第18話:宵闇の男
蓮が入院した夜、津久茂は病院の屋上の貯水タンクの上に座り、一人月を眺めていた。
十月も下旬に差し掛かったこの時期、日が沈んだ時間帯の空気は「涼しい」などという範疇は通り越して、完全に「寒い」だったが、津久茂は腕をさすることもなく、学ランの前を開けて夜空を見上げている。
「——何を一人で
と、静謐に冷ややかな声が響く。
津久茂は声の主の方へ、つまり下へと首を傾けて、鼻を鳴らした。
「ふん……少しストレスが溜まっててな。発散だよ」
「発散?寒空の下に身を晒すのが?……何、病んでるの?」
「否定はしない。……八百萬、領場はどんな容態だ?」
そう訊きながら、津久茂は貯水タンクの上から飛び降り、八百萬の前に軽やかに着地した。
「……あなたがいつの間にか姿を消していたから、医者の対応を、私がすることになったんだけど」
「あいつは家族とか居ねえからな。そいつは面倒かけた、悪かったよ。で?」
「……身体中の骨折、合計十本だった。それに肺と肝臓が若干傷ついてるって」
「そうか——
「ええ」
少なくともほんの数時間前、バシリスクとアザーエムが立ち去った時には、蓮の体は立っていることが
そもそも、全身十箇所の骨折やら少しくらいの内臓損傷なら、その場で術による治療をしても大して害はなかっただろう。
その何倍もの、予断を許さず命に関わるほどの——すなわち術による治療が、命をすり減らすことに繋がるレベルだと判断したからこそ、津久茂は蓮を病院へ運んだのだ。
「お医者さん、常識では考えられない治癒力だって、驚いてたわよ。このまま行けば明日にでも立てるようになるって」
「そうか。その医者の記憶も後で改竄しとかなきゃな」
「ねえ、あなたは原因分かってるんでしょう?」
津久茂の迂遠な言い回しに、八百萬は焦れたようにそう尋ねた。
「……まあ十中八九、魂があの女とくっ付いた事だろ。あいつは今、人間から
「魂の変質って……それ、大丈夫なの?」
魂とは、人間の精神が具象化したような存在だ。それが外からの影響で変質させられるというのは、心が別のものに変わっていくことを意味する。
当たり前に考えれば、人一人の精神が吹っ飛び狂うに足る事象だ。八百萬が心配しているのは、つまり可愛い後輩の心の健康だった。
「大丈夫だろ、あいつは。元々ぶっ壊れてんだから……今更、魂の変質くらい、何の苦もなく許容するさ」
「元々……何?」
「とにかく心配はいらねえってことだよ」
肝要な部分は誤魔化した上で、津久茂は続ける。
「過程は業腹だが、結果はオーライだ。あんな化け物女と繋がった以上、あいつの霊媒師としての素質は、大層レベルアップしてるだろう。こいつは思ったより頼れるぞ。貴重な戦力になってくれるかも知らん」
「……戦力、ですって?」
訊き返す八百萬のその声からは、隠しようもなく、怪訝なニュアンスが醸されていた。
「ねえ、ジューダスの連中は——あいつらという脅威は、とりあえず去ったのよね?戦力って、一体何と戦うつもりなの?」
「去っただと?馬鹿を言うな、
「……⁉︎あなた、何を言って……」
返されたあまりに理解しがたい言葉に、八百萬は瞠目する。
そんな彼女を見返した津久茂の目は、普段とは打って変わり、ギラリとした剣呑な感情を宿していた。ともすればその激しさは、バシリスクやアザーエムに向けていたものよりも増すほどに。
「良いか、俺は奴らが
「……どういうこと?その聖槍って……一体何なの?」
「神の時代の兵器だ」
答えながら津久茂はその人差し指の先を、八百萬の胸元、鎖骨あたりに置く。まるで教師が生徒にねちっこく釘をさすように。
「世界レベルの効力を発揮するとされる、
「……"悪"……?」
「"全ての悪"だ。"悪"が消え、そしてそれらから成る悲しみが、苦痛がこの世から消える。ジューダスの本来の目的とはそれなのさ。連中はこの地上を、神聖なエデンに仕立て上げようとしている」
旧約聖書に描かれた理想の園"エデン"。そこに居た二人の人類、アダムとエヴァは欲望や悪性を持つことのない、純粋な神の使徒だったとされる——蛇に唆され、
聖槍の発動により訪れる新世界とは、紛うことなく"エデン"だろう。そこにいる人類は、その全てがアダムとエヴァになる。
「……だったら、どうしてそんなに躍起になるの?聞く限り、そんなに止めなきゃいけない話には……」
「止めなきゃならないんだよ。全ての人が欲も野心も失ったら、社会という概念は間違いなく崩壊する。まかり間違って生存本能すら失えば、人類は簡単に絶滅するんだ」
言葉が続くに従って、津久茂の指先の力は、どんどん強まっていく。
八百萬はそれに押されるようにして、屋上の端、高さ二メートルほどの金網にガシャンと音を立て、背を付けた。
夜風が二人の頬を撫で、夜景の上に吹き去っていく。
重なり合った視線には片や困惑が、そして片や名状しがたい
「アダムとエヴァなんてのはな、脳味噌の代わりにクソを詰め込んだ、
「……津久茂?」
「人なら誰もが欲望を抱えて生きている。欲望のない人間など人間じゃ無い。聖槍がもし、それそのものを"悪"と見なしたらどうなると思う?」
津久茂は、右手の人差し指は八百萬の胸元に置いたまま、その顎を彼女の肩に乗せ、額をそのまま金網に押し当てた。
「この地上から全人類が消えることになる」
空いた左手で金網を掴み、金網と八百萬の肩に首から上の体重を全て預け、津久茂は耳元で呟くように言う。
「だから連中を止めなきゃならねえんだ——だが俺一人じゃ出来ることは知れてる。お前らの力が必要だ」
消え入りそうなその声に、しかし弱々しさは無い。訴え懇願するような、媚びた様子も無い。
津久茂は今、人間の尊厳をもって八百萬に語りかけていた。人の世を存続させるという、人としての誇りを持ってその意志を吐いていた。
それが"津久茂総司"という人間の、根本に眠る真実だった。
「……ジューダスを——奴らの計画を止める、そのために動くと言うの?」
「そうだ」
「表立って連中を相手取ろうなんて組織はまず存在し無い。これ以上の味方は期待できない……私たちだけで、
その問いにも、やはり津久茂は迷うことなく頷いた。
その動作や短い返事に、微塵もの躊躇いは感じられない。それらの肯定は、鋼の意志に裏打ちされていた。
ジューダスという巨大な組織を相手に彼ら数人で戦争をするとなれば、犠牲を覚悟しなければならない。
誰かが傷付くかも知れない。誰かが死ぬかも知れない。敵の規模を考えれば、全滅してもおかしくは無い——それでも彼は、躊躇なく頷く。
八百萬は今になって、津久茂総司という男が内包するモノを理解した気がした。
常々思っていた。彼の人生が、ただの高校生のそれで無かったのだろうと。同じ御三家の血を引き生まれた自分とも、やはり比較にならないような人生を、彼は歩んできたのだろうと——その目を見て、その偽りだらけの言葉を聞いて、その度に思った。
「————」
津久茂総司という男は根っからの"嘘つき"だと、八百萬は認識していた。
その言葉からも態度からも、真実めいたものが感じられることはない。生まれてから一度でも本当のことを言ったことがあるのか、それさえ疑わしいような男——それが津久茂総司だ。
おそらく、その真実は実のところ、彼の周りにいる誰もが理解出来てはいないのだろう。その奥底にあるモノが何なのか、八百萬自身まるで見通せない。
あるのはただ、黒々とした"深さ"だけ。時折彼の真実を探ろうとしてみても、結局のところ、ぽっかりと空いた穴を垣間見るしか無い。
だが八百萬は——今、彼は真実を口にしているのだと、何故かそう思った。
「……あなたは人を守ると言うの?一人一人では無く、六十億の人類を生かすために——そのために戦うと言うの?」
「そうだ。それが俺の
「……私は、あなたは人間が嫌いなんだと思ってた。目の前で誰が死のうと悲しそうな顔をしないし、周りの人間の心配を口にする時も、いつもどこか嘘っぽい」
「人間は嫌いだ。だが人間が作ったこの世界は素晴らしい」
この人は何を求めているのだろう?
この人が目指す場所に、何があるのだろう?
津久茂総司がその思想の果てに辿り着く場所に、きっと日は差さないはずだ。
彼は人並みの人生など、決して歩みはしない。霊媒師として生まれ、霊媒師として死ぬはずだ。
その道に——自分が寄り添うことを、彼は望むだろうか?
「……私はあなたに付いて行く」
何を持ってその結論に辿り着いたのかも分からないまま、八百萬がそう答えた時だった。
二人が体重を預ける金網の上に、どこから現れたのか一羽の
烏はいかにも動物らしい仕草で、その嘴を津久茂の方へ向ける。それに気付いた彼は、半歩下がり、烏に向けて右腕を伸ばした。すると、ばさりと一つ羽音を立て、烏がその右腕に飛び移る。
「……それは使い魔?」
「ああ、念のためアザーエムの後を追わせていたヤツだ。こいつが戻って来たってことは、どうやら連中、もう日本を発ったらしい」
まあバシリスクがあの重症では、のんびりもしていられ無かったのだろうが——と、そんなことを言いながら津久茂は、右腕を振り払う。
そこに止まっていた烏は、宵闇に溶けるようにしてどこかに飛び去って行った。
「……さて」
烏の飛び去った方を目で追いながら津久茂は、話は終わったと言わんばかりに、昇降口へと歩いて行く。
「やらなきゃならない事が山積みだな。こんなところで密談してる場合じゃねえ」
「……何それ。さっき作ってた、あのシリアスっぽい雰囲気は何だったの」
「雰囲気なんざ作っちゃいねえよ。だが付いて来てくれるんだろう?」
昇降口の扉を開けながら、津久茂は振り向きもせずに言う。
その声はやはり、確たる意志に裏付けられている——だがその反面、情というものが全く感じられない声でもあった。
「戦いはまだ始まったばかりだ」
*
「——そうとも。戦いは始まったばかりだ」
暗澹と静謐が編み込まれて出来た空間に、声が響く。
その「部屋」には様々な電子機械が並立し、絶えず何らかの情報を知らせる電子音が鳴っている。何百本ものコードは各々必要なデータを必要な機械に送り、そのうち何本かは、部屋の中央に安置された巨大なコンピューターに繋げられていた。
「津久茂総司——お前は正しい」
「部屋」の中に、一人の男がいた。
狂気的なまでの鋭い目をしながら、口元には笑みを作る初老の男。彼は酷く楽しそうに、一人で言葉を続ける。
「人間は糞にも等しい。だが人間は素晴らしい。人間のこの世界も……続かなければならん。永久に、永劫にだ」
——人間は嫌いだ。
——だが人間が作ったこの世界は素晴らしい。
その言葉の何と——正しいことか。
その言葉の何と——悲しいことか。
「人は滅ぶぞ、津久茂総司。地獄への行進はとうに始まっている。 自らの首を吊る縄を、自ら結んでいることに気付きもしない」
人は愚かで、素晴らしい。
自分で自分を殺せてしまうほどに。
「止めなくてはな——その為の支配だ。私の偉大なる支配が、人の自爆を止める。……その日は、近い」
情報のみが飛び交う暗闇。この「部屋」が、果たして世界とどれだけ違うだろうか。
地獄のようなこの世界を、本物の地獄に変えない為に——私は人を支配する。
だからこそ男は笑う。闇の中、ただ一人で笑い続ける。
人の世界を滅ぼさない為に。
この素晴らしい世界を永久のものとする為に。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます