第10話:ボーイ・ミーツ・ガール

 何年か前にインフルエンザにかかったことがある。

 僕は小学生で、ちょうどクリスマスの季節……

確かまだ児童養護施設に居た頃の話だ。


 確か、予防接種は受けていたはずだった。それが効き始める前に運悪く発症してしまった。高熱、頭痛、腹痛……なまじ免疫力の低い子供にとって、あれは生き地獄と言って遜色ない。


 感染防止のため、僕は普段の集団寝室ではなく、個室で寝かされることになった。

 夜——暗がりの中、一人咳き込みながら、ひたすら僕は「早く眠りたい」と願っていた。この苦痛も、意識を手放してさえしまえば楽になるはずだと。


 しかし節々を痛みに苛まれる体は、その存在自体が一つの気付け薬のようなもので……すんなりと眠ることなんて出来なくて。そうこうしているうちに時間は過ぎていって、それに伴うように苦痛も疲労も蓄積していく。


 施設の職員が作ってくれた氷袋があったのだが、それは一時間もすれば溶けてしまって、ただの水袋になっていた。

 額の上の、あのぶよぶよしたぬるい感覚は燃え上がるような体には酷く不快で……でもそれを退かすことすら億劫で。


 一体いつまでこんな時間が続くのか。

 僕はこのまま死ぬんじゃないか、とすら考え始めた——そんな時だった。


 ふと、額から不快感が消えた。

 僕はじんじんと痛む目玉をなんとか横の方に動かして……「それ」を見た。


「…………ぁ」


 青白い光。そして、パキパキという乾いた音。


 長髪をなびかせた美しい女性が水袋を手に持ち、もう片方の手をそこにかざしていた。

 その真っ白な掌から発せられた、青白く光る「何か」によって、溶けていたはずの水は瞬く間に冷却され、いつの間にかそれは元の氷袋に戻っている。


 夢でも見ているようだった。冬のひと時、熱にうなされて見た幻覚だったのだと思った。

 しかし、彼女が手に持った氷袋を僕の額に戻した時に、その実在する冷たさを肌で感じて、ああこれは現実なんだな、と認識した。ひんやりとした心地良い鋭さは、確かに薄いビニール越しに伝わる、氷の感触に他ならなかった。


 ……そうだった。

 思い出した。僕が、イミナさんはモノに触ることが出来るのだと気付いたのは、この時だったんだ。


「あ……」


 上手く声の出せない喉で、それでも言おうとする。今この時なら、言わないと駄目だと思った。


「……あ——」


「良いから、寝てなさい。私はここにいるから」


 澄ました顔で、子供の頃の僕には大き過ぎたベッドの枕元に腰掛けながら、イミナさんは言った。

 言いたかった言葉は果たして、きちんと彼女に届いたのだろうか——届いていたとしても、多分僕は、もうその時には意識を手放していた。

 






 風呂に入りたい。

 そう思ったのは当然のことだった。


 断っておくが、別に僕は風呂好きと言うわけでは無い。普通に生活している時でも、半分以上の割合でシャワーだけで済ませてしまう。要は体の汚れを落とせれば何だって良い、と言うタイプの人間だった。


 それに、当然学校に風呂など無い。一応運動部が使うシャワーはあるものの、無断で"お泊り"している身で堂々と使えるはずもない。そんな事のために小山先輩を煩わせるわけには行かないし。

 

 そんなわけで、学校に泊まっている間は、僕は霊媒術を使い、一切水道も使うことなく体の汚れを落としていた。

 これが基礎も基礎の霊媒術で、初めてでもコツさえ掴めば簡単に行使できるものだったのだ。というか……先輩たちはそういうところでの不便を予想して、生活で使えるような霊媒術を真っ先に教えてくれた節がある。

 おかげでこの一週間一度も風呂には入っていないが、僕の体は清潔なままだ。

 

 だから、関係ないのだ。

 体が臭うとか、熱々のお湯に浸かる感触が恋しいだとか、そういう理論的な理由ではない。本当に何となく、突然風呂に入りたくなった。時々無性にカップラーメンが食べたくなるような、そんな気分だ。


「ってわけなんですけど、どう思います?津久茂先輩」


「そうだな……」


 顎に手を当て、考え込むような仕草を見せる津久茂先輩。


 文化祭が終わり、振替休日を挟んで火曜日。時刻は午後四時過ぎ、場所はオカルト部部室。

 普通に活動時間なので、今は津久茂先輩の他にも、八百萬先輩や小山先輩もここに居た。


「だったら、銭湯にでも行きゃあ良いんじゃないのか。確か、ここから少し歩けば大きめの温泉施設があったと思うが」


「……でも、外に出ても大丈夫なんですかね、僕?」

 

「まあ大丈夫だろ。バシリスクはハドソンとは違う。少なくとも本国の命令を無視して襲ってくることは無いだろうし——念のため人の多い道を選んで歩けば、心配は無いはずだ」


 ……ハドソンの襲撃があった直後、津久茂先輩がバシリスクと接触していたのを聞いた時は驚いた。

 冷静に考えれば敵からの襲撃があった以上、学校の周辺くらい見回るのは当然だったのだろうが……言っても高校生だぞ?何でそんな、戦場的な判断を正確に出来るんだ。


 で、バシリスクとは二、三言葉を交わしたらしいのだが、その時の感触では、奴はハドソンのように、狂気や凶暴性に駆られて暴走するような男では無かったらしい。


「もともと有名な男ではあるんだがな」


 とは、津久茂先輩の言葉。


「ジューダスの蜥蜴部隊と言えば、怨霊・怪異退治の精鋭だ。構成人数も実態も一切不明——ただ一つ知られているのは、バシリスク=オールウェンスという名の若い男が頭領ボスを務めているということ」


 何年か前に、ヨーロッパのとある町が怨霊に占拠された事があるらしい。その怨霊はとても強力で、そして賢しく、たとえジューダスの構成員であっても、並みの術師では町に入り込むことすら出来ない状況だったという。

 その町にたった一人で乗り込み、一夜にして怨霊を退治してしまったのがバシリスクだったそうだ。実力で言えば、ハドソンよりも格上と考えて良いだろう。


「……先輩は、エルザスがバシリスクだってことは最初から分かってたんですか?」


「いや、最初からじゃない。薄々そうじゃ無いかとは思っていたがな。確信したのはハドソンがこの学校に押し入ってきた時だ」


 あの時に何か、バシリスクに関わることを言っていたか……?聞いていた限り、前々から勘づいていたことをハドソンに確かめたという感じだったと思うんだが。


「魂の抜けた鼠がいたんだよ」


「魂の抜けた……ネズミ?」


「動物の魂を抜いた上で、その中に自分の魂の破片を埋め込んで、偵察用のいわば"使い魔"を作る術があってな。蜥蜴部隊は諜報によく鼠を使う。大方威力偵察のつもりで、ハドソンの近くにつけていたんだろう」


 あの時、僕たちの近くにそんなものが居たのか。気が付かなかったな……。


「まあともかく、今なら外出もさほど危険じゃないさ。俺たちは帰るが……ああしかし、そうなるとお前が帰ってくる時には、下校時刻を過ぎちまうか?」


「あっ。もしそうなったら学校には入れない……ですよね」


「その場合は、帰ってくる時に私にメールを入れてくれればいいわぁ」


 と、横から小山先輩の言葉。


「レンちゃんなら私の領域内に入れば分かるから、その時学校の中身をちょっと作り変えて、誰にも姿を見られないようにすれば良い。時間を過ぎても、普通にエレベーターを使って戻ってきて大丈夫よぉ」


「……だそうだ。気をつけて行ってこいよ。それと、何かにsomething追われ chasesたら you……逃げろよrun


「…………」


 イスラ・ヌブラルに行くんじゃねえんだから、とも思ったが、考えてみると危険度で言えば、ヴェロキラプトルもバシリスクも似たようなものか。どっちも爬虫類だし。


「あの、小山先輩。面倒かけてすみません」


「良いのよぉ。行ってらっしゃい」


 と——まあこんな具合に、僕は先輩方に見送られて、部室を出たのだった。


 校舎を出てみると、外は蒸し暑いくらいの天候だった。

 十月も下旬に入り、冬服に移行した制服をありがたく感じる場面も多かったのだが、こうなるとむしろ着ている学ランが邪魔に思えてくる。


 上を見てみれば、なんというか青空半分、曇天半分という感じの空模様だった。

 そう言えば天気予報で、今日は夜から雨が降ると言っていた気がする。所々の雲も、心なしか暗い色をしているが……僕は傘を持って出てきていない。これは本当にさっさと行って帰った方が良さそうだった。


 と、そんなことを考えながら五分ほど歩いて、ふと僕は、視界内に見覚えのある顔を認めて足を止めた。

 

「……あ」


「あ」


 目が合って、同時に声も重なった。

 僕の学校の、女子用の制服に身を包んだ少女。やや茶色がかった髪を後ろで一本に結っている彼女は、先日の事件でハドソンの人質になっていた——宮本美雪みやもとみゆきだった。


 ああ……そうだ、彼女がいたな——すっかり忘れていた。


 いや、忘れていたわけでは無いのだが、記憶の中では宮本の存在はほとんどおざなりだったと言っていい。僕自身ハドソンという凶悪な男につけ狙われていたわけだし、はっきり言って、その後に聞かされたバシリスクの事で頭はいっぱいだった。


 一応、宮本はその後、先輩たちによって処置を施された。

 具体的には小山先輩の力によって、「霊媒師の争いに巻き込まれ、恐ろしい思いをした」という記憶を丸々改竄されたらしい。


「一般人だからな。俺たちはともかく、精魂に関わった事は忘れちまった方がいい」


 という、津久茂先輩による沙汰だった。

 そのあたりの理屈はどうもよく分からないし、本人に断りなく記憶を弄ってしまうと言うのには若干気が引けたのも事実だ。


 で、馬鹿な僕は、それを口に出して津久茂先輩に尋ねた。そうしたら、


「じゃあ本当に最低限、精魂に関わる部分だけを改竄しよう。そうだな……」


 とのことで。

 結果、宮本の頭の中ではあの日の出来事はこうなった。


 宮本は階段で足を滑らせたのだ。頭を打ち付けそうになるものの、たまたま通りかかった僕が間一髪で助けた。しかし、突然のことにびっくりした彼女はそのまま気を失ってしまった。それを僕と、その場に居合わせた津久茂先輩が保健室に運んだ。

 「宮本が危機に陥って」「僕や津久茂先輩が助けた」のだ……かなり日常的にはなったが、精魂が絡まないと言うだけで、状況はあまり変わっていない。


 で、そうやって口裏を合わせた後、僕たちは本当に彼女を保健室まで運んだのだ。


 つまり。

 一応宮本の中では僕は、ろくに話したこともないクラスメイトではなく、多少は関わりのある人間になっているはずなのだが。


「……領場、くん」


「……はい」


 名前を呼ばれたので、とりあえずの返事。

 そう、ほら、やっぱり顔と名前くらいは覚えられている。もっとも相手がクラスメイトの、しかも優等生なので、いくら関わり合いの無い僕でも最初から認識されていた可能性は否めないが。


「領場、蓮くん」


「はい……んん?」


 流れで頷いてしまったものの、ちょっと待て、それは分からないぞ?

 何で下の名前まで覚えられてるんだ?教室で呼ばれることはまず無いはずだ。

 

「えっと、領場くん。私のこと分かる?私のこと、覚えてるかな?」


「え?……あ、ああ、うん。宮本美雪。うちのクラスの委員長で、優等生。忘れたりしないよ」


「んん……そう言うことじゃ無くって。……参ったなあ、本当に忘れちゃってるんだ。ガッカリしたよ」


「え、えっと……?」


 何だろう、こういう、いかにも真っ直ぐに生きてますって奴と相対すると、どうも口が上手く回らなくなってしまう。被害妄想だと言うことは分かっているんだが、その在り方から、お前はダメな奴なんだぞと指差されている気分になるのだ。

 オカルト部の先輩たちみたいな、良くも悪くも「変人」って人たち相手ならそんなことは無いのだが……やりにくいな。


「ねえ領場くん。私、高校で一緒になる前から君のことは知ってたんだよ。十年以上前だけど、よく一緒に遊んでたの。覚えてない?」


「……え?」


 そう言われて僕は、初めて目の前の宮本の顔を、ようやく真っ直ぐに見た気がする。


「いわゆる幼馴染ってやつ。家が近所で、毎日のように遊んでて……その頃には、お互い下の名前で呼び合ってたんだよ」


 自分でも、自分の顔に困惑の色が広がっていくのが分かった。


 僕が宮本と幼馴染?

 一瞬嘘なんじゃ無いかとも思ったが、どう考えても宮本が、僕にそんな嘘をつく理由が存在しない。学校ではみんなの人望を欲しいままに集めている彼女が、僕なんかと仲良くなって得なんて無いだろうし。

 

「……覚えてない?」


「あ、いや、覚えてるっていうか覚えてないっていうか……鮮明に記憶に残ってはいないんだけど、そう言われてみるともしかしたら見覚えがあるような無いような気がしないでも無い……」


「覚えてないのね」


「……う」


 落胆したように、あからさまに溜息をつく宮本。

 それを聞いた僕の胸はチクチクと痛む……彼女のような「良いやつ」をガッカリさせてしまったという事実は、もうそれだけで、罪悪感という針を何十本も僕の心臓にぶっ刺していった。


「……ごめん。覚えてないです。すみません。本当に申し訳ない」


「そんなに矢継ぎ早に謝られる事じゃ無いんだけど……うん、いや、こっちこそごめん。いきなりこんなこと言っても困るよね」


 言いながら宮本は、バツが悪そうに笑った——それは本人的には、おそらく苦笑いの類だったのだろうが、僕には優しくはにかんだようにしか見えない。

 教室でも、普段からニコニコと笑っている奴だと言うことは知っていたが、本当に笑い慣れているって感じだ……。


 しかしいざ、その笑顔を直視してみると、なるほど、何人も告白しに行く男子がいるのも頷ける。

 まるで男が女に求める安らぎという概念が完璧に備わっているようだった。


「十年前、まだ白子町しらこちょうに住んでた頃ね。私、その時は今よりずっと内気で、友達なんてほとんどいなかったんだよ。……多分領場くん一人だけだったんじゃないかな」


「白子町……は、確かに僕が子供の頃に住んでた所だな」


 ぶっちゃけ全然覚えていないのだが、記録としては知っている。僕の生家が存在するのは、白子町という町だ。


「でもある日突然、家を訪ねてみても、いつもの公園に足を運んでも、領場くんに会えなくなった。……ショックだった。でも、本当に驚いたのは、今年の春に一緒のクラスになった時」


「……ああ」


 それは、そうだろう。

 ショックとか諸々ひっくるめて最も「驚く」のは、誰でも僕の現状を最初に見た時なのだ。


「自己紹介の時に名前を聞いて、本当にびっくりした。人違いかと思ったけど、顔を見たら、確かに面影があって……でも」


 今も右手に持っている杖。顔の火傷跡。左目の義眼。


 記憶には無いものの、幼馴染だという宮本の言葉を今更疑うつもりは無い……しかし、だとすれば彼女は、僕が突然家族ごと消え失せた理由をどう考察したんだろう。

 神隠しに遭ったのだとでも恐怖したのか、それとも、子供ながらに何か事情があったのだろうと考察したのか——どちらにせよ、だ。

 まさか、こう、、なっているとは想像すまい。


「……事故にあってから、色々と余裕が無かったんだ。家族の葬式とか、相続のこととか、孤児院に移されたり。友達のことを気にしている余裕が無かったんだと思う」


 言い訳のように、僕は口にした。

 宮本視点、僕が突然消えた理由というのは、僕がほとんどのモノを失うことになったあの事故だ——十年前という時期的にも、それ以外に考えられない。


 事故の後、僕は結局、生まれ育った家に帰ることは無かった。


 そもそも僕自身、左目や右足の負傷は簡単に治るものでは無かったので、その治療やリハビリを含めれば何ヶ月も病院のお世話になっていた。

 それが終わったら終わったで、たかだか六歳の子供に一人で生活していく術など無かったのだから、結局そのまま施設に住むことになったのだ。


 両親の葬式や遺産の相続こそ、親身になってくれたとある市役所の職員の手によって、問題なく終わったものだが……実際、事故の後に病院で目覚めてからしばらくは、もう「てんやわんや」という感じの記憶しかない。


 あちこち連れられて、気が付いたら、もう施設で暮らしていたという感じだ。地元の友達のことを考えている暇はなかったはずだ……実際僕は宮本のことを覚えていなかったし、そういうことなんだろう、多分。


「今まで話しかけるきっかけが、どうにも見つから無かったんだけどね。でも四日前に階段から落ちた時に助けてもらって、それで今ばったり会って、ちょうど二人きりじゃない」


「……タイミングが良かったってこと?」


「結局そう言うことなのかな。タイミングが良かっただけ。……運命の神様に味方されちゃったわけだ」


 先ほどまでの鬱々とした雰囲気から一転、宮本は、からりと笑って見せた。


 運命の神様……ね。


「……それが味方したのなら、宮本じゃなく僕の方なのかもな」


「え?どう言う意味?」


 訊き返されて、僕は少々焦る。

 ろくに考えもせず、何となく思ったことを喋っただけだったからだ。慌てて言い繕おうと口を動かす。


 いや、冷静に考えるとそんなに慌てるような事態でも無いんだが、彼女が相手だと、ちょっとしたことで自分がどうしようもない奴だと思ってしまうのだ……これ、結構危険な才能じゃないのか、宮本。


「だって普通に考えても、宮本みたいな優等生が僕と仲良くなるメリットなんて無いだろ。むしろ損得で語るんなら、ろくに友達もいない現状から、偶然に助けられてクラス一の人気者と親交を持てた僕の方が、よほどラッキーと言える」


「私は領場くんと会えて、嬉しいよ?それに、自分のことをそんな風に言うのは良くないと思う。そもそも私、人気者なんかじゃないし」


「……度を過ぎた謙遜は単なる侮蔑、らしいぞ」


 そう言うのが案外、何も出来ない奴を一番傷つけるのだと、いつか津久茂先輩が言っていた。

 もっとも宮本には本当に悪気もなく言っているらしかったが。これはこれで、こいつも本当は馬鹿なんじゃないかと思うけど……現状を客観的に把握出来ない奴って、つまり馬鹿ってことだよな?


「……はあ」


「む……何よ。これ見よがしに溜息なんてついて。忘れられてたのは残念だったけど、私は今、概ね嬉しい気持ちでいっぱいなんだよ?」


「いや、それに水を差すつもりはないけど」


 宮本にこんな風に言ってもらえるのは、どう考えても名誉なことだと流石に僕も心得ている。こうやって二人きりで話しているのがクラスの男子に知れたら、僕の教室内での立場はもっと危ういものになるだろう。

 被無干渉者から、被害者になっちまいそうだ。

 

「むしろ僕の方こそ、その、喜ぶべきだと思ってるよ。よく分からないままに宮本と話せたし……なんか、ちょっと仲良くなれてるっぽいし」


「え?どうして私と話すことが、喜ぶべきことになるの?」


「…………」


 こいつ、自分の見た目が可愛いって事を、本当に分かってないのか?

 それとも男の子が可愛い女の子と話すことは、大抵無条件に嬉しい事だって、知らないのか?ましてや僕みたいな友達のいない奴にはなおさらだってことを。


 ……とまあ、しかしこんな事を面と向かって言えるはずは流石に無く。僕は適当に、「何でもない」とお茶を濁した。


「なら良いんだけど……あ、そう言えば領場くん、どうしてこんなところを歩いてるの?駅とは反対方向じゃない。今、この辺に住んでるの?領場くん」


「ん?」


 言われて、考えるまでも無く彼女の言わんとする事は分かった。


 僕たちの通う高校は都内の私立校であり、生徒のほとんどは電車を使って登下校をしている。そして彼らは普段、学校から徒歩三分ほどのところにある駅を利用している。

 要するに、学校が終われば生徒たちは皆一方向に向かうと言う事だ。その反対方向にいるのは、電車を使うまでもなく家が近い者だけ。


「いや、僕が住んでるのは電車で一時間くらいのところにある、ボロっちいアパートだよ。去年施設を出てから、一人で暮らしてる」


「へえ、一人暮らしなんだ。ちょっと羨ましいかな……でも、じゃあどうして?」


「ちょっと銭湯に行こうと思って。ほら、寒くなってきたから」


 素直に答えてから、宮本が少し怪訝そうな顔をしたのを見て、僕はしまったと思った。考えてみれば、学校帰りに銭湯に行こうとする高校生と言うのは、今時まあまあ不自然な存在だ。


「み、宮本は?お前は何でこんなところにいるんだ?」


 取り繕おうとして、烏滸がましくも「お前」なんて馴れ馴れしい口の利き方をしてしまった……幸い宮本は気にしている様子は無いが、ここでの会話が漏れたら真面目に明日からいじめが始まるかも知れん。


「私は、映画を見ようと思って」


「映画?この辺に映画館なんてあったっけ」


「そうじゃなくて、DVD。ディスクをレンタルして、その場で観れるの。結構楽しいよ。名作映画って色々勉強にもなるし」


「へえ、そんなのがあるのか。ちなみにどんなのを観るの?」


「私が好きなのは、そうだね、死霊の盆踊りとか、プラン9フロムアウタースペースとか……」


 宮本が好きと言うくらいだから、きっとどっちも素晴らしい名作映画なのだろうが、残念ながら僕はどっちも知らなかった。


「領場くんは映画とか観ないの?」


「ん……いや、どうだろ。スターウォーズとかジュラシックパークは知ってるけど、それくらいかな。せいぜいテレビで、聞いたことのあるのがやってたら、見ようかなと思うくらい」


 せっかく宮本の方から話を振ってもらって悪いのだが、僕はそっちの知識はほとんどさっぱりだ。本当に有名なのしか観たことはない。

 まあ、近くにいる謎に博識な幽霊の雑談に付き合ううち、知識方面だけはそれなりになったのだが……どうやら宮本は結構な映画好きらしいので、にわか仕込みの知識じゃ恥をかきそうだ。


「ねえ、ところで領場くん。携帯持ってる?」


「ん?そりゃあ持ってるけど……」


 唐突に訊かれて、僕は少し戸惑いながらも、制服のポケットから自分のスマホを取り出す。


「番号、教えてよ。あとメールのアドレスも」


「え?」


 思わず訊き返してしまった。


「別に電子の上での関係が全てって考えるわけじゃ無いけど、今の世の中、それが一つの基準みたいなところがあるじゃない?だから」


基準、、って……何のこと?」


「……だから」


 焦れたように言う宮本の顔は、これくらい察しろと、有り体に語っていた。


「私と友達になってください——って、そう言ってるの」


 思わず宮本の顔に真っ直ぐ視線を向けた僕の顔には、困惑が表情として張り付いていただろう。呆然と言っていいかも知れない。

 自然に出来てしまった間をどう受け取ったのか——おそらく彼女には「何言ってんだこいつ?」という表情にでも見えたのだろう——、宮本は急に気恥ずかしいような顔をした。


「その、幼馴染ときちんと再開できたお祝いって言うかさ。改めて言うようなことじゃ無いのかも知れないけど、私としては領場くんと、また仲良くしたいと思うの」


「ああいや、そういう意味じゃなくて。ただ、『友達になってください』なんて面と向かって、畏まって言う奴は初めて見たから……」


 ……いや、違う。

 確かに「友達」を作るのに、かしこまってお願いするような奴は見たことがない。だが同時に、「友達なんて自然に出来る」なんていう神話を信じたことも、僕はなかっただろう。


 だから、きっと僕みたいな奴にはこれで良いのだ——格式ばって、一歩一歩恐る恐るくらいがちょうど良いはずだ。ましてや相手が、宮本のような"良い奴"ならば。


「……僕こそ、本当、よろしくお願いします」


 言いながら僕は、深々と頭を下げた。

 道行く人から見ればたいそう不可思議な光景だったろう。図体もそれなりに成長した高校生が、妙にぎごちなく頭を下げている。しかも相手は同年代の女の子だ。


「はは、何だ、領場くんの方がよっぽど畏まってるじゃない」


「う……」


 宮本に笑われると、途端にかなり恥ずかしい気分になって、僕は呻いた。

 しかし、だってしょうがないじゃ無いか……僕が分を弁えるなら、このくらい下手に出ないきゃきっと足りない。


「……うん。こちらこそよろしくね」


 そう言って宮本は右手を僕の前に差し出して来た。


「…………」


「……領場くん?これは、握手をしましょうっていう意思表示なんだけど」


「い、いや、それは分かってるけど」


「じゃあ応えてよ。こういうの、相手が応じてくれないと、やった方はかなり辛い事になるんだよ?」


 それも知ってる。

 だがやっぱり、宮本は無知だとも思う。


 顔の良いスポーツ万能野郎みたいなのはともかく、世の思春期のオトコノコ——特に異性と接する機会が極端に少ない奴なんかは、基本的に自分を汚物だと思い込んでいる。女性の素肌に触れることを、大罪だと考えているのだ。


 女は男を恐れるというが、男だって女を恐れるのだ。僕もその例には漏れない。

 

 ……が、宮本の言う通り、ここで握手に応えないと言うのは流石に、人としてもっと「ない」だろう。


「——うん」


 互いに握った右手同士を見下ろして、宮本は、満足そうに頷く。

 一方で僕の胸中は、ほとんど肌から伝わる生々しい彼女の体温に乱されっぱなしだった。こういう時に頭の中が矮小な下心でいっぱいになるのは、僕が童貞野郎だからなのだろうか。


 なまじ目の前に立っているのがクラス一の優等生であるために、ますます自分の小ささが嫌になる。


 そんな僕の気持ちは多分つゆ知らず、宮本は満足げに手を離して、にこりと笑った。


「じゃあね、領場くん。また会えて良かった。バイバイ」


「あ、ああ、うん。バイバイ」


 僕はそんな風に格好のつかない、おどおどとした返事で応える。それでも宮本は気分を害したような様子もなく、「うん」と笑ってくれた。

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