第11話:堕ちた神


 その後宮本と別れた僕は、足早に銭湯へ向かっていた。

 学校から西方向に進むと、ちょっとした商店街のような場所がある。津久茂先輩の言っていた銭湯は、この商店街の奥にあるという話だった。


「——何をそんなに急いでるの?」


 と、ふわり、僕の隣からの声。

 気持ち久しぶりに、イミナさんが現れたのだ。


「この後に用事とか、別に無かったじゃない」


「いや、さっさと帰らないと下校時間過ぎるじゃないですか」


 すっかり失念していたものの、僕はさっさと風呂入ってさっぱりして戻らなきゃいけないのだ。そりゃあ、例え学校が閉まっていても、小山先輩の力を借りれば事足りるだろうが……しかし彼女の手を煩わせずに済むのならば、それが一番良いにきまっている。


「こういう時、あなたは結構義理堅いっていう感じだけど……そんなに急ぐことも無いんじゃないの?また転んで怪我するわよ。向こうだってそれを考えて、『急がなくて良い』って言っていたんだろうし」


「いや、そりゃそうかもしれないですけど……だからってそれに甘えてダラダラ歩いてくのも、人としてどうかなって」


「……ふうん」


 ふと、僕の顔をまじまじと覗き込むイミナさん。

 彼女相手に今更どぎまぎしたりはしないが、唐突の事に僕は眉を寄せた。


「……何ですか?」


「いえ?ただ、変わったわね、って思って」


「変わった……?」


 変わった、とは。いきなり何を言いだすんだ、彼女は?


「覚えてるか分からないけど、レンくん、前はもっと人に冷たい感じだったわよ。それこそ私が他人に向けるような目を、外に向けていた」


「そう……でしたっけ?」


「ああいうのを『ドライ』って言うのかしら。変わったのって、高校に入ってからね。と言うか……あの陰気な連中、、、、、、、と付き合うようになってから?」


 あの陰気な連中——とは、言わずもがな、オカルト部の先輩たちの事だろう。どうもイミナさんが言うと棘を感じる表現に思えるが、実際のところ、外から見たあの人たちは「陰気な」「変人」であるはずだ。


 ……そう言われてみれば——今でこそ僕は、オカルト部で仲良くワイワイやっているが、そもそもあんな風な「友達みたいな関係性」って、あそこが初めてじゃないか?

 中学じゃ部活にすら所属していなかったし、同級生にも他学年にも……この際だから白状するが、仲の良い人間や友達と呼べる存在は皆無だった。


「出会いは人を変えるって言うけど、つまりそう言う事なのかしらね」


「出会い……」


 そう、かもしれない。

 言われてみれば、あの奇妙な人たちと関わって、一切全く人格や性格に影響を受けない者など、そう居ないだろう。


 ……そう言えば僕は、どうして四月のあの時、オカルト部に入ったんだっけ。イミナさんの言う「ドライ」な僕が、どうしてその時は部活に入ろうなんて——、


『————痛い、熱い——体が燃える——』


「……っ」


 ……ああ。

 駄目だ。この回想はここまでだ。


 過去むかしの事を思い起こそうとすると、必ず僕の頭の中は炎に包まれる。

 なぎ倒された木。ガソリンに引火して燃え上がった斜面。視覚は左半分が機能していなくて、残った右側には、累々と——実際には二人分なのだが——死体が横たわっている。

 その中で生々しく、辛うじて息をしている、僕よりも年下の少女が悲鳴を上げる——熱い、痛いと。


「……レンくん?どうしたの?」


 額に手を当てる僕を、イミナさんが案ずるように言いながら覗き込む。


「いや……すみません、イミナさん、何か雑談してください」


「……?別に良いけど……そうね、さっきあの女の子が言ってた映画あるじゃない」


「宮本ですか?何だっけ、あいつが言ってたの」


「『死霊の盆踊り』と『プラン9フロムアウタースペース』」


「ああ」


 そんな長いタイトル覚えてられるか。


「あれね、見なくて良いわ。どっちもクソ映画だから」


 イミナさんは吐き捨てるように言った。そこにはもう、何と言うか、「うんざり」と言う感情がありありと見てとれた。


「……いや、いくらなんでも『クソ』は言い過ぎなんじゃ。好き嫌いはあるだろうけど……」


「クソ映画なのよ。その二つ、どっちも同じ監督なんだけど、この監督が『映画史上最悪の監督』って呼ばれている男でね……普通に映画鑑賞する気分で観るのは絶対に駄目」


 そこまで言うか……いや、じゃあ宮本は何で、楽しそうにその二つが好きだと言ってたんだ?


「カルト的なファンは多いのよ。多分あの子もそのクチだと思う……と言うか、あの二つを好きだと言う人間にそれ以外は無いわ。マトモな感覚で見たら、あれらはそもそも、映画としての体を成していないから」


「カルト的」


「尺の大半を女の裸踊りが占めてる映画とか想像できる?」


「いや……知らないですけど」


 しかし、あの宮本にそんな趣味があったのか……想像がつかない。

 ただまあ、彼女も人間なんだし、他人から見たらよく分からないような趣味の一つや二つあるのは、むしろ合点が行く感じでもあった。今までの僕の印象は、『優等生』という肩書きを一人歩きさせた感じで、人間味というものはむしろ無かったから。


 というか……それよりも、何でイミナさんがそんな事を知ってるんだ。

 冷静に考えたら、ずっと僕に取り憑いている幽霊が僕の知らない事を知ってるのは、普通に矛盾して無いか?


 ——と、まあともかく。


 中身のない雑談のおかげで、僕の頭はとりあえずのところ、悲惨なフラッシュバックから解放された。

 で——そうなると、空っぽになった頭の中に、別の何かを入れなければならなくなって。まあ、その状態に違和感を感じるかどうかは人によるのだろうが、僕は何かを考えていないと不安になる類の人間だった。


 ただそうなると、今現在、何を考えようとしても浮かんでくる事があった——何かを考えよう、、、、、、、とするの否応無しに浮かんできてしまう事柄が、僕にはある。


 "鎖"のこと——だ。


「…………ああ」


 自然、憂鬱な気分になり、溜息が漏れる。


 三日前に聞かされた事。

 悪霊に取り憑かれている事によって、僕の寿命がすり減っている——という問題。


 今の時点で数年。このままそれが積み重なれば、一生分で何年分の時間を失うことになるのか分かったものではない。

 たかが数年と考えてはいけないと、忠告も受けた。将来、それこそ死の床でなら、必ずその「数年」を後悔すると。


 八百萬先輩から聞かされ——そして津久茂先輩に鎖を渡された。

 あの時渡された紅い鎖は、未だ僕の中に在る。

 今は見ることも出来ないが、その存在は確かに感じられる。


 しかし僕は、鎖を貰ったことも、そもそも寿命云々の問題そのものを、イミナさんに一言も話していない。と言うか話せずにいる。


 ……何故だろう?


 今までの思考を思い返せば、もうほとんど、僕は"どうするのが正しいのか"分かっているはずだ。隣人を切り捨て、自らの生命を元のままに確保する——人として、それが正しいのだと。

 八百萬先輩もそういう意味で僕にあの話をしたのだろうし……津久茂先輩も、あの鎖を僕が壊すために、、、、、、、渡したはずだ。

 

 にも関わらず僕は何故、この期に及んで迷っている?


「…………」


 ……そんな事は考えるまでもなく分かっていた。

 僕はただ、今が壊れるのが怖いのだ。十年連れ添った彼女を追い出して、この状況を自分の手で壊す勇気が、あまりにも無い。


「……あら、残念」


「……ん?どうしました?」


 と、横から聞こえた声に思考を中断され、僕は顔を上げた。


「だから、残念って。……前見ないで歩いてたの?とっくに目的地に着いてるのよ」


 言いながら、イミナさんは顎で斜め前方を示す。

 僕がそちらに目をやると、彼女の言う通り、ちょうど目的地の銭湯が見えた……のだが。


「……あれ、閉まってら」


 目的地の目の前にまで来て、僕はそう呟かざるを得なかった。

 確かにここは銭湯だが、曇りガラスの向こうには人の気配もしないし、そもそも明かりが点いていない。おまけに入り口の引き戸には、"火曜定休日"との貼り紙がしてあった。


「完全に無駄足ね。ほかのところを探す?」


「いや……残念ですけど、帰りますよ。ほかに銭湯があるかも分からないし、あまり時間使えないし」


 これはもう、仕方ないと諦めるしか無い。風呂に入りたいと言う気分は大マジだったので、本当に残念だが……。


 と、 僕が落胆の息を漏らしながら踵を返した時だった。額にぽつんと、雫の落ちる感触があった。

 空を見上げてみると、そこはもう完全に曇天という有様で、そうしているうちに瞼に二発目が当たる。


「おいおい……」


 よりによってこのタイミングで、追い討ちをかけるように降ってきやがった。

 今日は厄日か……いやそれを言うなら、一週間くらい前から僕はとんでもないトラブルに巻き込まれているわけで、じゃあ何だ?厄週?


 と、そんな下らない事を考えているうちに、雨脚は強まっていく。このまま行くとたちまちにびしょ濡れになりそうな勢いだった。


「あーあ……本当に幸先悪いな。さっさと帰りましょう、イミナさん……イミナさん?」


 ふと、いつもは饒舌な彼女からの返事が無かった。それだけの事だったが、僕は何か違和感を感じて、出そうとしていた足を止める。

 振り向くとイミナさんは、その場から動かずに、一見普段通りに浮遊していた——しかし、その表情は普段通りとは到底言えないものだった。


「……?」


 その表情を言い表す分かりやすい単語が、すぐに浮かばない。

 眉根を寄せ、目を見開いた顔——焦りや怖れと言った感情が複雑に入り乱れた、そんな表情だった。眼光は鋭く、その先のものを見据えていて、警戒の色がありありと見て取れる。


 イミナさんのこんな顔は、初めて見る。ハドソンら二人組に襲われた時も、ここまで焦燥を表面に出してはいなかった。


「イミナさん……一体何を見て」


 眉をひそめて尋ねようとして——僕も異変に気付いたのは、その時だった。


 ——視線の先。右手にスマートフォンを持ち、歩いている男性。

 否、彼は歩いていなかった、、、、、、、、。左脚が前に出て、右脚は後ろ。姿勢は完全に歩行のそれでありながら、しかし彼は、一歩たりとも移動していない。


 ピタリと片足を上げたまま、静止しているのだ。冷静に見てみればその体の形は、どんなに体幹の強い人間でもそう維持出来るようなものではない。


「……何だ、これ……?」


 掠れた声で言いながら、視線を右へ左へと動かす。

 その男だけでは無かった。僕の視界に入る全ての人間が、老若男女問わずに静止している。


 気付けば、平日夕方の繁華街の最中に居ながら、周りには一切の物音が消えている。聞こえるのは——しとしとと降る、雨の音だけ。

 これは、そう、まるで僕たち以外の世界で、時が止まったような——。


「……鏡——?」


 ぽつりと、イミナさんが呟く。

 しかしその意味を問いただすことは叶わなかった。続いて響いた別の声に、僕の意識は完全に引っ張られてしまったからだ。


「——久しぶりだな」


 と。まるで旧知の仲と街中でふと再開したような口調で、そいつは声をかけてきた。

 嘘だ、という思いが先走る。だって津久茂先輩は、今なら大丈夫だと言っていたじゃないか。


「いや——きちんと話すのはこれが初めてだったか」


 だが二度目の声で、もう現実から目を逸らすことは出来なくなる。

 聞き覚えのある声だ。同時に、どれだけ「ハドソンよりはマシ」などと言われても、どれだけ「凶暴では無い」とお墨付きをもらっても、二度と聞きたく無い声だったのも、間違いない。


 恐る恐ると言った風に振り向いて——瞬間、僕はそいつと目が合った。


 十字架を首から下げた、金髪碧眼の青年。

 蜥蜴部隊——とか言う、ジューダスの精鋭部隊の隊長を務めている男だと聞いたばかりだった。そう、つまり結局のところ、こいつの危険度と言う奴は計り知れないのだと……。


「……バシリスク……!」


 バシリスク=オールウェンス。

 二人目の暗殺者が、そこに立っていた。


「お前……何でっ……!」


「何で、とはまた妙な事を訊く。俺がお前を付け狙うことが不思議か?」


 流暢な日本語で、バシリスクは問う。


 一週間前に襲われた時、あれは夜の闇の中だった。しかも僕の目は、荒々しく暴れ回るハドソンに注目せざるを得なかったので、実のところバシリスクの容姿は記憶の中でも未だに朧げだった。


 だから僕は今初めて、こいつの顔をはっきりと見た。

 ……思っていたよりも、ずっと若い。青年と言ったが、下手をすれば僕と同い年くらいにすら見える。


「質問に答えろ領場蓮。どうやらお前は、今俺に襲われるとは考えていなかったらしいが、何故そんな呑気な考え方が出来る?」


「っ、お前は……お前はきっと、きちんと命令が下るまでは襲って来ないだろうと、津久茂先輩が言われてたんだよ!


「……命令が下るまで、か」


 そう呟くと、バシリスクはしばし考え込むように目を閉じた。


 ……冷や汗が滲むのが、自分で嫌という程分かった。

 やはりこいつはハドソンとは違う。物静かに淡々と事を運ぶタイプの人間だ。しかし、だからこそ僕には、酷く目の前の男が恐ろしく思えた。


「……確かに俺は本国の命令を待つつもりでいた。そしてお前への襲撃は、一週間は先送りになっていただろう。本国は今、それどころじゃない、、、、、、、、、からな。そう言う意味では、津久茂総司の見解は的を射ている」


「…………!」


 それどころじゃない、って言うのは……ハドソンや小山先輩の言っていた、例の"賢人会議"とか言うやつとの小競り合いか。


「だったら、何で……」


「ここへは——そうだな、話し合いをしに来たとでも言っておこう」


「は、話し合い?」


 思わず僕は、頓狂な声を返してしまう。

 耳に届いたのが、今まで争ってきたこいつら「ジューダス」の口から出た言葉とは思えないものだったからだ。


「勘違いをしているようだが、俺はお前を殺そうとは思っていない。恨みもつらみも無いからな」


 言いながらバシリスクは、瞳だけを動かし、周囲を見回すような仕草を見せた。僕らの周り——つまりは、他の人間たちの静止した世界。


これ、、も、スムーズに事を運ぶための仕掛けだ」


「……これ、一体何なんだよ」


 目の前にいるのは敵で、今は油断ならない状況だ。それは分かっていたが、バシリスクの言葉運びはあまりに穏やかで、多少の会話は許されるような雰囲気になっていた。


ただの術式、、、、、だ。少し大袈裟なだけのな」


「ただの、術式……?」


 そう言われても、にわかには信じがたい言葉だった。

 何しろ、人間という存在の動きだけが完全に止まっているのだ。少なくとも僕の目に入る範囲では全て。


 これだけ広範囲で、かつ対象の多い術を「ただの術式」で済ませられても、ハイそうですかと信じられるはずが無い。

 目の前で起きていることはむしろ、小山先輩の能力のように、概念そのものに干渉する類のものじゃないのか?


 かと言っても——いくら疑ってたところで、僕にはバシリスクの言葉を否定するだけの情報が無いのも事実だった。


 この一週間の練習で、多少の霊媒術は使えるようになったものの、知識方面ではほぼ素人と言っていい。こいつの言っていることが本当かどうかの判断なんて、いくら考えても分からないだろう。


 そもそも、すでに起こってしまったこの状況を作り出した術式の難易度など、知ったところで益はない。

 なら細かいことは考えずに、とりあえずはこいつと話を進めるべきか?幸いバシリスクは、どうやらすぐにでも僕を襲おうという訳では無いらしいし——と。


「——ふざけるな、、、、、


 僕がそういう風に、かなり大雑把に思考を決定したタイミングで、そんな声が響いた。


 その声が脳味噌の奥深くに浸透するような感覚があった。

 今までに感じたこともないほどの、「ぞくり」という悪寒。僕がそれを聞いて感じたものは、恐怖や焦燥と言った単一に説明できるものではなく——それら全てがない交ぜになったような、戦慄、、だ。


「……イミナ、さん?」


 僕は声の主の名前を呼んだ。

 そうしないと僕は、そこにいるのが見慣れた幽霊である事を認識出来そうに無かったからだ。


 "ふざけるな"なんて、彼女の口からそんな言葉が出たのを、僕は聞いたことが無い。この十年で一度たりともだ——何よりもこんな、鬼の形相、、、、をしたイミナさんを見たことが無かった。


「我らの宝を持ち出し、挙句にこのような些事に煩わせただけでも許し難いが——よもや、言うに事を欠いてただの術式、、、、、だと?」


 彼女はさらに、荘厳めいた言葉を重ねる。その様はまるで、人よりはるか天上の存在が、人に神託を下すようですらあった。


「——貴様、頭蓋の欠片も残ると思うな」


「フン……随分と態度が変わるもんだな。それが本性か」


 彼女の口から今までに聞いたことも無い、高圧的で人外的な喋り方だった。だがバシリスクはむしろ、それで当然とばかりに応じている。

 その事実は、ますます僕を混乱させた。


「——堕落した神霊が何を言ったところで、もはや神具は人間に使い古される運命だ。もっともこんな埃を被った道具に愛着を示すのも、アンタくらいだろうがな」


「————」


 イミナさんは言葉を返さなかった。

 ただ僕には、その沈黙で彼女が臨界点、、、を超えたのだと分かった。


 唐突に、べきべき、という音がして振り向くと、そこにあった電柱がへし折れていく、、、、、、、ところだった。

 重機はおろか、誰の手も加えられていないと言うのに、あれほど硬く重いものが形を変え、破壊されていく。そこに何らかの強力な術が発動しているのは明らかだった。


 明らか、と言えば。

 これをやっているのはイミナさんだと言うことも、明らかだったろう——彼女は怒りの形相のまま、もはや殺意という域の感情をバシリスクに向けているのだから。


「————!」


 一秒という時間も要さずに根元から破壊され、巨大な槍と化した電柱はそのまま切っ尖、、、をバシリスクの方へと向け、そして次の瞬間、爆発的な力で、敵へと発射された。

 強力無比かつ単純明快な"攻撃"は、瞬く間に轟音と共に地面を抉り、粉塵を上げた。


 目測にして、速度は自動車のそれなどゆうに超えていた。あんなものを食らって生きている人間などいるはずが無い——しかし。


「悪霊に貶められてなおその妖力は流石としか言えないが——」


 巻き上がった塵の中から声がする。

 その声は掠れも震えもしてはいない。聞いただけで五体無事を確認できるほどに力強かった。


「——舐めてもらっては困る」


 粉塵が晴れ、バシリスクの姿が見えて、僕は絶句した。

 "発射"された電柱は確かにバシリスク目掛けて飛び、そして地面を抉った。だが奴自身は無傷だ。と言うのも、電柱はバシリスクのもとに到達する直前で、踏み止められて、、、、、、、いたのだ。


 風圧で目がくらむ中、影だけではあるが、僕は辛うじてその動きを目視した。

 バシリスクは衝突しようというその瞬間に左脚を振り下ろし、踏みつけ、電柱の勢いを封殺した。事実電柱は、踏みつけられた先端部分が大きく歪み、まるでてこ、、のような形になっている。


「貴様……!」


 憎々しげにイミナさんが言ったと同時に、電柱が遠心力でくるりと回り、大きな音を立てながらちょうどバシリスクの左側に倒れた。


「もう一度言う。お前と話をしに来た」


 バシリスクは、もはや用はないとばかりにイミナさんの方から視線を外し、僕にそう言った。


「……話?」


「交渉、とも言えるが——ハドソンを見た以上分かっているだろうが、俺にはお前の意思などそっちのけでその悪霊を退治することも出来る」


 ……そんな事は分かっている。

 ジューダスという組織の性質なんて、この間の一件で十分すぎるほど理解出来た。こいつらは神の使いなんてものを名乗りながら、実際には悪魔の所業でも何だってやる。


「だが、それは俺の本意では無い」


「……なに?」


「お前も納得出来る形が望ましい、と言っているんだ」


 ……こいつ、本当に何を言ってるんだ?

 納得出来る形——と言ったところで、結局のところ、こいつの目的はイミナさんを倒すことなんだろう。たとえ"穏健派"でも、僕と言う人畜無害な「一般人」はともかくであっても——悪霊は退治するんだろう?


「お前がイミナさんを退治しようとするんなら……話すことなんて無い。納得なんて」


 恐ろしいほどの力を見せつけられたばかりだと言うのに、敵愾心を隠そうともせずに応じてしまった。


 だがバシリスクはそれを聞いて、気分を害した様子は見せなかった。どころか、軽く微笑みすら浮かべている。


十年前、、、


「!」


 バシリスクのその言葉に、僕の意識は過敏に反応してしまう。


「この三日間、お前のことを調べていた——十年前に事故に遭っているな。家族ともども、車ごと崖から転落した」


「……それが」


 とても歓迎はできない過去話に唐突に触れられ、自然と僕の口は饒舌さを失う。


「それが、何だってんだよ」


「場所を覚えているか?事故に遭った場所の地名を」


 問われて——質問の意図は全く分からなかったものの——記憶を探る。

 事故当時は子供だったので、後から聞いただけの話になるが。


「……鬼塚山おにつかのやま——って、ところだったと思う。けどそれが、一体何だって言うんだ?」


「その山は、我々精魂に関わる者なら誰でも知っているような場所だ。簡潔に言えば、とある神霊、、が封じられた場所なんだよ」


「しんれい……?」


 聞いたこともない単語だった。この一週間で先輩たちから、精魂の世界の基本的な常識くらいは教わったのだが。

 と、そんな疑問が伝わったのだろう、バシリスクは親切にも——話を円滑に進めるためだろうが——教えてくれた。


「長い時を経て精魂が意思を持った存在を、『精霊』と呼ぶ。土地神、、、と言ったほうが分かりやすいか?お前の近くにも一人居るはずだ」


「それって……小山先輩のことか?」


 意思を持った精魂の集合体——確か津久茂先輩も同じようなことを言っていた。小山先輩は人間では無い、そういう存在なんだと。

 精霊——土地神の別称みたいなものなんだろうか。


「精霊は人間の術師とは違う。肉体や生命としての枷を持たないが故に、強力かつ特異な力を扱う。……そして、千年以上、、、、の時を生き永らえた精霊を神霊しんれいと呼ぶんだ」


「せ……千年以上?」


「想像が及ばないか?だが神霊は実在する。数える程だが、今も生き存在する者さえいる。とうに滅びた者もいれば——その力の強大さ故、存在を封じられた者も、な」


 千年以上。それがどれだけの重みを持つ年数なのか、たかが十六年しか生きていない僕には、まさしく想像もつかない。

 年の功と言うが、桁が違う。そこまでになると、もはや人という範疇の外の存在だろう。


 少なくとも形は高校生の体をなした小山先輩でさえ、実際のところはかなり人外的な人なのに、その何倍だ……まさか彼女も、その神霊とやらの一人だってオチは無いだろうが。


 ……そして。

 封じられていた神霊もいる——その言葉は、今までのバシリスクの話と繋がる。


「分かるか?お前が事故に遭ったのは、神霊が封印されていた場所なんだよ。そして崖から転落した車は、炎上し奇しくもその封印のくさびを……」


そんな馬鹿な、、、、、、!」


 叫んだのはほとんど無意識のうちだった。


「察しが良いな。そうだ——おそらくその封印を破壊したのはお前だ」


「そんな、馬鹿な……!」


 そんな馬鹿なことが。

 そんな馬鹿なことがあるものか。


「お前の話が本当なら……そんなヤバイ存在を封印してるものが、何でそんなに簡単に壊れるんだよ?」


 仮にバシリスクの言っていることが本当だとして。

 十年前僕が事故にあったあの場所に、そんな"神霊"なんてものが封印されていたとして、だ。

 

 ならば少なくとも、それは車が落ちた程度の物理衝撃で壊れるような、簡易なものじゃ無かったはずだ。あの事故には、なんら精魂や霊媒的な要素は関わっていなかったというのに。


「それに……たまたま、、、、事故が起きたら、そこにそんな封印がありましたって、どう考えてもあり得ないだろ?」


「確かに、不自然なことも多い。しかし少なくともその場所から神霊は消えていたさ。封印も跡形も無かった」


「……そんな」


 こいつは……こいつは多分、本当のことを言っている。


 段々と、この男のことが分かってきた。

 確かにこいつはハドソンとは違う。津久茂先輩は、「穏健派」という連中は広義における「正義」で動く面がある、という旨のことを言っていた。狂信などではなく、一般的にいう「正義」——穢れなき弱者を怨霊から守る、という側面。


 バシリスクはこれで本当に、僕などの身を案じている。

 「無辜の弱者」である僕を、悪霊であるイミナさんとは切り離して考えている。


 ジューダス本部からの待機命令に従う間、バシリスクに出来ることは敵を探る事くらいだったのだろう。僕のことを調べられたのなら、あの事故に行きつくのも当然だ。

 そしてその事故現場が、高名な"神霊の封印場所"と一致していた——あとは現地に足を運べば、確かめるには事足りる。


 こいつはそれで、確信したのだ。

 自分が対峙しようとしている悪霊が——実はとんでもなく強大な存在だったのだと。


「……じゃあ」


 背後を振り向きながら、僕は言う。


「じゃあ彼女が——イミナさんが、その神霊、、だってのか……?」


 目を合わせる事は出来なかったが、先ほどとは打って変わって沈黙を守っている彼女の態度は、言外にそれが真実なのだと告げているようなものだった。


 それでも、信じたく無かった。

 十年ともに過ごした、もはや日常の一部と化してしまった彼女が、それほどに崇高な存在である事は、とてと受け入れ難かったから。今まで気楽に話しかけていた相手が、神様と同列にすら語られるような——バケモノ、、、、だったなんて、そうそう受け入れられるはずがない。


 せめてもの、彼女がただの幽霊であって欲しかったと思ってしまうのは、僕が小心者の子供だからなのだろうか。


 ……だがしかし、それを聞いて納得出来る事もあった。


 イミナさんを見て語るとき、オカルト部の先輩たちはいつも、どこか過大な表現をしていた。てっきりそれは、彼女が僕の寿命を削る「悪霊」だからだと思い込んでいたのだが。


「……そんな馬鹿な……」


 それでも僕の口は、まだ繰り返してそんな風な言葉を吐きこぼす。


「だいたいイミナさんのことは、みんなして"悪霊"ってことで話を進めていたじゃないか。それはどう言うことだよ?津久茂先輩も、お前らジューダスも、ただの勘違い野郎だったって事か?」


「俺はともかく津久茂総司は知っていたはずだ。でなければ、そんななど作りはしない」


「……っ!」


 バシリスクの言葉に、僕はいよいよ心臓が凍りつくような思いを懐く。


 鎖の存在を見抜かれている。イミナさんとの繋がりそのもの——これを破壊すれば、僕の魂は保全され、僕の前から彼女は消える。そんなモノの存在を知られている。


 いや——しかし彼女が悪霊では無く、神霊という存在だったことが判明した今、この鎖の意義はどうなるんだ?

 イミナさんが悪霊でないってことは、つまり僕の寿命に関する問題も消えるということで……と、そんな事を考え始めた時、バシリスクはまるで心でも読んだかのようなタイミングで、


「お前は勘違いをしているようだが、その女は間違いなく悪霊だ」


 そう言った。


「……?何を言って……」


「つまり——遠い昔にその女を封印した人間は、まず神霊を悪霊に貶めた、、、、、、、、、のさ。強力無比な神霊を、下賎な悪霊という存在に堕落させ——その上で封印した」


 それならば、神霊などという上位の存在を人間が封じる事も可能になると、バシリスクはそう推察した。

 いや、多分それが正解なのだろう。否定もしない、イミナさんの保ち続ける剣呑な沈黙が、そう物語っていた。


「神霊から堕落した悪霊などただの悪霊の万倍は厄介な存在だ。尊大な自身の魂を保つために、必然、食らう魂の量も多くなる」


「…………」


 その言葉に、僕は何一つ言葉を返せない。

 ただ、イミナさんの保つ沈黙には、一週間前のあの夜——必要に迫られ、僕の魂の軟禁を解放した時のような感触があった。


「それに神霊ともなれば、宿主、、から引き剥がすのも容易では無い。だから津久茂総司は、わざわざそんな霊具れいぐを作ったんだ」


 霊具——というのが、僕の胸に眠る鎖のことを指していることは、言われずとも理解できた。


「理解出来たか?その女がどのような存在なのか。それが分かったから俺は、本国の命令を無視してまで、今ここにいるんだ」


 ゆっくりと、諭すようにバシリスクは言う。


「鎖を破壊するんだ。その女から離れろ。さもなくば、いずれお前は破滅の道を辿ることになる」


 バシリスクの言葉が耳の中に響き渡り、脳髄に浸透するようだった。その感触は嫌が応にも、僕に選択を迫る。


 何も言わず、僕は自分の右胸を見下ろした。

 ここ眠る鎖——僕の意志にのみ呼応し、僕の意志によって破壊される、イミナさんとの繋がりそのもの、、、、、、、


 これを使う時が、こんなに早くも来たのか。


 出来れば胸にしまったまま、二度と見たく無かった。僕の寿命とイミナさんとの繋がりを天秤に乗せて考えることなど、一生しないままでいたかった。

 だがそんなことが許されないのも、また自明だったのだ。運命からは逃れられない。いつかは決着をつけなければならない。


 胸に眠るモノが、まるで僕を雁字搦めにする本物の鎖のように思えてくる。

 鎖を壊せば解放される。だが厄介なことにこの鎖は、巻き付くことで僕に安息をもたらすのだ。


 この鎖をどうにか、、、、しなければならない。このまま、、、、ではいられない。

 その選択を迫られたのなら、僕は——、


「——駄目だ、断る」

 

 口をついてそう答える。

 それはほとんど無意識の、勝手に口が動いて出たような言葉だった。

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