第12話:悪魔を寄越した
言ってから、何故?と自問する。
何故——僕は今、迷いもせずに断ると言ってしまったんだ?
自分が助かるためなら、さっさとあんな鎖、渡してしまえば良かったんじゃ無いのか?
それでイミナさんはバシリスクに退治されてしまうのだろうが、彼女には、そもそも知らないうちに僕の寿命を——生命を削り食らっていたという、どうしようもない咎がある。
それが、たとえ僕の身勝手な判断で身を滅ぼしても、文句を言う資格は無いはずだ。なのに何故——、
「————雨だな」
内心で自らの口にした答えに対し困惑の限りを尽くす僕とは対照的に、バシリスクは酷く冷静な声で呟いた。
見ると、彼は首だけを上に傾けて空を仰いでいた。
僕たちを除く人間の動き全て静止したこの空間においても、何故か雨は降り続いている。
最初はにわか雨という程度だったのが、いつの間にか土砂降りと言えるほどの勢いになっていた。バシリスクの顔を打つ雫は頬を伝い、電柱の落下の衝撃で亀裂の入ったアスファルトに落ちていく。
——と。
顔は上に向けたまま、唐突にバシリスクはその瞳を、ギロリとこちらへ向けた。
「……っ⁉︎」
そこに籠もった強烈な殺意に身が竦んだ時にはもう遅かった。
気付けばバシリスクは、僕の懐に入り込んでいる。ゆうに十メートルはあろうかという距離を、一瞬にして詰められた。驚嘆の念を声にすることすら叶わない。
バジリスクの掌底が目にも留まらぬ速さで、僕の鳩尾を打っていた。息が止まり、苦痛に喘ぐ声を出すことも出来ず、その衝撃はそのまま痛みに変わって脳を貫く。
だが、攻撃はそれでは終わらない。
体を折った僕に対し、バジリスクは踏み込んだ左脚を軸に、空いた右脚で膝蹴りを食らわせてきた。顎に正確にヒットしたそれは、僕を体ごと宙に浮かせる。
「ぐあっ!」
今度は声が出た。——が、そんな事を思う間も無く、トドメとばかりに、バシリスクは僕の頭に裏拳を思い切り叩き落とした。上方に動いていた体はそれで、再び重力に従い地に叩きつけられる。
「ぐ……」
気付けば僕は、仰向けに転がっていた。地面に激突した後頭部や、バシリスクの攻撃を受けた箇所が痛み、起き上がろうと思うことすらままならない。
辛うじて瞼を上げると、倒れた僕のすぐ側に立ったまま、バシリスクがこちらを見下ろしていた。
その瞳は、真っ直ぐに僕の目を射抜いている。彼の目に映った自分の表情がはっきりと見えるほどにだ。それは、身震いがするほど冷たい目だった。
「お前、地獄を見たことがあるな」
バシリスクは静かに言った。表情は凍りついたまま、少しもその目を動かさずに。
「……何だって?」
身体中を苛む痛みに耐えながら、僕は訊き返した。
「その目。その目だ。地獄を知っている目、全て喪った者の目——」
「何を言って……」
「全てを喪い、また何かを与えられた。与えられた縁に安易に縋り付き、それを手放すことが出来なくなっている」
バシリスクは言いながら膝を折り屈みこんで、顔を近づけて来た。
「お前のそれは
「…………!」
——こいつの声に耳を傾けるな。
——こいつの言うことを聞いてはいけない。
心の奥底で誰かが僕に囁く。そいつの言葉に正鵠を射られたのなら、お前はお前でいられなくなると。
今、頭の内側を打ち付ける痛みは明らかに、バシリスクに攻撃されたからというだけのものではなかった。
この「声」だ。僕に囁く「声」が響くたび、杭でも打ち込まれるような痛みが生まれる。
だが、この「声」には頭痛を生み出すだけでなく、僕に対してある種の強制力を有していた。
——そいつの声を聞くな。耳を塞げ。それも出来ないなら、とにかくそいつに喋らせるな。
何故だか「声」に逆らえない。逆らってはならないと、理性や感情を超えた部分が叫んでいるような感覚がある。
「…………!」
気付けば僕は、未だ体に残る痛みすら無視して、屈んだバシリスクに対して左膝をぶつけるように、思い切り蹴り上げていた。
バシリスクは微かに目を開いて、しかし微塵の焦りや迷いもなく、二、三歩後ろに退がってそれを避ける。
攻撃は避けられたものの、一時的に至近距離から敵は消えた。その隙に僕は、何とか仰向けの状態から立ち上がる。
——逃げろ。
——そいつの前から去れ。今すぐに。
「……ああ分かってる」
僕は一人頷く。
そうだ、この「声」が言うように、今は逃げる以外の選択肢が無い。先輩にも教わっただろう——それを思い出せ。
*
「よし。基本はもう大丈夫そうだな」
褒めているのがイマイチよく分からない、津久茂先輩の感情の入っていない声を聞きながら、僕は直立した姿勢のまま宙に浮いていた。
時間は少々遡り、五日前。
津久茂先輩含め三人の先輩たちの指導のもと、僕は霊媒術のイロハを習っている真っ最中だった。
「降りていいぞ」
「は、はい……よっこらせ」
答えながら僕は、浮いた体をゆっくりと地面に降ろす。
津久茂先輩の手に握られたスマートフォンの画面には、ストップウォッチのアプリがきっかり"30:00"の数字で止められていた。
「……三日かかって、ようやく三十分空中に浮いてられるようになったのか……」
「たった三日で三十分も浮いていられたなら上出来よ。才能は申し分無いわぁ」
と、小山先輩のお褒めにあずかったわけだが、自分ではあまり納得の行く出来とは思えずにいた。
そりゃあ霊媒術のことなんか知らないし、彼らが上出来と言ってくれるなら実際にそうなんだろうが……なにせ僕の方からは、比較できる対象が
津久茂先輩は炎を自在に操るあの強さだし……小山先輩にしたって、つい昨日、流れでよく分からない不思議な術を見せてくれた——少なくとも僕には真似できないような。
「……確かに、精魂ってやつを操る感覚は掴めてきた気がしますけど……こんなので、あんな化け物みたいな連中に勝てるんですかね?」
「勝てるわけねえだろう」
霊媒術のトレーニングを始めて三日、そろそろ
僕は思わず、「は?」という感じの表情を浮かべてしまう。
「あんな連中とそもそも戦うことを考えるな、馬鹿。次は本当に死ぬぞ」
「いや、えっと……じゃあどうすれば良いんです?」
「逃げるに決まってんだろ」
それはシンプルで、けれど限りなく現実的な答えだった。
「フィクションの中なら、化け物に出会ってすぐ逃げる小物はヤラレ役と決まってるがな——実際は、勝てない敵に会ったら逃げりゃあ良いんだよ」
「逃げるが勝ち、って事ですか?」
「逃げたら負けに決まってる。だがお前の場合、別に連中と勝ち負け争ってるんじゃねえんだから」
と、そこで今まで会話の外にいた八百萬先輩が、手元の開いた本に目を落としたままおもむろに人差し指を立てた。
見ると、その指先の空気が瞬く間に青白くきらめき始める。それは無数の氷の粒子の渦巻きであり、一般に冷気と呼ばれるものだった。
「津久茂は炎。私は氷。霊媒師にはそれぞれ、得意とする何らかの術を持つの。でも領場、あなたはまだ、自分が何をできるのかを知らない」
「得意とする術ってのは、つまり、あのハドソンって男が、馬鹿力を振り回してたみたいな?」
あの大男は常識では考えられないほどの肉体的力を発揮していたものの、その反面、例えば津久茂先輩の炎のような、あからさまな異能力を使うことはなかった。
「そうだ。あれは肉体改造に特化した男だった。同じようにお前にも、得意とする
「……それがすぐに分かる方法とかって、ちなみにあったりします?」
「ふむ。こういうのは普通、遺伝で決まるからな。お前がどういう霊媒師の血を引いてるのかが分かれば、自ずと答えは見えるだろうが……」
と、言いながら津久茂先輩は横目に僕の顔色を伺うような表情をする。
……まあ言いたいことは分かる。
僕にはもう、遺伝的なルーツとなる両親がいない。十年も前のことだし、あまり覚えてもいないから、本人として言わせてもらえば、正直気にすることでも無いんだが。
「その……僕の両親はつまり、霊媒師だったんですかね」
「どうだろうな。領場ってのは珍しい名字だが、霊媒師の家系としては聞いたことが無い。本人が亡くなってるんじゃ確かめようも無いし……お前、爺さん婆さんや親戚と連絡取れるか?どこかに住んでるんだろ?」
「あ、いや。僕、親戚いないんですよ」
言ってから、津久茂先輩があからさまに怪訝そうな表情を浮かべたのを見て、ろくに考えずに発言したことを後悔する。今の言い方では確かに誤解を生むだろう。
「……前々から気にはなってたんだが、お前、一人暮らししてるよな。その前は施設にいたって聞いたが、普通両親を亡くした子供ってのは、祖父母やら親類に引き取られるもんじゃ無いのか?まさか事故の時、一族皆一緒だったわけじゃ無いだろうに」
「えっと……祖父祖母とか、伯父さんや伯母さんとかは、僕にもいるはずなんです。けど、聞いた話じゃうちの両親、実家から勘当されてるらしくて」
「勘当?」
訊き返す津久茂先輩に、僕は頷きを返す。
「事故に遭った後に病院で、役所の人から聞いたんです」
身寄りをなくした僕の身辺整理に勤しんでくれていた、市役所の戸籍課の若い男性だった。
家族を亡くした僕がこれからどこで暮らすのかを決める手伝いをしてくれていて、その中で彼は、僕と血の繋がった人々と会ったらしいのだが。
——君のお祖父さんたちに会ったが、彼らは君に会いたがっていない。
——どころか、亡くなった君の両親——つまり彼らにとっての実の子供なんだが、とうの昔に勘当した、もう一切関係はないと言って聞かない。
——ご両親の名前を出した途端、もう取りつく島もないんだ。
そんなことを言われて、僕は子供ながらに「なんでうちの両親はそんなに嫌われてるんだ」と首を捻ったものだった。と言うかその後で、イミナさんから口に出して突っ込まれたのだが。
「……なんだそりゃ?両親とも実家から勘当されてたと?」
「ええ二人とも。僕もなんだそりゃって思いましたけど、案外そういう"共通点"が、二人の馴れ初めだったのかなぁって」
「……なるほど。しかし、となるとそっちから探るのは無理か」
そうなるだろう。事実僕も、親戚と呼ばれる人たちとは誰一人会ったこともないし、どこに住んでいるかも分からない。
「一応『領場』の名前も、もう一度調べはするが……
「旧姓?いや……何だったかな。どこかで聞いた覚えはあるんですけど……」
「今は分からないって事か。まあどうしようも無いな」
言いながら、思案するように津久茂先輩は顎に手を当てる。
「旧姓じゃ、事故の記事を調べても出て来やしないだろうし……その辺りは気長に探っていくしか無いか」
「……なんかすみません。面倒かけて」
「いや、良いさ。それにどうせ、お前の得意とする属性が分かっても、一朝一夕で扱えるようになるものじゃ無い。今はともかく、敵に会ったら逃げる手段を身につける事だ」
そう言いつつ、津久茂先輩は休憩は終わりとばかりに、座っていたソファー(オカルト部にある謎の物品の一つ)から腰を上げる。
「さっきまでの浮遊で、精魂に体を支えてもらう感覚は掴めただろう。いざ逃げようという時は、その感覚を思い出せ。それも、爆発的にな」
「爆発的に、ですか?」
「そうだ。後のことなど考えず最大出力で体を吹っ飛ばせ。もう、大気圏外に出る勢いで」
「いや、でもそんなことしたら、逃げられても結局死ぬんじゃ……」
確かに瞬間火力重視で、逃げることだけを考えて体を吹っ飛ばせば、そうそう追いつかれはしないだろうが……そんな勢いでさらに飛び上がれば普通に考えて、落ちて死ぬ。
「そうならないように、精魂を動かし続けるんだよ。レースゲームのダッシュボタンみたいにプッシュし続けろ。そうすりゃ落ちない。方向だけこの学校に向かうようにしてな」
「な、なるほど……」
着地はどうするんだとも思ったが、この学校に向かえと言っている以上、そこは先輩たちが何とかしてくれるらしい。
「本当言えば、出力やベクトルを自分でコントロールして、ビルの屋上を跳んで走っていく感じが理想なんだが……絵的にも」
「スパイダーマンみたいに?」
「スパイダーマンみたいに。まあそこは要練習だな」
そもそもお前は体のバランスが人と違うから、まずはその辺の調整からだな——と、津久茂先輩は頭をかきながら立ち上がる。
練習再開らしい。ただしここからは実践編だ。
*
万が一外でジューダスの連中と出会ってしまった時のためのノウハウだった。
出来れば一度も使わずに終わりたかったノウハウ。だがそんな事を考えている余裕は、もはや無い。今僕の目の前には、バシリスクがいるのだ。
「————っ」
この敵の前で視界を閉じるのは自殺行為だと、流石に僕にも分かった。
だが今、瞼を下ろさない訳にはいかない。まだ僕は、瞬きほどの一瞬で
伝達、開始——今バシリスクが動かない事を切に祈りながら、心の中でそう呟く。
僕の中にある全ての意思を魂へと向け、魂から精魂の世界へと向ける。
意思を介した魂への伝達。魂を介した精魂への伝達。精魂を介したこの世界への伝達。霊媒術とは、あらゆる意思の伝達行為によって成される世界の改変だと教わった。
精魂への、すなわち世界への敬意を以って、己と世界を結びつける。
光を閉じ、意識を研ぎ澄ますことでそれを為す。
「————あぁ」
瞼を上げて、自然に声が漏れる。
反復練習の過程で何度も見たはずの景色。まして今は危機的と言って障り無い状況だというのに——精魂によって色づいた世界は、むしろこんな状況だからこそなのか、美しくて堪らない。
目を閉じている間、バシリスクは動いていなかった。
それは間違いなく幸運な事ではあったものの、その実、馬鹿正直に続けた練習の成果でもあったらしい。精魂の世界との接続までにかかった時間は、おそらく今、ほんの一、二秒だったのだ。
——そして、改変は開始する。
魂を通じて僕の意思を認識した精魂たちは、彼らの意志によって、世界に新しいモノを生み出す。
片膝をつく僕の目の前、本来は何もないそこに莫大なエネルギーが発生する。それは吹き荒れる暴風だった。自然災害でもそうそう生まれないほどの、人一人を上空に吹っ飛ばすほどの「風」——、
「————
自分の意識から切り離れた場所への意思の伝達、それはつまるところ他者に
思ったことが口に出てしまうのは未熟者の証だが、結果として僕は、この場では未熟者以上の成果を出した。
暴風はそのエネルギーのまま、定められたベクトルを守り、僕の体を持ち上げる。風圧は顔面の皮膚を押しながら、瞬く間に僕を上空へと吹っ飛ばしていく。
凄まじいほどの重力の圧を受けて、僕は声にならない声を吐いた。
ジェットコースターに乗ってもこれほどのGはかからないだろう。無事でいられたのは、跳んだ距離がたかだか五十メートルくらいだったからなのかも知れない。
しかし同時に、僕が"爆発的な感覚"というやつをきちんと思い出せていたのも確かだ——瞼を上げた時、もう地面は遥か下にあったのだから。
「————」
地上からでは実感できない空の雄大さというものを目の当たりにして、ある種の感動に飲み込まれる感覚があった。
しかしそれは、上昇軌道の頂点を過ぎて落下を始めたのと同時のことだった。先ほどまでとは違う、「ふわり」とした内臓を掬い上げられるような感じがして、僕の意識は現実に呼び戻される。
「
先輩たちに教わったことを頭の中で反復しながら、僕は後ろ手を伸ばす。世界はまだ、精魂で色づいたままたま。
とにかくまずは『落ちないように』、そして方向は学校の方へ、連続して勢いを絶やさないように——だ。
そうして次なる「意思」に応え、背後に再び強力なエネルギーが生まれる。
一瞬の覚悟を決める間も無く、その暴力的な背中を押されて、僕はほんの少しだけ下方向に——つまるところ、最も手近なビルの屋上に向けて、ベクトルを変更する。
——が、そこで僕は己の未熟を再確認する。
「……やばいっ、勢いが……!」
そもそもの話、「ほんの少し」と言っても重力が招く方向へ移動しているのに変わりは無いのだ。そこに、体重六十キロを上空五十メートルにまで持ち上げた瞬間火力を加えれば、どうなるかなんて目に見えている。
いや、僕は少なくとも馬鹿だったってことだが……これはまずい。
実際の高低差は数メートルでも、この勢いで硬いコンクリートの上に激突すれば、命の保証さえありはしない。
例え——それこそ一週間前もこんなシチュエーションだった——大した怪我をしなかったとしても、足を止めればバシリスクに追いつかれてゲームオーバーだ。
「…………っ!」
いよいよ眼前にビルの屋上が迫って、僕は思わず目を閉じる。
こうなると、自分の素人加減が嫌になる。これが津久茂先輩だったら(そもそも彼はこんな初歩的な窮地に陥ったりはしないだろうが)、どうにか上手く着地しようと目を見開いたまま下を凝視するだろうに——と。
「——何をやってるの、まったく」
ふと、落下による継続的な衝撃が消える。
驚いて目を開けると、自分以外の人間の手で、僕の体が今支えられていることに気付く。
「イ……」
「さっさと自分の足で立ちなさい!もう杖が無くても歩けるんでしょう?」
名前を呼ぼうとしたのを遮って、イミナさんは言った。
周りを見ると僕は彼女に支えられたままで、ビルの屋上に着地する数センチ手前に留まっていた。
「危ねえ……!」
冷や汗が一滴頬を滴るのを感じるのと、イミナさんが僕の体を手放したのは同時だった。一瞬バランスを崩しそうになるものの、なんとか着地する。
「今やった十分の一の出力で良い。早く逃げなさい!」
「……っ!」
思わず気が抜けて、溜息の一つも漏らしそうになったのを、イミナさんの飛ばした檄が制止する。
そうだ、今は逃げている最中——どころか距離に直せば、バシリスクからまだ百メートルも離れていないはずだ。
言われた通りに僕は、"先ほどまでの十分の一の出力"を心がけて、再び精魂に意思を伝達する。
今度は負担で体が捻じ曲がりそうな思いをすることは無かった。ちょうど"鳥になったよう"というレベルの浮遊感に包まれて、次の一歩を踏み込む。
やるべきことはシンプルだ。「建物の屋上を飛び移りながら学校方面へ逃げる」——身を捻りながらの危ういバランスではあるものの、僕は宙返りをする要領で隣の建物へ飛び移る。
「く——っ!」
着地した左足がじんと痛み、思わず声が漏れる。まだ出力の調整が甘いらしい。
顔をしかめながらも、僕はさらに足に力を入れる。もう方向は定まったんだ、あとはただひたすらに駆ければ良い。
学校まで、この調子の速度なら五分あれば着くはずだ。
おそらく遠目から見れば、体の軸が揺れるたびに必死な表情でそれを修正する情けない姿だろう。
それでもビルの上を常識では考えられない速度で疾駆する今、僕はまるで一人前の異能者のようだ。そのことに、まるっきり不謹慎なのは理解しながらも、ある種自然とも言える高揚感を覚える。
そう、僕は今、空を飛んでいる——と、その時だった。
不意に背後で、ガタン、という音がして、僕は再び冷静な現実に呼び戻される。
「…………え?」
振り返って、状況にそぐわないほどに素っ頓狂な声を出す。
この順調な逃走の勢いを殺してまで立ち止まって、目に入ったのは——僕がたった今飛び越えてきたはずの雑居ビル、その屋上に倒れ伏したイミナさんの姿だった。
「い、イミナさん……⁉︎」
上ずった声でそう問いかける。
彼女の様子は明らかに尋常では無かった。ただ転んだだけ、という甘い状況には見えない。
片肘をついて起き上がろうとするも、すぐにへたり込んでしまう。顔は明らかに安穏では無い紅潮のしかたをしているし、肩を上下させるのを見れば、苦しげな様子はここからでも分かった。
彼女は"一つ前"のビルの、屋上を囲む鉄柵にぶつかって、そのまま倒れたらしかった。さっきの「ガコン」という音の正体はそれだ。
「だ、大丈夫——」
心配を口にしながら駆け寄ろうとして、
「……ボロが、出たわね……」
視線もこちらに寄越さないまま、イミナさんは自嘲するように吐き捨てた。
数メートル以上の距離を空けたままで、僕は訊き返す。
「ボロ、って……?」
「……悪霊は……
そう語る彼女の額には目で見てわかるほどに汗が浮かんでいる。
そもそもイミナさんの、こんな憔悴しきった様子など今まで見たことがない。彼女という「存在」自体が限界なのだと、素人知識の僕にも分かるほどだ。
——と、その時。
突然、伏せこむ彼女の四方に、均等に間隔をあけて一本ずつのナイフが刺し立てられる。
それらは皆、紫色に淡く光を放っていた。よくよく見れば、一週間前まだ二人組だったジューダスから逃げる途中、イミナさんの手に突き立てられたものと同じだと分かる。
そして次の瞬間、四本のナイフが閃くような光を放つ。何事かと僕が目を細めたのと同時に、その光は稲妻のように形を変え、イミナさんに向けて襲いかかった。
「かはッ——!」
掠れるような声が漏れ、同時に彼女の肉体が硬直する。
その身を取り囲んだ稲妻は消えることなく、継続的にイミナさんを責め立てているようだった。
幽体であるはずの彼女が、まるで見た目通りに痺れて動けない——実際にはそんな可愛い表現で足るレベルでは無いが——ようだ。
「——悪霊は本来、一切の術を使えない」
その声が耳に届いたのは、バシリスクがイミナさんのすぐ近くに着地したのと同時だった。
「この女は世界に嫌われているのさ——貴様ら霊媒師が精魂と呼ぶものに。毛ほどの術を使うだけで、人間の数百倍は消耗するんだよ」
「……どういう、事だよ……⁉︎」
「分からないか?こいつはさっき、電柱をへし折っただろう」
言われて、脳裏にその時の映像が蘇る。
世界が停止したかのようなこの状況は何なんだと、バシリスクに尋ねた時だ——その会話の流れは、今思えば「神霊」であるイミナさんに対する長髪だったのだろう。
それに耐えかねた彼女は、手近にあった電柱をへし折り、投げ槍として使ったのだ。あれは何らかの術が作用していなければあり得ない現象だった。
あれで——「悪霊」でもあるイミナさんは、力を使い果たしてしまったって事なのか。
「動くな」
僕がそう理解したのとほぼ同時に、バシリスクは右手に握ったナイフの切っ先をこちらに向けて、短くそう脅す。
見るとそのナイフは、イミナさんを拘束している四本と同じものだった。
「対霊体用に法儀洗礼を施した霊具だ。これに拘束されて無事でいられる霊などいない」
「…………!」
こいつは——こいつは僕の胸中の葛藤を、丸裸に透かして見てでもいるのか。
「去れ、領場蓮。俺の目的はその神霊を封じ、滅すること。ここで背を向ければ追うことはしないと約束しよう」
若干に、その声に和やかなものを含ませながら、バシリスクはそう促した。
「く……」
確かなのは、もう、こいつの言葉に対して「信用できる」「できない」という次元の話ではないことだ。
今までの行動からしても、バシリスクがハドソンとは違うということに疑いの余地はない。こいつは、こう言ったからには、本当に僕を見逃すのだろう。いや——仮にこの場にとどまったとしても、結局のところ僕には何もできないのだから、結果は変わらない。
バシリスクはとっくに問題じゃない。
「————」
この期に及んで、まだ僕は迷っている。
確たる答えを出さずにいる。今まで築き上げてきた縁を、蔑ろにする決断を下さずにいる。
もはや、この人にこだわる理由は無いはずなんだ。
僕は何も、イミナさんに恋しているわけでは無い。情がないと言えばそれはまるっきり嘘だが、しかし実際のところ、彼女はただ十年一緒にいた、それだけの存在だ。
彼女は十年前——目の前に現れた死にかけのガキに、そのまま乗っかってきただけの人だろう。
どころか——彼女は僕を害していた。
知らずのうちに寿命を削り食らい、あまつさえ、今度は僕をこんな窮地に巻き込んでいる。その彼女を切り捨てるという判断は、傍目から見ても、……そしてやはり、自分で考えてみても、容易なもののはずだ。
ならば、何が僕を迷わせる?
僕のこの脳味噌に響く、「切るな」「捨てるな」という声は何なんだ?
この期に及んで——こんな状況に追い込まれてまで、僕は何を思案する?
「……舐め、るな……」
ふいに、頬を風が撫でて行く。
その感触に思考を止められて、現実に視線を戻す。
そこには自然の法理から外れた風の動きがすでにあった。風はある一点を中心に渦巻き、勢力を拡大していく。まるで小さな竜巻のように。
「……私を、舐めるな——」
風の中心にいるのは、その顔に神霊たる威厳を宿したイミナさんだった。
体を四方からの稲妻で縛られながら、彼女の意思はそこに暴風域を創り出していく。その勢いは僕の体を全面に押して、目も開けていられないほどだった。
人一人の体を押し出すほどの力を持った風だ。それに、コンクリートに突き刺さったくらいのちっぽけなナイフは耐えられない。たちまち、彼女の身を拘束していた四本は吹き荒れる風に押され、その効力が及ばないどこかに吹き飛ばされる。
そして力の
「何——⁉︎」
バシリスクからその困惑がありありと伝わる声が漏れる。この状況から彼女が自力で脱出する事は、まったくの想定外だったという事だろう。
だが、状況は何も変わっていないというのが現実だった。
イミナさんが解放された——それは良い。
だがそれでどうなる。このまま僕が彼女の手を引いて逃げれば良いのか?
僕なんかがそんな重石を抱えて逃げたところで、バシリスクはすぐに追いついてくるはずだ。
それに、仮に逃げ切れたとしても、その後どうなる?
僕はもう、この十年自分がどんなリスクを背負ってきたのか知っている。そしてイミナさんは、
どうあっても、もはや今まで通りの惰性の付き合いは続かないのだ。
「——いきなさい」
唐突にそんな声が聞こえて、僕は思わず顔を上げる。
目の前には手のひらがあった。白く細い五本の指は揃って、斜めの角度でこちらに向けられている。
「何を——、っ、が!」
訊き返した僕の言葉を押しとどめたのは、目も開けていられないほどの衝撃波だった。
イミナさんの開かれた手から発生したそれは、明らかに、最初に僕が生み出した風圧すらも超えている。
抵抗もままならず、体を縦に回転させながら僕は、ビルの外に吹っ飛ばされる。
瞬く間にイミナさんやバシリスクの姿は視界から消え、代わりにそこに映ったのは、眼下数十メートルほどにある町並みだった。
このままじゃ落ちる。
そう危機感を懐いた矢先、僕の後頭部を巨大な衝撃が襲う。飛ばされた勢いのまま、隣接した建物の広告看板に激突したのだ。
「ぐっ!」
視界が揺らぐのを感じながら、僕は呻くような悲鳴をあげた。
意識を失わずに済んだのが、せめてもの幸運だった。恐るべき速度で自由落下を始めた今、辛うじてその危機を認識し、取るべき行動を取れる。
「クソ……!」
今懐いている感情の全てが綯い交ぜになったような毒を吐きながら、直下のアスファルトに向けて、僕は手を伸ばす。
こうして精魂に意思を伝えるのは何度目だ。しかも同じような内容ばかりじゃないか——、
「はあッ!」
僕の手元から爆発的なエネルギーが発生する。それは重力のままに激突する寸前だったアスファルトにぶち当たり、反対に、落ちるばかりだった僕の体を空中に停滞させた。
だがそれも束の間、放出したエネルギーは瞬時に散逸する。支えを失った僕は、再びこの星の法則に従い、そのままアスファルトに激突した。
とは言えその衝撃は、たかが二メートルの高さから落ちただけのものにまで殺されている。今回は腕を擦りむきすらしなかった。
「っ、ハァ……」
手傷を負うことこそしなかったが、各種苦痛は断続的に体を苛んでいた。
体を上空に吹っ飛ばした時の衝撃。ビルの上を疾走した反動の痛み。広告看板に激突した際の意識すら揺らいだ激痛。
重なったそれらは、僕の体を立ち上がることも出来ないほどに疲弊させている。助かったのは事実だが、この場から一歩も動けそうに無い。
——だが、この身に降りかかる受難は未だ終わってはいなかった。
遠くで大きなものが崩れるような音がした。そこに耳を傾けるまでも無く、その音は秒刻みに莫大なほど増大し、近付いてくる。
そして同時に僕は、自分の周囲が他と比べて暗くなっていることに気づいた。まるでここだけが、何かの影になっているように暗いのだ。
その不気味な黒色は、音の大きさと比例して段々と濃くなっていく。
「…………っ!」
巨大な薄鉄筋が落ちてくる。それは、つい先ほど僕が激突した広告看板だった。
もともと設置されていた建物の壁に擦りつきながら、ガラガラと音を立てて迫ってくる看板は、
「…………ああ、最悪だ」
あんな重量のものを弾き飛ばすほどの体力は残っていない。
もう無理だ——とそんなことを短く思う間に、僕の視界は暗転した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます