第6話 まみれる 2/3
間宮のアトリエに通された俺は、小さな椅子を出されてそこに座った。香取はすぐに帰り、俺と間宮はアトリエに二人きりになっていた。俺にしか認識できないように術を使った状態の八白もいたのだが、香取の後ろについてどこかに行ってしまった。
間宮が、相変わらず緩い表情で言う。
「そんなに緊張しないで良いよ」
「いやぁ、奥さんを探して欲しいと言われるものだとばかり思っていたので」
「ああ、そうだよね。あー、普通そうだね」
「それに、画家のアトリエなんて初めてですし」
「そうだよね。でも、ちょっと傷ついたよ?」
間宮は少しだけ真剣な顔をした
「義信くんが帰る時、結くんってば、必死に“待って!”って言うんだもの」
「すみません。あの、二人っきりが嫌とかじゃなくて、香取も一緒に奥さんを探すものだと思い込んでいたから……びっくりしたんです」
本当は八白に向かって“待って”と言ったのだが、もちろんそんなことを正直に言えるわけがない。八白が大人に化けるのではなく隠れてついてくることを選んだのは、帰るときに口実が必要ないからだったのではないかと、今では思う。
「ああ、そうなの」
間宮はそれだけ言うと作業に戻った。表情は緩いまま。何を考えているのかよく分からない。間宮が向かっているキャンバスには暗い絵が描かれている。黒の絵の具だけでなく様々な色を何重にも重ねていくと、より深い黒に近づいていくらしい。ぼけっとしながら眺めていた俺は、その色を見て八白の髪を思い出した。
「この色、好きなの?」
不意に間宮が言った。
「そうですね。深くて落ち着く色で、好きです」
「渋い趣味だね」
間宮が笑う。
その後も間宮は変わらず筆を動かす。俺はそれを黙って見ていた。彼が描く暗い、ひたすら暗い絵を何故か見ていたいと思ってしまい、俺は帰る口実を考えるのを忘れていた。
「妻はね……」
突然、間宮が口を開いた。筆を洗っている。どうやら、一息つくつもりらしい。
「妻は、僕が絵を描くと部屋から出ていくんだ」
「そうなんですか」
「臭いがね。嫌なんだって」
「絵の具の?」
「うん。そうみたい。だから、この小屋も作ったんだ」
「加藤には“集中したいから”だと聞いたんですが、そんな事情があったんですね」
「あー、うん。それもあるけどね。まぁ、僕はアトリエ、彼女は家で、ほとんど別居同然だったんだ」
「そうなんですか」
間宮が思い出したようにコーヒーを出してくれた。香りを楽しもうと思っても、確かに絵の具の臭いが鼻に残る。そして、怪異の臭いは全く感じない。ここに、俺や八白ができることは多分ない。
間宮はコーヒーカップを両手で抱えながら続ける。
「妻がいなくなった時もね。僕、気がつかなかったんだよ」
「その時も絵を描いてたんですか?」
「そう。夜中まで描いてた。で、一段落して家に戻ったら誰もいないの」
「それで、すぐ警察に?」
「いや。寝たよ。夜中だって言ったでしょ」
「はぁ?」
「出かけてるのかと思ったんだ」
「夜中にですか? 警察じゃなくて、奥さんの携帯にかけるとか……」
「ああ、そうだね。そうすれば良かったかな」
間宮は何の関心も無さそうに言った。自分の妻を何だと思っているんだろう?冷め切った関係だったのだろうか。困惑した俺の表情を見て、変わらない調子だった間宮が少しだけ焦ったような顔で言った。
「あ、でも。次の日戻ってなかったから携帯に連絡したんだよ。そしたら電源切れてたんだ」
「遅すぎませんか?」
「はは、そうかもね」
間宮は素っ気なく言う。まるで興味がないかのように。わざわざ霊能力者を探している男の態度ではない。何かを隠している訳でもなさそうで、かと言って意図が掴めない。考えていることが分からない――別に彼以外の相手なら思考が読めるという訳ではないのだが、とにかく振り回されている気がしてくる。
俺はついさっきまで早く帰りたいと思っていたが、この男に一泡吹かせたい気持ちが湧いてきていた。香取の面倒臭さは疲れるだけだが、この人の面倒臭さはイライラさせられる。遠ざけたくなる臭さではなく、元を潰したくなる臭さだ。
「もっと、慌てたりしないんですか?」
「そうだねぇ」
「あまり、心配していないんですか?奥さんのこと」
「うん。彼女は、一人で生きていけるから」
「……お二人は、仲が悪かったんですか?」
「僕が、彼女に何かしたと思ってるの?」
「心配していないと言うより、興味無さそうに見えたので」
間宮はコーヒーを一口飲んでから言った。
「うーん。僕は、好きだったよ。彼女のこと」
「なら何故、そんなに落ち着いているんですか?」
「んー……」
間宮はそのまま黙り込んだ。少し考え込んだ後、彼はまたキャンバスの前に立った。そして、何も言わないまま筆を動かし始めた。彼は何を考えているんだろう。八白みたいに術を使えたらどうにかなるのだろうか。
俺は小声で八白の名前を呼んでみた。
「八白さん……八白さん……」
返事がない。
「助けて……助けて……」
ダメだ。何の反応もない。呼べば来てくれるんじゃなかったのか。いや、呼ばれても来るか来ないかは八白の気分次第と言うことか。もしそうなら、八白はこの件に対して完全に興味を失っているのかも知れない。
俺が一人でブツブツつぶやいていると、間宮が唐突に声をかけてきた。
「感情を色で表すとしたら、どんな色を使う?」
俺は驚きながら質問を返した。
「例えば、どんな感情ですか?」
間宮は筆を動かしながら言う。
「例えば愛情。僕なら
「はねず……? 俺なら、ピンクですかね」
「ああ、近い色だね」
「近いんですか」
間宮は質問を続ける。
「悲しみだったら? 僕なら
「俺なら、紺色ですね」
「また近い色だね」
「そうなんですか」
間宮は筆を置いてから言った。
「ねぇ、結くん……殺意の色って、どんな色か分かる?」
「それは……黒とか、赤とか?」
「僕はね、見たことがあるんだ」
間宮はこちらを向いた。
「見たことがあるんだよ。殺意の色をね」
何を言っているんだ、この人は。まさか、自分が奥さんに殺意を向けたことがある、と言っているのか? 俺は間宮の顔を見る。そこには今まで通りの柔らかな表情があった。悪意はない……ように感じる。間宮はキャンバスに向き直った。
「一度ね。妻が本気で怒ったことがあるんだ。居なくなる二週間くらい前かな」
「何があったんですか?」
「僕がね、子供は面倒だから要らない、って言ったんだよ」
「は?」
「妻は子供が欲しかったらしいんだけど、僕は興味なかった。それをそのまま言ったら、すごい怒りようで……あ、怒ったって言っても怒鳴ったりとかはしないよ?ジッと睨むの」
「ちょっと、デリカシー無さすぎませんか」
「はははは。うん。よく言われる。でね、妻の気持ちと言うか怒りがね。僕に伝わってきたの」
「それが、殺意の色ですか?」
「そう。綺麗だった」
「綺麗……」
「景色のね、彩度がグッと上がるんだ。瞳孔が開くからなのかな。部屋が明るくなったみたいになってね。あ、でも、暗い所は深い黒になるの。色が全部鮮やかに見えた」
間宮は変わらない表情で、変わらず筆を動かしている。色を変えながら同じ場所を何度も塗っている。筆が動くたびに、その場所は深い黒に近づいていく。
「その絵ってその時の色を描いているんですか?」
「そう。妻の絵なんだ」
「……怖い絵ですね」
「えー、さっきは落ち着く色って言ってくれたのに?」
「意味が分かると、見え方も変わります」
「……普通はそうなんだなぁ」
俺は、変わらない表情で話す間宮を見て理解した。この人の意図が掴めないのは、何もかも諦めているからだ。妻が行方不明でも柔らかな表情のまま落ち着いていられるのは、何も望んでいないからだ。間宮は変わらず話と描画を続ける
「殺意の色はね、たぶん、透明なんだ。この上なく澄んだ透明。それを通すとどんな色でも鮮やかになる。それが殺意の色。僕はそれを残したい」
「そんな良い物だとは思えません」
「見たら分かるよ」
俺は間宮の話を聞いて、ある男を思い出していた。
「……殺意なのかは、本人にしか分かりませんが……その“色”に憑りつかれて破滅した人を知っています」
「どんな人? 興味あるな」
「恋人にフラれて、相手を呪い殺そうとした男です」
「呪いって、また突拍子もない話だね。あ、でもそうか。心霊詳しい人を探したんだから、そういうこともあるのかな」
「その男は、刃物を持ってその恋人を待ち伏せて、目の前で自殺しました」
「えー……怖い話だ」
のらりくらりと話す間宮に、俺は静かに
「どんな気持ちだったのか、考えたくもないですけど……殺意が綺麗だなんて思わないでください」
「僕が何を綺麗だと思うかは、僕の勝手でしょ?」
「そんな気軽な話じゃありませんよ。殺意を抱えてしまったのは、奥さんの方なんでしょ」
「あー……そうだった」
「それに、あなただって……」
俺はそこまで言って、言葉を止めた。俺には妙な確信があった。でも、それは直感でしかない。
「僕がどうしたの?」
だから、間宮に答えを促された時、俺は言うのをためらった。しかし、この男の面倒臭さ――嚙み合わない感覚の元は、たぶんこれなのだ。だから、俺は言った。それがこの場で俺にできる唯一のことだと思ったから。
「間宮さん、死ぬつもりですよね」
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