第7話 なぞる 1/3

「お前、集中力はあるくせに不器用じゃな」

「筆に慣れてないだけです」

「いや、お前普段から字が汚いじゃろ」


 俺は今、八白宅で半紙に向き合っている。横に置いた手本を見ながら、そこに描かれた文字のような模様のような何かを、短冊状の半紙に墨と筆で書き写す。俺はこの作業を昼過ぎから初めて、西日が空を赤く染めるまで続けている。折角の夏休みに、である。


「普通の字が綺麗か汚いかは関係無いでしょ。こんなぐにゃぐにゃしたもの」

「大切なのは意味が込められていることと、それが読み取れることじゃ。読めんほど汚い字は用を成さん」

「あの、ここの渦巻きみたいになっている所も意味があるんですか?」

「……そこは……飾りじゃ。オシャレじゃろ?」


 これは八白の術の一つ――札を作る修行だ。以前、尻に貼られたことがある。自分が使える術であれば、意味を持たせた記号の連続で同じ効果を得られるという理屈らしいが、小学生以来の下手糞な書道でそんなことができるのか半信半疑だ。


「飾りまで真似しないとダメですか?」

「飾りとそれ以外の区別がつかんうちはダメじゃな」

「ごもっともで」


 俺は横に置いた八白の手本を真似て札を書き続ける。

「小学生に戻った気分です」

「普段は筆なんて使わんからの。儂も札を作る時しか使わんし」

「記号の意味が大切ならボールペンでもできるんじゃないですか?」

「いや、筆の方が良い。色々と細工した墨を使うでな。お前が使ってる墨も儂のお手製じゃ」

「なんか、それっぽいですね」

「いやまぁ、“それ”そのものなんじゃけどな?」

「よし、できました」


 書き終わった物を八白がチェックする。

「んー、止め跳ねはめちゃくちゃじゃが、まぁ読めるから大丈夫じゃろ。60点」

「結構、判定緩いんですね」

「儂も実戦で覚えたクチじゃからな。それらしい“お作法”もあるんじゃろうけど、あまり気にしとらん」

「使えるかどうかが優先ですか」

「そういうことじゃな」


 そういうと八白は、出来立ての札を俺の額に貼り付ける。これで俺自身に術がかかっているはずなのだが、認識を邪魔する術なので自覚できない。

「ちゃんと隠遁いんとんの術になってますか?」

「んー……まぁ、できとるよ? 60点なりじゃけどな」


 一応、機能はしているらしいが不安だ。

「人形のこともあるし、早く上達しないと」

「そうじゃな。もっと早くから修行しておけば、焦ることもなかったんじゃろうけど」

「それこそ小学生のころからやっていれば、書道の成績も上がりましたかね」

「いや、あのころのお前じゃ、素直にやっておらんかったじゃろ」

「え?俺は子供のころから素直ですよ」

「お前が素直なのは、自分がやりたいことにだけじゃろ」


 子供なんて大抵そんなものでは? と思ったが、正直にいえばあまり覚えていない。

「小学生のころでしたよね。初めて会ったの」

「そうじゃったっけ? お前は今も子供じゃし、よく分からんな」

「そのころの俺ってどんな感じでした?」

「今と大して変わらん」

「お年寄りから見たらそうかも知れませんね」

ひねろすぞ」

「果汁出そう」


 俺は集中するフリをして黙って手を動かす。次の半紙を準備し、手本を見て筆を走らせながら、俺はぼんやりと昔のことを思い出していた。


 初めて八白に出会ったのは、確か小学校に入ったばかりのことだったと思う。初めての夏休み。それまで好きに遊んでいた俺は、学校に行くというある種の義務を負わされて――今にして思えば些細な義務なのだけれど、その息抜き、あるいは反抗心から“危ないから行くな”と言われていた社に遊びに行った。


 学校が好きではなかったのだと思う。ずば抜けて利口だった訳ではないが、それでも周りと足並みを揃えろと命じられるような環境は窮屈で、何か言いつけを破ってみたくなったのだ、と今なら言語化できる。


 山に入ろうと思ったのはその日が初めてだった。何か用事があった訳でもない。それどころか、そこに何があるかもよく知らなかった。“古い社がある”とか“石段が険しいから危ない”とかそのくらいのことしか聞かされていなかった。


 だから、へとへとになりながら登った石段の先にあった社が、思いの外、陽光の入る綺麗な場所だったことや、そこを掃除している美しい少女が振る向いた時に見せた驚いた顔を、俺は鮮明に記憶している。八白の第一印象は、少し年上のお姉ちゃんだった。フタを開けてみれば、途方もなく年上のおばあちゃんだった訳だが。


 その後、俺はどうしたのだろう。たしか、八白に声をかけたんだと思う。「こんにちは」だか「おはよう」だか。その後は? 八白があいさつを返して、どこの子か聞かれて……俺は名前を答えて……


「八白さん」

「なんじゃ? もう書けたか?」

「俺が八白さんの名前聞いたのって、いつでしたっけ?」

「お」

「お?」

「覚えておらんのか!? 死にかけたのに!?」

「え?」


 八白が裏返りそうな声を出した。八白がこんな声を出したのは初めてかも知れない。驚いた俺も裏返りそうな声で聞き返した。

「死にかけたんですか? 俺」

「おま……おまえ……お前ぇ……」

 八白が頭を抱えている。いろんな顔が見られて面白い。

「面白がっている場合か?」

「いや、思い出せないのは仕方ないですし。“分からないなら聞く”が最近の俺のモットーです」

「お前……わかった、話してやる。ただし、終わるまで手を休めるな」

「手短にお願いします」

「今日は泊りになると思え」



 子供の頃を俺は、かなり向こう見ずだったらしい。八白の言う通り“自分がしたいことにだけは素直”であり、そのせいで学校ではいい意味でも悪い意味でも目立っていた。そんな俺には、数か月しか経験していない小学校生活でもフラストレーションを貯めるには十分だったようだ。ちょうど、妹の紬が生まれたばかりで両親の関心がそちらに移ってしまったように感じたことも遠因かも知れない。


 そのせいか、初めて出会った八白に対しても高圧的に接しようとしたそうだ。まったく記憶にないのだが、木に登ったり、石を持ち上げたりして

「僕はこんなことができる」

「こんなこともできる」

「すごいだろ」

 と、アピールしたそうだ。そして、辺りを見渡して一番高い建造物を探し、見つけた鳥居によじ登ろうとした所を八白に引きはがされた。

「いいかげんにせんか」

「ケガをしたらどうする」

「危ないことができても何もすごくない」


 言われてから思い出した。乱暴に首根っこを掴まれて目を見て叱られた。怖かった記憶はない。母親や学校の先生がたまに出す大声のことを“叱る”だと思っていた俺は、一つ一つの言葉を胸に縫い付けるように語りかける彼女の凛とした姿に――そのときは、その感情をどう言い表していいのか分からなかったけど、のだと思う。


 それから、俺はよく八白に会いに行くようになった。幼かった俺にとっては姉のような存在だった――いや、そういう存在になって欲しかったのだと思う。だから、彼女に近づこうとして、そのころから俺は八白に執着した。


 俺が自分の幼少期を思い出しているのを意に介さず、八白は話を続けている。夏休みで暇を持て余していた俺は連日、社にやってきて掃除の邪魔になっていたそうだ。そう言う八白も掃除以外にやることがなかったので、渋々、俺に付き合っていたという。


 いや、渋々というのは嘘だろう。八白も楽しんでいた記憶がある。初めて会った時の驚いた顔、その後の叱る顔、走って転んだ俺を心配する顔、木の実を見つけて渡した時の笑顔。話を聞いていると色々な顔を思い出した。


 ちらりと八白の表情をうかがう。俺の頭の中も当然のように見えているんだろう。俺が何かを思い出すたびに、口元が緩み、懐かしそうな顔をしている。八白の顔は少しだけ、ゼツの話をしている時の表情に似ていた。


 八白はまるで昨日のことのように「引っ張り回されて大変だった」とか「うるさくて仕方なかった」とか愚痴っているが、肝心の“名前を聞いた時の話”は一向に始まらない。つまり、俺の修行も終わらないということだ。


 俺は、八白の話を聞きながら札を作り続けていた。

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