第14話:血湧き肉躍る

 バシリスクは程なくして、そこ、、に到着した。


 雑居ビルが林立する商店街の一角。その中に、五メートルほどの広告看板が真っ二つに折れ曲がる形で崩落していた。

 何らかの外的要因で、すぐそばのビルの屋上から落下したのだろう。あらかじめ周辺を停止させていた、、、、、、、から、巻き込まれた一般人が一人もいなかったらしいのは幸運だったとしか言えない。


 ——と、その時突然、看板が内側から爆発でもしたかのように吹っ飛んだ。


「…………!」


 吹っ飛んだ看板は二、三メートルほどズレた地点に落下し、耳を塞ぎたくなるような轟音とともに、あたり一帯に粉塵を巻き上げる。

 そして、そこには一人の人影があった。粉塵が次第に薄れるともに、その輪郭はくっきりと浮かび上がっていく。


「お前は——」


「————」


 そこに立っているのは、領場蓮だった。

 バシリスクに対して背を向ける格好で、その体には看板が落ちた時に出来たのだろう生傷が、至る所に見える。頭部から流れた血が頬を伝い、顎元にまで達している。


 だが次の瞬間、消しゴムをかけられたようにその血が消えた。


「……?」


 見間違いではない。頭部だけではなく、体中の傷が端々から消失、つまりは治癒している。


 それは基礎的な、軽い傷を治すだけの霊媒術だ。

 だが今、蓮は指の一本も動かしていない。意識の一片たりとも、どこにも動いていないのだ。一切集中を向けること無く、まるで自動オート機械のように術を行使する——やっていることは基本的なものとは言え、それはベテランの技と言って良い。

 

「……あの女はどこにいる?」


 必要なことを問いながら、しかしバシリスクの理性はこの場に、今までにない違和感を認めていた。


 領場蓮。こいつは一週間前まで、間違いなくズブの素人だったはずだ。

 だがその素人に術を教えたのは、津久茂総司——霊媒師の中でも特に高い実力を誇る、あの男。それを鑑みれば、領場蓮がこの時点で、普通よりは高い水準で術を会得していても、納得はできる。


 しかし、この感覚は何だ?

 対峙しただけで身も凍りそうな、冷たい感覚は?

 今、あそこに立っているのは——本当に、あの少年なのか?


 ——と、次の瞬間。

 蓮はバジリスクの、、、、、、、、その懐にまで、、、、、、迫っていた、、、、、


「——ッ⁉︎」


 息を呑んたその時には、目の前に右の拳が放たれている。

 咄嗟にそれをガードしたのは、理性の下の行動ではない。研ぎ澄まされた、野生的な防衛本能の賜物だ。


 だが初撃が防がれた時、蓮はすでに次の行動に移っていた。

 攻撃をガードされ、力の集中した右手。そこを支点にそのまま身体全体を跳躍させ、前方へ縦に一回転し、バシリスクの背後に降り立ったのである。


「く——!」


 振り向いた時には、もう第二撃が放たれている。

 右脚の払い蹴りだった。バシリスクの、同じく右脚を狙って、回転蹴りの要領で攻撃する。


 だが今度は、バシリスクも黙ってはいなかった。

 放たれた攻撃を、振り向きざまに右脚を曲げて防御する。さらにそのままの動きで、その丸太のような左脚を蓮の顔面めがけて振り切る。


 何ら技巧も無い単調な攻撃でも、それを放つのは百戦錬磨の暗殺者だ。ただの人の身で、それも脆弱な顔面に食らえばそれだけで致命傷だろう。

 ところが、左脚は何を捉える事もなく空を切る。


 蓮は上半身を限界にまで反らし、ほんの鼻先で攻撃を躱していた。そのまま地面に手をついたかと思うと、バク宙の要領で後退する。

 と言っても、回転のまま地に足をつけた訳ではない。


 蓮は地面についた両腕で全体重を支え、バク宙の勢いを体が一回転する前に殺していた。さらに間髪入れず、一瞬のうちに力のベクトルを変え、バシリスクの方へ再度跳躍する。


「ッ!」

 

 体を丸めて遠心力に身を任せ、蓮はバシリスクの頭上にまで跳ぶ。


 その予想し難いトリッキーな動きに、さしものバシリスクも意表を突かれた。上から自分の顔めがけて落とされた踵に対して、一切の反撃を講じる事もなく、両の手のひらで防御するに甘んじたのである。


 とは言えそこは、バシリスクも素人ではない。対応しただけの防御であっても、たかが高校生の体で放つ踵落とし、その威力は完全に封殺された。

 ——が、蓮はその時にはもう、次の攻撃へ動いている。


 バシリスクの頭上、彼の手のひらに乗っかった形になった蓮は、踵落としを出した左脚を軸に、身を捻って一回転する。


「……ッ」


 皮膚の上に容赦なく革靴の底が擦れ、その鈍い痛みにバシリスクは一瞬気を取られる。

 その時にはもう、決定的な一撃が放たれていた。蓮は回転の軸にした左脚で軽く跳び、そのまま空いた右足でバシリスクの額を思い切り踏みつけたのだ。


「ぐッ!」


 直撃。それはバシリスクにとって、随分と久しぶりの事だった。

 彼がその慣れない衝撃に怯んだ隙に、蓮はまんまと敵の反撃圏内から離脱し、彼我の距離を十メートルほど開けた地点に着地した——否。


 一連の攻撃を受けてバジリスクは、目の前にいるのが領場蓮では無いと確信した。


 油断はあった。警戒も薄かった。だがその上であっても、アレ、、にバシリスクが圧倒されるなどあり得ない。まして今のは、術の絡まない肉弾戦だ。

 だが、目の前に立っているの男の姿見は間違いなく領場蓮のもの。この怪異に一体どう説明がつくのか——と、そこでバシリスクはある異変に気付く。


 ——鎖の気配が、、、、、引っ込んでいる、、、、、、、


 "経絡けいらくの鎖"。

 おそらくは津久茂総司が作成し奴に渡したのだろう、人と人ならざるモノを繋ぐ鎖。

 あれは「繋がり」という形のないモノを抽出した概念霊具。ならばその形、その在り方は持ち主の意思によってどうにでも変動する。


 先ほどまでは表面にあった、つまりは領場蓮自身ただ持っていただけ、、、、、、、、、だったのだろうその気配が、今は奥へと引っ込んでいる。

 それが意味するところは、バシリスクの知る限り一つだった。


「まさか——アレを呑み込んだのか?」


 概念霊具を呑む——それ自体は難しいことではない。何らかの術を使っても良いし、その技術が無いならば経口で呑み込んでも良い。


 だが、自らの確たる意思によってそれを呑んだならば——それはすなわち、魂と霊具の一体化を意味する。


 この場合であれば、悪霊・イミナとの繋がりが領場蓮と完全に同化する。

 つまりは——一人の神霊と蓮の魂が、一部で完全に繋がった、、、、、、、ということ。


「馬鹿なことを……」


 バシリスクは思わず、そんなことを口走る。それはマトモな人間の反応というものだった。


 悪霊にただ取り憑かれると言うのならば、いわばそれは魂の上に"のしかかっている"状態だ。肉体を持つ人間に寄り掛かり、吸血でもするように魂のエネルギーを吸い上げることで、自らの存在を安定させる。


 だが今、蓮とイミナの結びつきはそんな生易しいものでは無くなっている。


 魂の一部が繋がったならば、その在り方は母と胎児の関係に等しい。へその緒、、、、を通じ、魂のエネルギーは代謝も同然に、今までの比では無いスピードで吸い上げられる。そうなればもはや、外的な手段で悪霊を祓うことは不可能だ。


 同時に、先ほどイミナが突然吹っ飛ぶようにして移動した謎が解けた。


 ただ取り憑いているだけの悪霊なら自分の意思で宿主から離れることも出来るだろう。だが魂のレベルで繋がったなら、それは不可能になる。一定の範囲——おそらくは直径で十メートル以内——から、イミナは移動できなくなったのだ。


 にも関わらず、あの時彼女は蓮から百メートル以上は離れた場所にいた。

 ならばこそ鎖の呼びかけによる座標の振り戻し、、、、が、反動で巨大なものになったのだ。結果、その勢いは範囲内に入っても弱まることはなく、ままに魂の霊核ごと蓮に激突したのだろう。


 鎖の同化による魂への影響。

 加えて、肉体を凌駕した魂同士の激突——それはただの人間が意識を保てるような状況では無い。

 彼の魂の一部が、、、、、、、イミナと完全に、、、、、、、繋がった瞬間、、、、、、に、領場蓮は気を失ったはずだ。


 そのタイミングならば——空になった蓮の意識にイミナが入り込むことは可能だったはずだ。


 つまり、今バシリスクの前に立っているのは蓮では無い。

 蓮の肉体をイミナが支配し、戦っていたのだ。


「……馬鹿なことをしてくれた」


 これにはバジリスクも歯噛みするしか無かった。

 魂で繋がってしまった以上、もう悪霊を人間から引き剥がすことは不可能だ。つまり任務を果たすためには、バシリスクは蓮もろとも殺すしかない。


 だがイミナは、それを許しはしないだろう。もはや戦闘は免れない——となると、実体を持たぬ悪霊が肉体を得て、まともに戦う手段を得たという事実が殊更厄介だった。


 神霊がその肉弾をもって戦闘を繰り広げるなど、想像するだに悪夢でしか無い。たかが十六の子供の肉体に縛られている以上、本来の実力はほとんど発揮できないはずだが——だからと言って、もはや甘く捉えていい良い相手では無くなった。


 全力を以て叩き潰さねばならない脅威へと、敵は転じた。ここからは一切の手抜きが、油断が致命傷となるだろう。


 バシリスクは黙って一張羅のロングコートを掴み、無造作に脱ぎ捨てた。外気に触れたインナーの上からは、鍛え上げられた肉体が見え隠れする。


 一方で蓮——もとい、その中のイミナも、動きの邪魔になる学ランを脱ぎ捨てていた。さらに両足に履いていた学校指定の革靴を脱ぎ、靴下も投げ捨てて、裸足の格好になっている。

 そうして戦闘態勢を整えた"彼女"は、くるりとバシリスクの方へ向き直った。


 言葉は無く、両者の視線が交差する。

 対峙するのは人の法理を逸脱した、尋常ならざる輩二人。その空気はすでに、紛れもなく"死闘"の最中に流れるものと同じだった。


 ——そして、合図もなしに火蓋は切られた。


 踏み込みから両の脚を駆っての接近までは同時。

 そして初撃は右腕同士の激突だった。しかし二人は持て余した勢いのままに、互いの顔が触れ合うほどにまで接近する。


 刹那、バシリスクの瞳に映った敵の双眸は、感情というものが抜け落ちたかのようだった。それは相手とする者の左目が義眼だからなのか、はたまた中身、、が人外の神霊だからなのか、判断はつかない。


 腕が衝突したその反動で弾き返されるようになった二人の間に、少しばかりの距離が開く。だが今回、その間は小休止に使われることは無く、両者は即刻に第二撃へと踏み込む。


 一瞬早かったのはバシリスクの方だった。放たれたのは、僅かなリーチの差を利用しての大振りの回し蹴り。

 しかしイミナはそれを、倒れ伏すように限界まで身を屈めて回避する。その上で彼女は、片足立ちの格好になったバシリスクに足払いをかけた。


 結果から言ってそれは直撃し、バシリスクは体勢を崩す。だがそれは次の攻撃への布石だった。

 確かに彼は地面へと倒れ込んだものの、そこに無防備な隙など生じない。どころか逆に倒れた勢いを利用して、ブレイクダンスのように体を回転させる。さらにイミナの——つまりは蓮の——腰元の服を掴み、それを支えにして跳び上がるようにして、再び地に足をつける。


 そしてバシリスクは、立ち上がっても掴んだ手を離すことをせずそのまま力任せに、イミナを地面に向かって叩きつけようと、腕ごとに振りかぶる。


「——ッ」


 バシリスクとしては、叩き伏せた後にも手を離すことなく、そのまま上からのしかかって敵の自由を奪ってしまう心づもりだった。


 が、イミナもただでは転ばない。

 コンクリートに身を打ち付けはしたものの、その時ちょうど、右の膝がバシリスクの股下にあった。彼女はそれを迷うことなく振り上げる——すなわち"金的"。


「ぐ、ぁッ!」


 苦悶の声とともに、バシリスクの手はあえなくイミナを解放した。当然だ。いかに歴戦の暗殺者と言えども、鍛えようのない場所は存在する。


 イミナはその隙に地面を転がり、いくらかの距離をとってから立ち上がった。


「——、くそッ」


 下腹部から発生した極大の激痛がバシリスクの脳を貫く。だがその感覚から、少なくとも今受けた攻撃が身体に障害が生じるレベルでは無いと分かった。

 ならば問題は痛みのみ、、、、。それさえ無視出来れば、この場で今まで通りに戦闘を続行する事は叶う。


 そう理解した時には、バシリスクは下腹部を抑えるよりも早く術を発動していた。一時的に自らの感覚の一部を麻痺させ、『苦痛』を『遮断』したのだ。


 そうして体勢を立て直した両者は、休む間も無く再び攻防を開始する。

 拳を出されては防御し、脚を出されては身を捻り躱す。そんな打ち合いが百か二百かという数に上っても、応酬に終わりは見えないほど、両者の実力は拮抗していた。


 膠着の原因はひとえに"間合い"だった。

 バシリスクはもともと、機動力に長けた暗殺者だった。単純に術を使ってドンパチするのではなく、術によって自らの身体能力を上昇させ、戦いには体術を用いる——要はハドソンと同じ戦闘スタイルだ。ただしあちらが一撃の重さを重視したパワー型ならば、こちらは小手先を重視したスピード型だが。


 しかし、間合いの縮こまった小競り合いの中では、それは十全に発揮されない特技だった。このせせこましい距離に持ち込まれた時点で、バシリスクはある程度の制約を受けていたのだ。


(埒があかない——)


 バシリスクは、自分の腰元のホルダーに意識を向ける。

 そこに収納されているのは、"ガザリアルの骨"と呼ばれるナイフ型の霊具だった。怨霊の類を縛り付ける特殊な属性を帯びたもので、こと悪霊間には、とりわけ有効な武器だ。


 しかし——今敵として戦っている相手は、中身こそ悪霊ではあるものの、物理的には「人間」だ。通じるものかは疑わしい。


(だが——残る"骨"は三本。一つの無駄遣いならば——)


 ジューダスという組織にとってみれば、この骨はさして貴重品というわけでも無い。たとえ使い潰すことになっても、試して損は無いはずだ。

 

 バシリスクがそう断じた時、その顔に膝蹴りが迫る。それを身を反らして躱すと、腰元から一本のナイフを取り出し、振り向きざまに間髪入れず斬りかかった。


 刃は当然のように回避された。

 だが、その避け具合、、、、には微妙な差があった。イミナが後退した分の間合いが、今までよりも若干広いのだ。


 確かめるべく、バシリスクは勢いのままにナイフを振る。

 するとイミナは、突き出された腕を掴み返すでもなく反撃の素振りも見せず、そのままさらに後退した。まるでこのナイフを恐れるかのように、、、、、、、、、だ。


 その後退によって今、彼我の間合いは十メートルほどにまで開いていた。

 それを見て取るや、バシリスクの足元に旋風が巻き起こる。雨に濡れたコンクリートの上、弾かれるような勢いで、しかし音もなく、彼は跳躍した。


 一足に、開いたはずの間合いが詰められる。


 右手にはしっかりとナイフが握られたままに、その刃渡りに反射した光が残像で線を描くほどの、まさにそれは"一閃"だった。

 相も変わらず常識を凌駕した速度に対し、咄嗟に反応の遅れたイミナは、その頬から鮮血を滴らせる結果となった。


「…………!」

 

 僅かに血に濡れた頬を意識したイミナの右目に、刹那、何か、、が宿る。それはただの驚嘆のようにも、傷を負った事実に対する一瞬の激情のようにも見えた。


 しかし結局のところ、それらの感情が表に出ることは無かった。

 なおも追撃するバシリスクのナイフを避け、イミナは身を翻して跳び上がる。それは脚力だけで間合いを開けるのではなく、精魂による補助の加わった「逃走」だった。


「逃すかッ!」


 叫ぶように吐き捨て、バジリスクはスピードを殺さぬまま、追走を開始する。


 イミナが逃走の規模を拡大させた時点で、戦闘はもはや、町中を巡っての鬼ごっこ、、、、に発展していた。


 商店街を縦横無尽に疾駆し、目の前にバシリスクのに刃が迫れば今度は建物の屋上へと跳び上がる。それはバシリスクにとって、自らの特技を生かせるシチュエーションそのものだ。


 上から下から、バシリスクは意表を突く動きを重ねていく。時に跳躍し、時に電柱を盾にさえしてそれらを回避するイミナだが、こと長距離を移動しながらの戦闘ではバシリスクに軍配が上がっていた。

 ナイフの刃が突き出されるたびに、その回避動作には小さな綻びが生まれていく。綻びは蓄積し、やがて確定的な"隙"として表出した。


(————ここだ!)


 それは雑居ビルの屋上で攻防を繰り広げている時だった。

 突き出された刃を躱すために仰け反ったイミナが、足場を踏み違えて屋上から落下したのだ。それは彼女の意図しない、まさに綻びという名のミスだった。


 その隙をバシリスクは見逃さない。彼はひときわ大きく跳躍した後、ナイフを構え、重力のままに体ごと真っ直ぐに振り落とした。

 空中で体勢を崩せば、どんな達人だろうと自由には動けない。そして重力を加算した刺突速度を考えれば、それは回避不可の一撃のはずだった。


 ——だが、そこに響いたのは鋭利な金属が肉体を抉る音ではなく——、


「何っ⁉︎」


 ——金属同士がぶつかり合、、、、、、、、、、ような無機質な音だった。

 それもそのはず、全霊をもって振り抜かれたはずのナイフは、いつの間にかイミナが手にしていた一本の棒によって、的確に弾かれていたのだ。


「それは——」


 その形状に見覚えがあった。

 領場蓮が意識を手放しイミナにその身体を任せる以前、不自由な右足の機能を補うために使っていた杖だ。


 実のところそれは、蓮がある程度の霊媒術を身につけ、精魂に身体を支えてもらえるようになった時点で必要無くなっていた。

 が、蓮が今まで周囲から「片足が欠けている」という扱いを受けていた以上、ある日突然普通に歩けるようになるというのは不自然だ。それこそ緊急時以外は、今まで通りに杖をついて歩いた方が良いというのが、本人を含めたオカルト部の、一致した意見だった。


 だからこそ蓮は、バジリスクから逃走する時に杖を手放し精魂に身を任せた。

 そうして打ち捨てられ放置されていたものを、いつの間にイミナが拾っていたのかは定かでは無いが。


「……ッ!」


 咄嗟のことに瞠目したバシリスクだったが、その頭と行動はあくまで冷静だった。弾かれた右手に力を入れ、再度ナイフを突き出す。

 しかし「安全に刃物を防御できるモノ」を手に入れたイミナは、もはやその動作に綻びを生むことはなかった。迷いなく、冷徹に紫色の刃を弾いていく。


 結局、両者が地面に到達するまでの間、バジリスクが繰り出せたのは三発が限界だった。


 そして地に足をつければ、イミナは一転して攻勢に出る。

 コンクリートに激突するタイミングで受け身をとった彼女は、横合いに転がるようにしてバシリスクの間合いから逃れる。そして起き上がった途端、手にした獲物を真っ直ぐに振り下ろした。

 バジリスクは杖の一振りを、後ろに飛び退く形で回避する。


 否——それは果たして「杖」なのか。


 イミナの手にしているそれは、剣とも槍とも判じ難い、鋭利な「刃物」だった。切っ先があり、刃渡りがあり、その鋭さは日本刀の様相を呈している。

 杖を両手に持ち直して正面に構えた彼女のそれは、まるで剣豪の様相だった。


 元は絶対に「杖」だったはずだ。

 だがそれが今、バシリスクの持つナイフに対してリーチに有利のある「凶器」に転じている。それは『変化』と『強化』を術として複合した、精魂による賜物だった。


 馬鹿な、とバシリスクは思う。

 相手は悪霊だ。そう息をするように、術を使えるはずは無い——とそこで、バシリスクは今相手にしているのが、人間の体を借りた悪霊、、、、、、、、、、であることを思い出す。

 

 戦いに用いるのは人間の拳と脚ならば。

 霊媒術に用いるのも人間の魂——そういうことなのか。


 それは素人の、精魂との共鳴度も大して高くは無い魂だろう。今彼女が扱えるのは、あくまで領場蓮が扱える範囲の術だ。

 しかしそれでも——治癒に強化、逃走のための身体の補助といった必要最低限の術は使える。


 そうだ、そもそも最初にこの状態のイミナと対峙した時点で、彼女は術を使って身体を癒していた——。


「————っ」


 今更もはや益体のない考察は、額を撫でた空気の流れに打ち消される。


 イミナはすでに、新たに手にしたその「武器」をもって攻撃に転じていた。


 右へ左へと、流れるような速度で剣戟が行われる。こうなればすでに、バシリスクにとって状況は不利以外の何物でも無くなっていた。

 刃渡りが一メートル近い"刀"相手に、彼が手にしているのはただの小包丁だ。加えて、この打ち合いはバシリスクの特技が生かせない、せせこましい間合いというやつだ。

 

 必然、今度の"綻び"はバシリスクの方に蓄積していく——もちろん彼は、自分を攻め立てる水のような剣筋が、世界的SF映画の見よう見まねとは知る由もなかったが。


「ぐッ……!」


 ナイフを掴む手に鋭い痛みが走り、バシリスクは苦悶の声を吐く。蓄積した"綻び"の表出によって、イミナの振り払った刃の切っ先が彼の手首を捉えたのだ。

 そして、バシリスクが思わず手放し、空中に置かれる形になったナイフも、即座に地面に叩き落される。


 さらにイミナは、腰元でその異形の杖を一回転させ、切っ先を真っ直ぐ正面に向けると、微塵の躊躇もなく全力で突き出した。


 武器を落とし無防備なバシリスクには、心臓を正確に狙った突きを躱す術は無かった。吸い込まれるように自らの左胸に向かう切っ先を、ただ見つめるしかない。


「——⁉︎」


 しかし、そのプラスチックの刃が彼の胸板に食い込むことはなかった。

 音もない崩壊、としか言いようがない。何の前触れもなく、まさにその切っ先がバシリスクの胸元に届こうという時、異形の杖は刃渡りの中央から瓦解したのである。

 それは、イミナにとってはもちろん、バシリスクにとっても予想の外の出来事だった。


 だが実のところこの崩壊は、精魂と物理の理屈に照らし合わせれば、予測されて然るべき現象だった。


 ただの「杖」だったものを土壇場で、無理矢理に殺傷能力を兼ね備えた「凶器」に捻じ曲げたのだ。元が円柱型のモノを薄っぺらの刃物に改造した時点で、物質としての耐久性など望むべくも無い。

 そんなものを何の遠慮も加減もなく、力のままに振るっていたのだ。この短時間で形を保てなくなるのも当然と言えた——それどころか、もし崩壊のタイミングがもう少し早ければ、今の両者と立場は逆転していただろう。


 だから結局のところ、イミナがすぐさまバシリスクの鳩尾に強烈な足蹴りを叩き込めたのは、幸運に味方されたというだけのことだった。


「がッ——!」


 しかし、例え偶然という名の乱数に助けられただけのものでも、その一撃は決定的だった。

 バシリスクの腹にめり込んだその爪先は、彼の横隔膜の動きを止め、呼吸困難に陥らせるに十分な衝撃を伴っていた。


 爆発的な力に押し弾かれるように、バシリスクは体ごと後方へ吹っ飛ぶ。その身体は信号待ちで停止したトラックに激突し、派手にフロントガラスを破壊した。


「ぐ、ぅっ……」


 喘鳴とともに、その口から数滴の血が吐き出される。

 トラックの車体を歪ませるほどの衝撃は、確実にバシリスクの体を内外から破壊していた。数本の肋骨が折れ、おそらくそのうちの一本が肺を引っ掻いている。吐血はそのためだ。


 押し寄せる苦痛で満たされ、がらんどうとなったバシリスクの思考に、ふと声が響く。


 ——神霊は神じゃ無い。

 ——私は人間。


 いつか、消えかけの女が自らの身を揶揄して吐いた言葉。

 二千年という永久にも劣らぬ時を生きながら、自らを人間と卑下する女の、それは言葉だった。


「……け、るな……」


 お前らが神じゃないと言うのならば。

 この世に神がいないと言うのならば。


 あの時、俺が懐いた祈りは何だったと言うのか?

 俺が祈った神がお前らでないのなら、あの祈りは誰に届いたのか?


 ならば——あの祈りも救いも、全ては意思すら持たぬ"運命"の奔流か?

 人の意思に、祈りに、願いに——意味は無いと言うのか?


「——ふざけるなッ!」

 

 檄を飛ばすとともに、バシリスクは腰元から二本のナイフを取り出し、続けざまに投擲した。

 それは残った最後の"ガザリアルの骨霊具"。悪霊に対し効力を発揮する、怨霊封じの切り札だ。


 ——が。

 およそ人間の投擲能力を超えた速度で自らの元へ迫る二本の刃を、イミナは表情一つ変えずに捌く。

 弾いたわけでも避けたわけでも無く、彼女は流れるような動作で、片手に一本ずつその刃を掴み取った、、、、、のだ。

 

 自分の体には一切傷を付けることなく、正確無比に柄の部分のみを捉えたその手の動きを、しかし彼女はそれで止めなかった。

 挙動は水のように流動的なまま、二本の刃をそのままバシリスクへ投げ返したのである。それらは真っ直ぐに紫色の残像を描き、バシリスクの胴に突き刺さった。


「ぐ……」


 じわりと、いよいよ生命すら削り取られるほどの痛みがバシリスクの体を伝う。

 だが、浅い。少なくとも今投げ返された二本は、内臓にまで達してはいない。まだ戦える。


 ——と、彼がそう自らを奮い立たせようとして、刻一刻と重みを増していく瞼を上げた瞬間だった。

 目の前に、イミナがいた——否、跳躍しているのだ。膝を折り曲げ、足の裏をこちらに向けて、跳び蹴りを放つような姿勢で。

 

「な————」


 それが何を意味するのか、考える間もなく、イミナの——すなわち蓮の裸足の踵が、バシリスクの胸に突き立ったナイフの柄、その底を全体重をもって押す。

 何かを切り、裂くことを考えられて作られたその道具に対して、人間の肉はあまりに柔かった。一切の抵抗なくその刃は深々と、刃渡り全てを使い、バシリスクの肉体へ食い込んだ。


「——ぁ、はッ……」


 とぷん、と溢れるように彼は吐血した。苦痛は臨界点を超え、その目はもはや目の前の敵を映してはいない。

 イミナがその足で、もう一方の刃を同じように押し込んだが、それすら認識の埒外だった。


 重度に負った数々の傷は、正常な思考もままならぬほどバシリスクを苛んでいる。もう彼には立ち上がることも、苦痛を叫ぶことすら叶わない。


 それこそが歴戦の暗殺者の、敗北の瞬間だった。

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