第15話:other"M"

 その瞳にもはや正常な思考が宿っていない事は明らかだった。


 バシリスクの敗北——すなわちこの場での自らの勝利を認識し、しかしイミナは、歓喜も誇りもせずに、黙々と手を動かす。

 目の前の胴に突き立った刃を一本抜き、手元で一回転させると、そのまま切っ先をバシリスクの喉元に当てた。


 この戦闘は「勝利」だ。

 だが、全てが終わったわけではない。要するに、バシリスクは、、、、、、まだ死んでいない、、、、、、、、。ならば、念入りに首を切り落としておくのは、イミナの培った"常識"の上で当然のことだったのだ——が。


「————!」


 ナイフを握った手に力を入れる寸前、ふと頭上から漂った攻撃の気配を察知し、イミナはその場から飛び退いた。

 彼女はそのまま十メートルほど後退し、いわば安全圏に入ったと確認してから、その顔を上げ、目の前の景色を確かめる。


「————」


 バシリスクのすぐ側に、男が立っていた。


 あのハドソンと見違うほどの体躯に、顎鬚を蓄えた精悍な顔つきをした男だった。やや逆立った銀髪を肩まで伸ばした彼は、バシリスクやハドソン以上に、歪なほどに獰猛で空虚な眼をしていた。


 だが、彼らが着ていたのと同じロングコートを羽織っているのと、首から十字架をげていることから、この男が"ジューダス"の一員であるのは分かった。

 つまるところ、新手だ。この場でまた戦わなくてはならない、「敵」が新たに現れた。


 そう断じて、イミナが再び臨戦の体勢を整えようとした時、異変は起こった。


「——ッ、——!」


 唐突に彼女は咳き込み、その口から数滴の血を吐き出した。同時に四肢から、何かが千切れるような音と砕けるような音が一緒になって響く。


 思わず膝をついたのは、苦痛による脱力ではなく、単に両の脚が上半身を支えるだけの機能を失っただけのことだった。今や蓮の体は、そこかしこの筋肉が断絶し、骨が砕けていたのだ。


 バシリスクや、新しく現れた男に何かをされたわけではない。何もなく、まるで時限爆弾のカウントダウンが一斉にゼロになるように、その体内が破壊されたのである。


 否——事実、それ、、は時限爆弾のようなものだった。


 バシリスクという人間の常識を超えた暗殺者と戦うために、イミナは神霊としての感覚と経験に則って体を動かした。だがそれは、あくまで領場蓮という人間、、、、、、、、の体だ。


 もちろん、それを失念するほど間抜けな彼女ではない。借り物である体を傷つけないよう、細心の注意を払っていた。

 だがそもそも、イミナの超人的な戦闘行動そのものが、ただの人間の体、、、、、、、を内から破壊するには十分な要因だったのだ。


 例えるならば、軽トラックにF-1スーパーカーのエンジンを詰め込んだようなもの。

 魔改造を施せば、一時的に爆発的な速度は出せるかもしれない。だがそんな外法の存在が辿る末路は、万人の目に明らかだ。

 

 結果、最悪の"綻び"は今、一気に噴出した。

 蓮の体は立ち上がることもできなくなっている。それは苦痛によるものではなく、物理的かつ構造的な問題だ。こうなってしまえば、どんな鋼の精神を持つ者でもどうしようもない。


「っ……」


 しばしイミナの心を絶望が覆う。身動きの取れない状況で敵の目前に会しているというこの状況は、「詰み」とすら言えるからだ。


 が、現れた大男は倒れ伏した彼女に対して攻撃を加えることもせず、満身創痍のバシリスクの方へ向き直り、おもむろに彼の頭を手のひらで撫ぜた。


「——無茶をしたな。バシリスク、お前らしくもない」


 厳かな声が響く。

 その声に反応するかのように、刹那の間、バシリスクの瞳に光が戻る。


「先、生……」


 首も動かさず虚ろな声でそう呟くや、バシリスクはまた意識を失った。子供が安心して眠りにつくような様相だった。


 ——とその時、辺りの空気が異常なほどに揺れ動いた。


 見れば、いつの間に現れたのか、倒れ伏したイミナの眼前二メートルほどの場所に、二つの人影が立っている。

 彼らはそれぞれ仄かな熱気と冷気、相反する二つの力を纏っていた。空気の流れはその登場による、いわば気流の変化だ。


 津久茂総司。そして、八百萬羽沙。

 新たに現れたのは、勢力として拮抗する二人の霊媒師だった。


「……お前は、何を?」


 敵から後輩の体を庇うような形で立った二人のうち、八百萬が振り向き、そう問うた。

 彼女の目が捉えた「蓮」の瞳に、しかし「蓮」としての意識は宿っていない。その目から向けられるのは、別の意識による、敵意に似た何かだ。

 今、領場蓮という少年の体に入っているのが彼とは別の存在だと、熟練した霊媒師の目には明らかだった。


 ——が、同時に蓮の魂が健在であり、その意識は健常に眠っているだけだということが分からない彼女でもない。


「……なるほど、そういうこと」


 納得したように八百萬は言う。

 彼女は断片的ながら、おおよそこの場で何が起こったのかを理解したのだ。領場蓮がバシリスクに勝利した」という、およそ信じがたい結果を。


 だから「蓮」に向けたその声から滲み出るものは、いくらかの棘は抜けていないものの、味方に向けるにはギリギリ相応しい安穏なものだった。


 ともかく、そうして後輩の無事を確認した八百萬は、視線を前方に戻す。

 そこには、こと荒事においては全幅の信頼を置ける存在が立っていた——が。


「……馬鹿な」


 ——その津久茂が吐き出した言葉は、とても余裕と呼べるようなものを孕んではいなかった。

 掠れたそれが孕むのは、驚愕、驚嘆——およそ彼が懐くには不似合いな感情ばかりだ。


「……どうしたの?」


 訝しむような八百萬の声を無視したまま、津久茂はその表情に苦いものを貼り付け、歯噛みする。

 

 状況を見るに、蓮の体を借りたイミナがバシリスクを討ち破った、というのは分かる。それはいい、、、、、。予測できていたパターンの一つだ、さして驚きもない。


 だが、目の前に立っているこの男、、、の登場だけは、まったく予定の外だった。


教王代理きょうおうだいり、アザーエム——何故お前がここにいる……⁉︎」


 普段、感情というものをあまり表に出すことのない恋人の変貌ぶりに、狼狽したのは八百萬の方だった。

 彼女自身は後から話で聞いただけで、その場に居合わせた訳では無いが——ハドソンの最後っ屁である爆弾により一時的に半身を失ったというその時でも、おそらく彼は、今よりは冷静だったろう。


 だから冷や汗すら滲んだ津久茂の今の表情は、八百萬の胸にまで不安を懐かせるには十分だった。

 目の前に対峙したこの大男は何者なのか、と。


「一体……誰なの?こいつは」


「……ジューダスが思想の違いで二つに分かれた

原因は、そもそも七年前に"教王"ファウストという男が行方をくらませた事だった」


 ファウスト、という聞き覚えのない固有名詞に、八百萬は眉をひそめるが、津久茂は構うことなく話を続ける。


「そいつはジューダスの頭領ボスだった。しかしいなくなった。だから、そいつが消えた後に組織を纏め上げるための、代わりが必要だったんだよ。強力な"教王の代理"が」


「……じゃあ、それが?」


「目の前にいる男——アザーエムだ」


 つまりは現在の、実質的な"ジューダス"の頂点に立つ男——言われるまま、八百萬はアザーエムに目を向ける。

 その屈強な体躯から漂う闘気オーラは、なるほど津久茂の言う大層な称号に納得がいくほどには貫禄的だった。


「……津久茂総司か」


 そのアザーエムが立ち上がり、津久茂の名前を呼んだ。


「そうか、お前がいたな。この国には」


「……質問に答えろアザーエム。何故お前がここにいる」


「ああ、答えてやろう。これを回収するためだ」


 言いながらアザーエムは、意識を失ったバシリスクの左胸を、おもむろにその手刀で貫いた。

 と言っても、肉が抉れ血が滴るわけではない。体そのものが透過するように、アザーエムの手刀は肉体の干渉を無視し、胸の内に入り込んでいた。

 

 そして、当惑する津久茂らを他所に、目的の物を掴んだ右手は引き抜かれる。


 そこに握られていたのは、血のごとくに赤い鏡面を有した、手のひらほどの鏡だった。完全な円形を成しているそれは、一見して単なる手鏡では無いと分かるほどに、異彩な存在感を放っている。


「神具——それは、真見ノ鏡まことみのかがみ……か?」


 津久茂はどこか、まるで取り出された鏡を忌避するように、躊躇いがちに訊く。


「そうだ。一昨日、ジューダス本部の格納室から無断で持ち出されたこれ、、を回収するために、わたし自らが参じたのだ。……とは言え、すでに使われた後だったか」


 創り出すのに精魂の霊的な要素が不可欠な道具を、そのまま霊具と呼ぶ。津久茂の創り出した経絡の鎖赤い鎖や、バシリスクの持っていたガザリアルの骨がその例だ。


 霊具には、作り手の魂の質に比例しその効力が高まるという特徴がある。

 そして、千年以上の、、、、、時を経て研鑽された魂、、、、、、、、、、によって創り出された——すなわち神霊によって創られた霊具は、"神具"と呼ばれ、通常では考えられない規模の効力を発揮する。


 バシリスクの左胸に「収納」されていた鏡は、真見ノ鏡と呼ばれる神具だった。

 その効能は、"任意の範囲内で、特定の個人を除いた人間という概念、、、、、、、を停止させる"こと。この神具が効力を発揮すると、およそ半径一キロメートルほどの円の中で、指定された個人以外の人間全てが動きを止めることになるのだ。


 自由意志を持つ異物たるヒトを取り除き、世界のあるべきまことを映す——それが真見ノ鏡。


「……なんだかそりゃあ、お気の毒だな」


 津久茂は、依然その口調から張り詰めたような緊張感は抜けないものの、若干おどけるような態度で言った。


「要するにお前は間に合わなかった、、、、、、、、わけだ。せっかく回収しに来ても、使い潰された後じゃ意味がない」


「確かに——神具はその莫大な力の代わり、一度使えば再発動まで途方も無い時間を必要とする。そういう意味では、バシリスクはこの鏡を使い潰してしまった、、、、、、、、、


 そもそも真見ノ鏡は本来、主に城攻めなどの局面で非常に有用な武器だ。だが、バシリスクがそれを何に使ったかと言えば、ひとえに「考えの裏付け」である。


 神霊は、自らの格式高い魂を込めて作り上げた道具ゆえか、神具という存在を我が子のように慈しむ傾向がある。

 だからその神具を、人間ごときに、、、、、、粗雑に使われている、、、、、、、、、という状況は、神霊の憤怒を引き出すことになる——イミナが真見ノ鏡を創り出した〈本人〉だったなら。


 そして、彼女は怒り、バシリスクは確証を得た。

 彼は神具という極上の兵器を、イミナという悪霊が自分の予測した神霊と同一人物であることを確かめるための、尋問道具として"使い潰した"のだ。


「——が、そんなことは良い、、、、、、、、


 アザーエムはそう言って、手にした真見ノ鏡を津久茂たちの立つ方向へ向けて、無造作に投げ捨てた。それはアスファルトの上を転がり、地に伏したイミナの鼻先にぶつかって動きを止める。


「……何のつもりだ?」


「返してやったのだよ。元々我々には必要無いモノだ。外で下手に使われても面倒だから今まで保管していたが、使い潰されてガラクタになった以上、用は無い」


 津久茂の問いにそう答えながら、アザーエムはぐったりとしたバシリスクの体を、その腕で抱え上げる。


「わたしがこんなところにまで出張ったのは、この愛弟子を万が一にも死なせない為だ。無事とは言い難いが、まあ命あるだけで良しとしよう。……ああ、物のついでだ。津久茂総司、一つ言っておこうか」


「……何だ?」


「そこの女と——女に取り憑かれた小童わっぱの話だ」


 津久茂は首を動かさず視線だけで、斜め後方に倒れた蓮を見やる。


「そいつらには当面の間、手出しはしないでおいてやる。我らは今、それどころでは無い、、、、、、、、、からな」


「……『賢人会議』か?」


違う、、


 アザーエムは首を横に振り、その口角を僅かに上げて続ける。


「確かに連中は五月蝿やかましいが——聖槍の発見、、、、、と比べてしまえば、問題では無かろう?」


 何だって、と言おうとして、しかし津久茂は声を出せなかった。アザーエムの放った言葉は、それほどの衝撃を伴う内容だった。


「馬鹿な——アレは神話の産物のはずだ。キリストの血に触れた槍など……!」


「否々——は。神話だと?神もその伝説も、我ら人類ヒトのちっぽけな頭から生まれ落ちたことなど一度として無い。聖杯、聖釘、聖骸布、聖槍、全て実在するさ、、、、、、、。人類がその恐ろしさから目を背けただけだ」


 アザーエムはバシリスクを抱えたまま、最後だと言わんばかりに、その顔に狂気的なまでの笑顔を浮かべた。


「いよいよだ——我らの悲願が成就される。祝えよ津久茂総司。これで世界は変わるぞ、、、、、、、?」


 その言葉が津久茂らの耳に届く頃には、アザーエムは姿を消していた。

 ただ、それは幻聴か否か——おぞましいまでの哄笑が、その場には響き残っていたが。


「……退いたの?あいつは……」


 恐る恐るという風な八百萬の問いに、しかし津久茂は答えることなく、黙ってポケットから、手のひらほどの紙箱を取り出した。

 それは手製で数種ミントや香料を配合し紙巻にした、彼特製の"精神安定剤"だった。その先端に火がつくと、あたりに爽やかなミントの香りが漂う。


「おちおち……のんびりもしてられ無いな」


「あいつが言っていたことを言っているの?……ねえ、聖槍とは何?あなた一体、何を知ってるの?」


 八百萬の質問にもやはり答えず、津久茂は子供をあやすような、柔らかい作り笑いを浮かべる。


「後で教えてやる。だが今は他にやる事があるだろ」


 言いながら津久茂は振り向くと、倒れた蓮の鼻先に転がった鏡を、おもむろに拾う。

 神具・真見ノ鏡——これもまた神話の産物だ。今のところあらゆる効力を失ってはいるが、このまま道に放っておいて良い代物ではない。


 と、津久茂はふと、刺すような視線に射抜かれていることに気付く。

 今にも縊り殺さんほどの殺意を込めて彼を見ていたのは、津久茂の足元に倒れ伏した蓮——と言うより、その中に入っているイミナだった。


「……そんな目で見るな、これはきちんとアンタに返してやる。だがその前に領場だ。その怪我、はっきり言って命に関わるぞ」


「………………」


 長い沈黙の後、ふと蓮の身体の周辺に精魂の流れを感じて、津久茂は制止の声をあげた。


「おい、もう治癒術は使うな。アンタの時代には知られてなかっただろうが、テロメアの長さは決まってるんだ。またそいつの寿命が縮まるぞ?」


 結局のところ術による怪我の治療とは、身体の仕組みや道理と言うものを、大幅に捻じ曲げる、、、、、行為と言える。


 負傷を自然ならざる力で無理矢理に治療する事は、シンプルな話、細胞分裂を早めることを意味する。

 だが人の一生のうちの細胞分裂の回数は決まっている。つまり治癒術の行使とは、寿命の浪費に他ならないのだ。


「その怪我はとりあえず、当面は自然治癒や普通の治療に任せる形でやっていくしか無い。さっさと病院に運ぶぞ、良いな?」


「…………」


 イミナは答えなかったが、そのいくらか穏やかなものになった沈黙は——渋々ではあるのだろうが——肯定の意を示していた。

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