第17話:独白


 私はあなたの正体を知っている。

 あなたが「私」と呼ぶ、その人格の正体を私は知っている。


 ——昔話をしましょう。


 二千年前……まだ社会という概念すら未完成だった大昔の話。ある集落に、一人の女の子が産まれた。

 その集落は、自然の力を借りて魔法の真似事をする、特殊な呪術師たちの村だったの。女の子というのは、集落の長の血を引いた赤子だった。


 その女の子は天才だった。

 どんな老練な仙人よりも自然の声を聞けたし、どんな屈強な戦士よりも自然の力を強力に扱えた。何よりも——持てる全てを注いで人を愛し、人を慈しんだ彼女は"女神"とすら呼ばれるようになった。


 "女神"の力で、集落は目覚しいほどに発展した。

 その頃の文明形態では、豊富で安定した食料と土地さえあれば「豊か」と言えたから、自然の力を自由に扱える"女神"が存在する時点で、約束された発展だった。


 ……ただ、どれだけ生活が豊かでも、人間の醜さっていうのは防げないものだった。

 入ってくるのも、生まれるのもね。


 栄華を極めた——と言うには規模が小さかったけど、とにかくとても栄えたその集落は、色々と恨みを買った。

 別に、もっと豊かなものを求めて侵略行為に走ったわけじゃない。『近くに自分たちよりも幸せな奴がいる』——そんな怨恨が、勝手に攻め入って来ただけ。人間というのは、羨ましいだけで誰かを恨むに事足りるの。


 醜悪な嫉妬、救い難い傲慢。妬み恨みを欲望に転じさせる、人の浅ましさ。

 でも"女神"は、そんな人の汚濁さえも愛そうとした。


 集落の人間に武器を取らせることもなかった。

 彼女は強欲に駆られて攻めて来た敵たちの前に、ただ一人向き合って——そして力も使わずに、ただ"語りかけた"。


『争いは無益です』


『手を取り合いましょう』


『そうすれば、私はあなた方にも喜んで富を分けましょう』


 それで全く十分だった。"女神"が優しげな声でそう話すだけで、敵は武器を捨て、集落の仲間となることを望んだ。

 その声には、何ら不思議な力は宿っていなかったのよ。彼女はただ喋っただけ。それだけで人間は彼女の前に跪く。


 その在り方は、まさに人外の神だった。

 彼女は、平和を求めた"女神"だった。

 

 ……だからこそ、彼女は滅んだ。


 前提として、平和というのは争いの上にしか積み上げられないものなの。それを求め、その在り方を求める人間同士が衝突し、そうして掴み取られたモノだけが、「平和」と名付けられる。

 だから、"女神"が作った争い無き安穏は、平和ではなく幻想に過ぎなかった。


 その幻想を壊したのは、彼女の弟だった。


 想像してみて。

 神とまで崇められる人間と同じ血を引いて生まれてしまった、"下の者"がどんな感情を抱くのか。


 そこに姉弟の愛などあり得なかった。彼が姉に懐いたものは、純然たる「憎しみ」以外の何物でも無かった。

 弟は、"女神"を心の底から憎んだ、ただ一人の人間だったの。


 「言葉」の通じない反逆者を前に、"女神"はそれでも語りかけることをやめなかった。

 この者にも心はあるはずだと。私なら彼の憎しみを取り払うことが出来るはずだと。


 でもそんな彼女に彼が返したものは、嘲りの眼差しと呪いの言葉だけだった。


『私は貴様が憎い——』


『聖人たる貴様を憎悪する』


『その末期に悍ましき破滅あれ——!』


 そう言って、彼は里を去った。

 故郷も家族も全て捨てて、彼は"女神"を滅ぼすためだけの存在になった。


 そして——"女神"は滅びた。


 さっき言ったけど、彼女は人に対してその強力な力を振るうことは決してしなかった。その言葉で懐柔するのみで、暴力に訴えたことは一度として無かった。それは"人を愛する"彼女の主義から見れば、最悪の禁忌タブーだったから。


 その"慈愛主義"は、彼女を恨み抜いた弟に対してさえも例外では無かったわ——愚かしいことに。


 未だ各地に点在した、その集落に敵対する勢力に与した弟に、彼女は抗うこともなく捕らえられた。

 もちろん"女神"を信じる者たちは戦ったけど、その盾は意味を成さなかった。弟は、その里一番の戦士でもあったから。

 

 そうして、捕らえられた彼女は、弟の叫んだ通りの、悍ましい末期というものに辿り着いた。


 彼女を捕らえた弟は、まず入念にその口を塞いだ。彼の仲間たちは、彼と違って言葉により懐柔される恐れがあったから。


 そして、殺した。

 あらゆる短絡的な手段で女神を嬲り、犯し、そして殺した。最後にその首を刎ねたのは、名前も分からない雑兵だった。


 結局のところ、人として憎しみを抱かれた時点で、"女神"が滅ぶことは必定だったの。


 女神は死んだ——少なくとも肉体的には、確実に。


 けれど、彼女の魂はすでに、すんなりとこの世から消え去ることが許されないほどに高位な存在になっていた。

 だから、死んだ瞬間から彼女は魂だけの存在として生まれ変わったの。死んだ瞬間に、肉体だけを失くして「生まれ直した」——自分の死体の上にね。


 目が覚めて、もう痛みも寒さも感じなくなった自分の目で、彼女は足元にある自分の死体を見下ろした。


 身体中に痣を作られ、寒さで皮膚の白ささえも失い、白濁に汚れた"自分"を見て彼女は——汚らわしい、と心から思った。

 触れたく無いと。目にも入れたく無いと。"自分"を、それほどに汚らしく穢らわしい存在と認めた。


 弟を。

 弟に与した人間たちを。

 自分を助け出すことも出来なかった、集落の人間たちさえも——憎んだ。


 そして——穢らわしい"自分"を憎悪した。

 穢らわしい人間を信じ、穢された"自分"を、その苦痛と恥辱にまみれた末期を、心の底から憎み抜いた。


 ……それが、私の始まりだった。







 霊体となり神格を得た私は、まさしく実体を持たない「神」として生き始めた。

 世界の道理の壁を自在に超え、変わりゆく現世うつしよを眺め、時に人に関わり害する。厄災と呼ぶべき気まぐれな自由意志として——千年以上もの間、この世を彷徨い続けたわ。


 もう彼女は人を愛してはいなかった。

 その胸に懐いた厭悪は消えることなく、それ故に、私はもう人を殺すのも平気だった。


 私という——気まぐれに世界を飛び回り、時に災害をもたらす、そんな存在は、千年もの時が過ぎれば世に知れ渡っていたわ。

 色々なあだ名を付けられたのよ。メジャーなのだったら、……そうね、九尾の化け狐とか。そんな風にも呼ばれたわ。


 今考えれば、馬鹿をやっていたものだとも思う。

 けどやっぱり、そんな過去の自分の行いは否定できない。あの時、自分の死体を見下ろして懐いた憎悪は本物だったから。


 でも、そうやって人を憎んだ私は、またしても人の手で虜にされた。


 今からは、五百年くらい前になるのかしら——強力な陰陽師、つまり今で言う霊媒師がいてね。

 そいつはこの国の各地を巡って、世直しで悪霊

退治みたいなことをやっていたんだけど……好き勝手暴れていた私を、いよいよ見放してはおけなくなったらしい。


 前とは違って、私は全力をもって戦った。一切の手抜きも躊躇もなく。その陰陽師の名は広く、私でさえ聞き及んでいたから、油断もしていなかった。


 戦いは三日三晩にも及び、彼我共に満身創痍の状態にまで成り果てて——けれど、私は敗北した。

 神霊としての力をフルに使って、それでも私は、ただの人間に敗北した。あの時は私自身、私が負けるなんて思ってもみなかったのに。


 そして、ある山の麓に封じられた。

 力を使い果たした私を封印する時に、あいつはこう言ったわ。


『貴様の力はあまりに強大すぎる』


『完全に滅ぼすことはこの私でも叶わない』


『だから封じるのだ』


『良いか、貴様の存在を滅ぼすことは出来ない』


『だが存在を貶めることは出来る——神霊から悪霊に』


『貴様の、一切の術を封じることは出来るのだ』


 そいつは、言った通りに私の存在を、悪霊という卑俗なモノに貶めた。

 そして、こう続けた。その端正な顔を傷だらけにされているというのに、偉そうな預言者ヅラをして。


『この封印式はこの世界全ての大地の力を借り、半永久的に対象を縛るもの』


『貴様は動くことは出来ない』


『だが術式を通じて、この世界の全てを見ることが出来る』


『この醜悪な人の世を見続けることは、お前のような人ならざる神には責め苦に等しかろうよ』


『だが見続けろ』


『人の醜さを受容しろ——さもなくばお前はいつまでも神のままだ』


『なあ小娘よ、いい加減にその痛ましい驕りを捨ててしまえ』


『さもなくば貴様はいつになっても救われぬ——貴様が歩み背負った運命は、呪縛だぞ、哀れな哀れな化け物よ』


 そう言い終えるや、陰陽師は倒れ伏し、そのま死んだ。

 私を岩壁の中に封じ、無責任にもこの世から解放された。


 陰陽師が何を言っているのか、何を言いたいのか、もちろんその時の私には理解不能だった。……いえ、今になってもやっぱり、あいつの言っていたことは分からない。


 救済?

 呪縛?

 一体誰にものを言っているのか……あの時点で私は、あいつが言ったように、強大な化け物だったと言うのに。


 私が何から救われるというのか?

 私が何に縛られているというのか?


 当然だけど、封じられてからの私はあの陰陽師を憎んだわ。

 それこそ弟や、あの時代の人間たちよりも、憎んで憎んで憎み抜いた。


 けど、岩の下で動けやしないんだから、憎んでばかりじゃ流石に暇になってきてね……癪だったけど、あいつに言われた通りに世の中を見てみることにしたの。


 封印されてからの私は、本当にこの世界の全てを見ることが出来たわ。

 海の向こうのお城から、誰とも知らない女の湯浴みの様子まで、森羅万象を見通せた。行ったことのない海の向こうも、私が生まれた場所さえも——プライバシーなんてあったものじゃない。

 ある意味では、あの頃の私は最も"神"らしかったのかもしれない。


 人間の歴史を、この目で見てきたわ。

 黒くて大きい船がやってきたのも、海の向こうで起こった革命も、戦争が始まる様子も、あのヒトラーが死んだ場面でさえ、私はこの目で見ていた。


 五百年余年——思い返せば瞬きほどの時間だった。

 そんな短い時間の中で、それでも人間という肉塊に一応は意味を見出せたのだから、私のオツムも捨てたものじゃないかしら?


 人という存在が、どういう存在なのか。

 何をすれば死に、何をすれば生きたいと願うのか——答えのようなものをやっと考え出した、そんな時だった。


 私が封じられていた山の麓に、貴方達が落ちてきたの。


 その時私は、どこかの映画館に忍び込んでホラー映画を見ていたから、本当に驚いたのよ。人の手で、意匠を凝らして作り出された悪意ある静寂を楽しんでいたら、いきなりすぐ近くで爆発炎上大爆音……怒りさえ感じたわ。

 流石に、車から投げ出されて血まみれの四人を見たら、引っ込んじゃったけど。


 四人のうち、二人はすでに死んでいると分かった。中年の男と年端もいかない少女——つまりあなたの父親と妹ね。

 そして残りの二人も、死にかけだった。手の施しようもないほどに。


 私は——「可哀想だけどこの封印の中からじゃ何も出来ないわ、ごめんなさいね」とか、それくらいは思っていたかしら。

 そうしていたら、ふと、まだ息のある女性——つまりあなたの母親と目があったの。


 澄んだ目をした、綺麗な人だった。

 私の封印は、霊的な才能の無い人間からはただの岩壁にしか見えないはずだから、彼女が霊媒師なのだとすぐに分かった。


 彼女は私の方へ手を伸ばした。

 最初私はそれを、助けを求めているのだと思った。あの時の私は五百年の禁固刑の甲斐あって少しは丸くなってたから、「可哀想だし助けてあげても良いかな」って思ったけど……まあ、無理よね。封印されてるし。


 でも彼女は、藁にすがる意味で手を伸ばしたんじゃ無かった。

 その手のひらは——私を封じた術式の、"楔"に向けられていた。


 それは地面に打ち付けられた釘の様相を呈していた。

 太さ十センチ、長さ五十センチほどの"石杭"。封印という概念術式を、現実に縛り付けるための楔だった——理論上はそれが壊れれば、封印も壊れるという代物。


 けど、物理的な方法でその楔を壊すことは不可能な筈だったの。

 陰陽師によって特殊なプロテクトがかけられていたから、今で言えば核爆弾でも持ってこない限り傷一つつきはしない——あなたが言ってた、「そんなヤバイ存在を封じているものか何故そんなに簡単に壊れるのか」って、あれ、正解だったのよ。楔は、車の爆発なんかで壊れたんじゃないの。


 私を解き放ったのは、あなたの母親なの。

 詳しくは私も知らないけど、とんでもなく強力な霊媒師だったことは確かよ。死にかけの状態で、あの楔を、存在ごとこの世から消してしまったんだから。


 壊したのではなく、消した、、、


 そして私は解き放たれた——はっきり言って、驚きで声も出なかったわ。

 けどそんな私を前に、彼女は虚ろな目のまま、血を滴らせた口を動かして言った。


『この子を助けて』


 と。

 人差し指で、まだ息はあるものの下半身がほとんど潰れてしまっていた、小さな少年を指して。


『私はもう良いから……この子を』


 言われるまま、封印から解き放たれ自分の足で地に立った私は、その少年の側に——あなたの側へと屈み込んだ。

 そして、あなたを治した。死の淵にあったあなたの魂を、あらん限りの力で……そうね、救ったわ。


 あの時——何故そんな風に、言われるままにあなたを救ったのか、私も不思議だった。

 確かに封印を解いてもらったという恩はあったし、それを素直に感謝できるくらいには、あの人は清廉に見えたけど——でも、それらは後付けの理由なんだと思う。


 私はきっと——圧倒されたの。

 我が子を、その命の全てを賭して救おうと願う"母親"という存在に。その美しさに、その力強さに。死の際の際、痛みさえ無いであろうあの時に、純粋に我が子を想ったその存在に圧倒された。


 この人の願いを聞かなければならないと、そういう風に思った。

 そんな義務感に、後から感謝や義理が付いてきたんだと思う。


『ありがとう』


 と、消え入りそうな声で彼女は言ったわ。

 続けて、


『お願い』


 とも。


 これは私の想像だけど……彼女はおそらく、私が何者なのか知っていたんだと思う。


 私という神霊が一人の陰陽師によって封じられたという話は、霊媒師や魔術師たちには逸話として伝わっていたし……あの楔を消せるほど有力な霊媒師なら、まず間違いなく、あの場所が神霊を封じた山だと知っていたはずなの。

 

 だからなのかしら、彼女は私に「お願い」と言った。

 何を頼まれたのか、その訴えるような眼差しを見れば理解出来た。

 

 約束するわ——と、そう答えた。

 すると彼女は、一人虚空に吐き出すように、


『この子だけは幸せに生きて……呪われた運命から解放されて』


 そう呟いた。


 その言葉に入り混じった重みに、私は覚えがあった。

 その重みは、人の愛憎や美醜を目の当たりにして、それらに犯され翻弄された人間が背負う重みだった。


 彼女は霊媒師——ならば、その人生はきっと常人の想像が及ばないものだったのだと、理解出来た。

 その人生は呪われたものであり——しかし彼女は、呪いを受け入れているのだと。


『……私は呪われた霊媒師の子。けどこの子は……ただの子供』


 消え行く命の力を振り絞って、彼女は最後に、我が子へと手を伸ばした。


『蓮には……この子には……精魂なんて関係のないところで、幸せに……』


『——安心しなさい』


 息も絶え絶えのその言葉に被せるように、私は言ったわ。


『恩は返すわ——この子は私が守る』


 それを聞くと、彼女は今度こそ安心したように、目を閉じた。


 ただ——その前に、つまり最期に彼女は、自分の息子に対してある術を発動していた。

 それは事象の書き換え——現実の上塗りという概念術式だった。何もないところから、意志の力により何かを生み出す。


 あの場で生み出されたのは、領場蓮の保全を願う、、、、、、、、、精神、、

 つまり彼女はあなたの心の中に、母の愛とも言えるもう一つの心を生み出した。領場蓮の心の中で、ひっそりと領場蓮を導く存在を。


 つまりおそらく、自らを領場蓮と認識し、自らを私と呼ぶあなたのことよ。

 まさか表に出て来て、しかもレンくんに成り代わっているとは思っていなかったけど……その辺りはレンくんが心に傷を負ったことによる、予想外イレギュラーな現象なのかしら。


 ——私はあなたを救った。

 そして、あの母親の願いに従って、あなたを見守った。けれど、そのためにあなたから様々なものを奪ってしまったのも事実。


 その際たる例は、霊媒師としての才能ね。


 あのいけ好かない男の言葉を借りるなら、私はあなたの魂を束縛し、軟禁していた。それはあなたの母親の願いを叶えるために、私自身どうすれば良いかを考えた結果だけど——失われた十年分の才能はもう戻らない。


 いえ……それでもあなたは、きっと「そんなのはどうでも良い」と言って許すんでしょうね。


 ……ねえ。

 確かに私があなたと共にあったのは、あなたの母親にそう願われたからだけど……でも、言っておくけど、全部嘘じゃ無いのよ?

 というか、嘘なんてほとんど無いわ。隠し事をしていただけで……その。


 つまり、五百年も穴蔵の中から世界を見るだけだったから。

 私にとっても、外に出て始めて触れ合うのが、右も左も分からない子供だったのは……何だろう、「都合が良かった」の。


 だから、勘違いしないで。

 あなたが必要だったのは、私も一緒なの。


 そりゃあ十年も経って、私も今の世の中に慣れたし……頼れる味方が現れた今、私があなたに付き添う必然的な意味は無くなったのかもしれないけど。


 ねえ、だから、良いわよね?

 さっき喋ってたのがレンくんなのか、それとも別の何かなのか、結局のところ分からないけど——私はまだ、あなたの隣で安らいでいて良いのね?


 この心地良さは、まだ噛み締めていても。

 それで良いんでしょう?

 


 

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