやってのけた。形のない存在だからこそ、自我を持つのかすら怪しい曖昧な存在だからこそできる芸当だ。
人形の動きが突然変わったのは、儂と同調したからか……。
「もし、そうなら……」
人形の叫びはすべて。
「儂の、叫びか……」
自嘲の笑いが漏れる。
「もう、忘れたつもりだったんじゃがな」
「そうなの?僕は会いたかったんだけどなぁ」
懐かしい声が、悪臭の中から聞こえた。
「……ゼツ……?」
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