第13話:社会の思想健全化の為の淘汰
それはこの世の道理だ。太陽が東から西に落ちるのと同じ、確立されたルール。
霊媒術が精魂の力を借り、世界の法理を超えた現象を起こすものならば、そもそも精魂に拒否された時点で出来ることは無くなる。
それを捻じ曲げるならば、これはもう腕尽くで精魂の意思を押し曲げ使い潰す——そういう事をするしかない。
当然、それには普通に霊媒術を使うのとは比較にならない労力がいる。
なまじ悪霊は実体のない霊体であるため、そんな事をすれば存在すら危うくなる。その出来すぎたシステム故に、「高位な存在を悪霊に貶める」という術式は、古来より封印術として使われてきたのだが——だからこそ。
だからこそイミナという悪霊は、今「死にかけ」なのだ。
「——解せないな」
後ろから、耳障りな声がする。
その声とともに、数本のナイフを投擲される。イミナはそれを空中で、辛うじて身を捻って躱した。空を切った刃はそこにあった電柱に突き刺さり、動きを止める。
バシリスクはその電柱の上に降り立ち、すでに満身創痍という風体の女を見下ろした。
「もはやアンタには空を舞い逃げるだけでも限界のはずだろう。さっきあんな風に、無理矢理に術を使わなければ、まだマシだったろうに」
「……っ、く……」
イミナは膝をつき、そこから立ち上がることさえ出来なくなっていた。
そもそも電柱をへし折り武器とした時点で、悪霊という存在の範疇を飛び越えた行動だったのだ。その上で怨霊封じをかけられた中で術を行使したのだから、逃走すらままならないのも当然だった。
——バシリスクが蓮に語ったことは、概ねその全てが正しい。
イミナは未練を残して死んだ人間などではない。
太古より存在する、悪虐の限りを尽くした人外の輩だ。
神霊——そう呼ばれるのは何百年ぶりか知れないが、生まれを問うならば、その定義にも間違いはない。イミナはかつて神と崇められた、原初の霊媒師の一人だ。
生前、とあるどうしようもない間違いから死に追いやられた後、彼女の魂は完全な形で現世に留まった。
実体の有無など、彼女にとって大した意味を持たなかった。肉体の枷から外れたその有り余るほどの力は、ある時は欲のままに人々を支配し、ある時は癇癪のままに人々を虐殺し、ある時は高揚のままに人々に豊穣を与えた——ある山の底に封じられるまでは。
「もう終わりか?追いかけっこは」
若々しい声。蓮と大して年も違わないだろう、だというのにもう何百人もの人間を殺してきたような、冷たい声がした。
——ああ、今見てみればよく似ている。私を封じた、あの陰陽師に。
「領場蓮を俺から引き離したな。そんな事をせずとも、俺はあいつを殺すつもりは無かったというのに……何故だ?アンタは神霊だ。何故一人の人間などを、そうまで気にかける?」
「……は、は」
バシリスクの問いに、イミナは嘲るような乾いた笑いを返した。
「……何がおかしい?」
「私などを……神と見崇めるお前がよ」
この窮地の最中、彼女の目に宿るものは諦観とは違う、強いて言えば自嘲じみた感情だった。
「神霊は神じゃない。ただ永く生きすぎただけの人間……幾百年封じられようと、何に貶められようと、
人であれば、その胸の内に人への情が発生することに、何ら矛盾はない。だが今、イミナを突き動かすのは十年前の「義理」だ。
「……私は生きすぎた。消えることに恐れなど懐かないけれど——あの子はまだ、ただの子供。あの子は当たり前に母親に愛されるべきだった」
「……何を言っている?」
「母の情は——お前には理解出来ないでしょうね。愛しい子孫を、何としても生かしたいと思う気持ちは」
「……私はもう消えても構わない。この俗世は名残惜しいけれど——十年前の約束は果たしたわ。彼は力を身につけた。あとは一人で何とか出来るはず」
忌まわしい炎の中——それは、もはやイミナ自身の記憶にしか存在しない出来事だ。
ある母親が死の淵で、我が子の生存を願った。たまたまその場にいただけの神霊が、それを受け入れ、幼子の行く末を見守った。それが約束であり、一人の女が懐いた末期の願いだった。
だがもう——良いだろう。
ならばもう、約束は果たされたはずだ。あの母親の願いは果たされた。
そして——イミナという存在が、徐々に薄れていく。
——結局のところ、鬼塚山の封印から抜けたところで、私は籠の中だった。悪霊と言う、力を剥奪されたモノに堕とされた時点で、そこに存在価値は無くなった。
「私は——狩り終えられた
本来あの時、山の底に封じられた時点で私は消えているはずだった。それが、眠ることも許されずに意識を持たされ、身じろぎもせず世界を見つめて五百年——その長さを思えば、俗世に放たれた十年など、微睡みほどの一瞬だ。
ああ、だけど——。
この十年は楽しかった。
人の範疇を外れた身でありながらも、人のように俗世を謳歌した十年は、どうしようもなく楽しかった。
「ああ——そうか。ならばせめて藁のように消えろ」
バシリスクはそう言って、手にしていたナイフを懐にしまった。
もう自らが手を下すまでもなく、イミナは消え行くのだと悟ったのだ。それは冷徹な暗殺者の、最後の情けだった。
イミナの輪郭が淡い光を放ち、細かい粒子のようになってどこかへ飛んでいく。それは、魂というモノがこの世から消え去る時に起こる現象だった。
——異変が起きたのはその時だった。
静かに消え行くはずのイミナという存在が、唐突に揺らぐ。
それは形が不確かになるのではなく、むしろより強い力によって干渉された、肩を掴まれるような
「何……?」
予想もしなかった現象に、イミナは困惑の声を漏らす。
輪郭はぼやけたままだ。身を包む倦怠感も全く治ってはいない。
だが同時に、それら"存在の薄弱化"も停止していた。一定の薄さを保ったまま、いつのまにかイミナは、それ以上薄れることが無くなっていたのだ。
「何だ……?」
状況を飲み込めていないのは、バシリスクも同じだった。
確かにイミナは消えかかっている。だが今、それは止まった。明らかに外からの力によって、止められたのだ。
その外からの力とは——この場ではすなわち、バシリスクの敵だ。
「っ、く——⁉︎」
だが、バシリスクがその結論に達する前に、次なる現象は働いていた。
イミナが驚嘆の声を上げる。
当然だ。もはや一歩も動けなかったはずの彼女の体が、突如前方へとズレたのだから。
それはイミナ自身の力では勿論無かったし、物理的に引っ張られたようでも無かった。空間ごと捻じ曲げられ、座標を変更させられたような、そんな感覚だ。
膝をついたまま、最初は十センチほど移動した。次は三十センチ。その次は一メートル。
バグを起こしたカーソルように、イミナの存在が継ぎ接ぎに移動している。——そして次の移動が決定的だった。
「————っ!」
イミナも、そしてバシリスクもが、あまりに唐突かつ理解不能なその現象に反応を遅らせた。二人の驚愕の隙に、移動はもはや「吹っ飛ぶ」という勢いにシフトする。
バシリスクが振り向いた時には、イミナはもうその視界にすらいなかった。蓮が最初にやった「逃走」よりもはるかに速く"翔んでいく"。物理法則や精魂の法則さえ完全に無視した動きだ。
「何だ——一体何が起こった⁉︎」
流石に隠し切れない驚愕を声に滲ませながらも、バシリスクは膝を曲げ、追跡を開始する。
イミナの姿はもう見えない。だが移動した方向から、大体のところどこへ向かっているのかは想像がつく。
辿るべきは、あの女が逃げてきた方角。つまりその先にいるのは——先刻弾き逃がされた、領場蓮だ。
*
鬱々とした闇の中で、目が醒めた。
上げたはずの瞼は、しかし上から滴る液体ですぐにまた閉じることになる。どうやら頭から流血しているらしい。それが右目の上を通り、頬から地面へと落ちていく。
「……痛え、な……」
少なくとも声は出る。
どこがどう痛んでいるのか分からないほどの激痛に苛まれてはいるが、それは生きている証拠だ。
確か——そう、看板が落ちてきたんだ。イミナさんに弾き飛ばされ、なんとか無事に着地した矢先のことだった。
……どうやら頭の方も大丈夫らしい。気を失う前のことも覚えている。
周りの状況を鑑みるに僕は、崩れてきた看板の下、ちょうど地面との間に出来た空洞に倒れているらしい。
周りが暗いのはそのせいだ。依然聞こえるのは雨音だけなので、どうもまだ世界は静止したままらしいが……第一に、生きている。
生きている——あれでも助かったのか。
「……
……何が。
何が助かった、だ。
僕が益体のない思考に身を
彼女は人を逸脱したバケモノではない。
肉体を持たない霊体でありながら、むしろ今まで、人並み以上に俗物的な性質を見せていたのが彼女だ。それが、あの局面で胸中に一切の迷いも懐いていなかったとは、とても思えない。
彼女とて、平静では無かったはずなんだ。その一切を押しとどめ、その身を苛む苦痛も顧みず、イミナさんはさらに力を使って、あの場から僕を逃した。
「……僕は……」
僕は結局——うじうじと散々迷った挙句にろくに答えも出さず、その場その場の状況に流されてここにいる。
——僕とは誰だ?
僕が僕と呼ぶそいつは誰なんだ?
そいつに、意思はあるか?
他人から与えられた出来合いの状況を享受し、自分の意思では何も選ばない。選ぼうともしない。そんな僕に「自分」なんてものがあるのか?
「…………」
ふと、滴る血に濡れて薄眼になった右目が仄かな光を認めて、ぴくりと瞼を動かす。
狭苦しい看板の下の空洞を照らしたのは、一本の鎖が放つ赤い光だった。
いつのまにこの胸から顕現したのか、津久茂先輩から受け取った"赤い鎖"が、この闇をおぞましい光で照らしている。
この鎖が外に出てきているという事は、僕と彼女との繋がりに何らかの異常が生じているのだろう。
「……お前、は……」
鎖は光を放っている。
だがその光は、あまりに仄かで儚い。直感的に分かる——この鎖は今まさに、消えようとしているのだ。
鎖は僕の意思でのみ砕けるのだと、津久茂先輩は言っていた。
だが今僕は、まだ自分の意思でそれを望むことはしていない。
ならこの鎖が消えようとしている理由は二つ。僕が実は、もう助からないほどに死にかけなのか——イミナさん自身が、もはやその存在を保てていないのか。
鎖が二人の繋がりそのものだと言うならば、二人のうちどちらかが消えれば、「繋がり」も消え失せる。
「お前、は……また」
何もしなくても、もうすぐ鎖は消失するだろう。
僕が何も考えずとも、何も選ばずとも、このまま時に身を任せれば——また状況が、勝手に僕を次の場所に運んでくれる。
——僕に「自分」なんてものがあるのか?
——僕の思う「僕」なんて、その時々に感じたことをそのまま享受しただけの、
喜び、哀しみ、怒り、戸惑い、恐怖、痛み。時間が揺れ動く中で絶え間なく襲うそれらの感覚に、適当に反応して生きていく。自分で何かを考えているようで、本当はただ何かに対応しているだけ。
そんなお前は、また選択を放棄する。
今も目の前に分かりやすい、形のある
お前は自分に値しない。
僕は僕に値しない。
インターネットの匿名世界に垂れ流され続ける、顔のない情報と変わらない。
理由のない誹謗中傷、悪意すら持たないフェイクニュース、暇つぶしの個人特定——何の意味もない架空の日常、逃避の空間。誰がひり出したのかも分からない糞の山だが、それは現実からつまみ出された自分を持たない亡者たちの集合体でもある。
自分で何も考えない。自分で何を選ぶこともない。ただ与えられた情報と、それに対応するためのちっぽけな感情で生きている。
一体いつから僕はこうなった?
あの時——僕の全てが終わり、全てが始まった、あの事故か?
「……十年前の……事故……」
炎の記憶。
永遠に僕を捕らえて離さない煉獄の炎。
あの炎の中で、僕は何を感じ、何を思った?
あの惨状の中でさえ、やはり僕は与えられた悲劇を享受するだけの存在だったか?
『——この子だけは幸せに生きて。呪われた運命から、解放されて——』
「……、……?」
頭の、思い出の中に響く女性の声。
それを聞いて、ふと違和感を覚える。
『——私は呪われた——の子供。けどこの子は——ただの子供』
女性の声。
だがこれは——イミナさんの声ではない?
「……アンタは、誰だ?」
思わず声に出して尋ねる。
今まであの時の夢は幾度となく見たが、そこに声が響いたとしても、それはイミナさん一人のものだった。
だから、この声には聞き覚えがない。
……いや、どこかで聞いた覚えはある声なのだが、思い出すことが出来ない。
『蓮には——この子には——精魂なんて関係のないところで、幸せに——』
「…………っ!」
それが記憶の鍵だった。
その瞬間、走馬灯のように継ぎ接ぎだった映像が突如として一繋ぎに変わる。瓦解した記憶の断片がそれぞれ合わさり、血液が奔流するのと同じように、僕の脳裏を駆け巡る。
タイヤのスリップ。
ガードレールの破壊。
落下。
激突の衝撃。
爆発。
半開きになったドア——シチュエーションの要素一つ一つが、順繰りに繋がっていく。
——眼が覚めると、僕は自分が身動き取れなくなっていることに気付いた。眼球を動かせる限りに動かして辺りを伺っても、何かごちゃごちゃとした車の部品やガラスの破片が見えるだけで……不思議と痛みはなかったが、体のあちこちに不快な圧迫感のようなものを感じて、僕はまた意識を手放して——否。
その前。その、眼が覚める前。車が炎上してから気を失うまでの、その間。
欠落していたのはその部分だ。思い出さなければならなかったのは、その部分だ。
「……ああ——そうだった」
思い出した——どうしてあの時、僕一人だけが助かったのか。どうして僕がイミナさんと出会ったのか。
忘れていることさえ忘れていた、彼方の記憶。それが今、脳裏に蘇ってきた。
それを思い出したならば、僕にはやらなければならない事があった。
もう後でも先でも無く、伝えなければならないことが。
そのためには——この鎖を目の前にして、これが消える前に、自らの意思で行動しなければならない。
さもなくば僕は、本当にただの亡者になってしまう。
それは——嫌だ。
僕は生きている。あの事故の中、一人生き残った。助けてもらって繋いだ命なんだ。
ならば、亡者であって良いはずが無い。たとえ何もかも、それ以前の記憶が欠落していようと——
「……この鎖は……繋がりそのもの。僕の意志でのみ変質する……」
僕は眼前の鎖に、口を開く。
あんぐりと欠伸でもするように、口腔の両端が引きつる。下顎の骨がガクガクと音を立ててなお、限界まで大口を開ける。
——そして。
僕は、
「————っ」
咀嚼はしない。噛み砕くこともない。
ただ口腔内に、あまりあるエネルギーを有する霊具を頬張った。
鎖の放つ霊的な力は、たちまちに頬の内側を焼き焦がす。まるで溶岩でも流し込まれたかのような感覚があった。
だが、不思議と苦痛は感じない。この熱は魂までも満たすようで、失いかけた活動力というものが戻ってくる感じがした。
そして次に僕は、頬張ったその鎖を一息に呑み込んだ。
「うっ……く」
一切の味も臭いもしなかった。ただ、体が内側から焼かれるような感覚だけがある。それでも、鎖は僕の体内に入り込み、二度と戻ってくることはない。
鎖が壊れれば、彼女との繋がりは概念として断ち切られる。そして鎖の状態は、僕の意思のみで変動する。
僕は今、自分の意思でこの鎖を呑み込んだ。
永久に僕のものにするという意思をもって、文字通り腹の中に抱える意思をもって、呑み込んだ。
「…………は」
腹が焼けるように熱い。その熱は、次第に僕の意識を薄れさせていく。
だが僕の口から漏れたものは、乾いた笑いだけだった。
鎖を呑み込んだことで、果たして僕や、体はどうなるのか、皆目見当もつかない。
ただの人間と神霊という上位の存在の繋がり。そんなものを抽出した道具を呑んで、何も無いとは思えないが——何の変化もないかも知れないし、あるいは死ぬ可能性だってあるだろう。
だが今、どうなっても良い。どうだって良い。
ここに向かって、急速に何かが近付いてくる感覚がある。理屈抜きで、信頼できる何かが、もう目の前にまで迫っている。
だから僕はもう良い——急激に頭をもたげるこの眠気に身を任せてしまって、構わないだろう。
僕はもう亡者じゃ無い。
僕は自分の意思で何かを選んだ。状況に迫られてではなく。
そして、再び意識は暗転した。
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