第9話:"小競り合い"

 エルザス——改めバシリスク=オールウェンスは、自らの相方がすでに息絶えているであろうことを悟っていた。


 ハドソンが本部からの待機命令を無視し、攻撃対象——領場蓮が潜伏する建物に乗り込んでから、六時間以上が経っている。


 あの男はあれで、殺し屋としては一流だ。対象がおよそ尋常な相手であったなら、任務は確実に遂行される。

 だが今建物の中からは続々と、その表情に恒常的な平和を貼り付けた"一般人"たちが、のんびりと出て来ている。


 ハドソンの襲撃が完遂されたならば、こんな風景はあり得なかっただろう。

 ジューダスの過激派と呼ばれる人間の中でも、トップクラスに凶暴な男だ。自分の崇拝する神を信じない罰当たりは殺して良いと信じて疑わない、狂信者の典型。


 そんな男が異国の大衆集う建物に入り込めば、徹底した鏖殺が行われるのは自明だ。順序こそ霊媒師たちが先だろうが、彼らを殺した後ならば、ハドソンは簡単にあの建物の中を地獄に変えるだろう。


 だが、バシリスクの眼に映る風景は平和そのもの。

 命からがらの脱出者どころか、悲鳴の一つすら聞こえはしない。


「——馬鹿が」


  M大附属高校に隣接した雑居ビルの屋上に独り立ちながら、バシリスクは吐くようにして言った。


 そもそも、ハドソンが待機命令を破り襲撃に走ることは予想していた。

 学校が一般に公開される今日は御誂え向きのタイミングではあったが、バシリスクに言わせればあの男に、その「御誂え向きのタイミング」を待つだけの理性があったことすら驚きに値する。


 だがそれでも、バシリスクはハドソンを止めなかった。


 予想された惨劇を許容したからでは無い。罪のない一般人に対する大量虐殺など、悪魔の所業も同然だ。

 そうではなく——バシリスクは最初から、ハドソンに勝ち目など無いと考えていたからこそ、独断専行を放置したのだ。

 

 津久茂総司。

 つい一週間前に対峙したばかりのあの男を、バシリスクは明確な脅威として認識していた。


 霊媒界隈には、御三家と呼ばれる強力な霊媒師の家系が存在する。

 日本に数千いる霊媒師たちの血統、その源流を辿れば、始まりの御三家に行き着くとされている。


 天照あまでり

 八百万やおよろず

 そして——九十九つくも


 御三家の人間は代々、定向進化のように特定の種類の霊媒術を研究・研鑽し、強大な力を誇っている。

 その中でも九十九と呼ばれる一族は、昔から炎を操る術を得意として来た。


 ツクモ——つまりは、津久茂総司は間違いなく御三家の血を引いている。

 一週間前にその事を口にした時にも、あの男は否定しなかった。


 さらに悪いことに、敵は津久茂総司だけでは無い。


 領場蓮と彼に憑いた悪霊がこの建物に籠城し始めてからすぐにも、バシリスクは"精霊"の存在を感知していた。

 精霊とは、何らかの事情が原因で、精魂そのものが明確な自由意思を持った存在だ。日本では土地神と呼ばれる事が多い。


 限られた条件下でのみ発揮されるものだが、精霊は人間の術師などとは比べ物にならない強力無比な力を扱う。それに正面から逆らうことは、自殺行為でしか無い。


 こうなるともはや、津久茂総司が領場蓮を匿う場所としてこの建物を選んだ事が偶然であるとは考えられなかった。ここにいる精霊も、敵に含めて考えて間違い無いだろう。


「ハドソンは死に、敵の城は難攻不落——さてどうしたものか」


 本国からの沙汰はまだ下らない。

 現在ジューダスを取り巻く状況を考えれば、放置せよとの命が下る可能性も十分にある。


 それであっても、挑み争う可能性が少しでもあるならば、敵に対する精査を怠ることは無い。相争う可能性が一パーセントでもあれば、それに万全を期して備える。

 それがバシリスクという男の、どうしようもない性だった。


 ——と、その時。ふいに自分の頬を仄かな熱が撫で去るのを感じて、バシリスクは目を見開いた。


「————愛国者か?」


 暗澹とした声。

 思わずそちらを振り向いた瞬間——バシリスクの眼前には、苛烈なほどに勢い盛った炎が迫っていた。


「——!」


 間一髪で身を反らし、攻撃を躱す事が出来たのは、彼が生来持つ研ぎ澄まされた防衛本能による賜物だった。

 しかし安堵の息を吐くことは許されず、炎が再び唸るようにして迫る。自然法則を無視した動きでバシリスクを追撃するそれは、明らかに霊媒術によるものだ。


「愛国心はあるか?」


 再び響く声は、もはや忘れもしないものだった。

 反らした上半身をそのまま重力に従わせ、体ごと後ろ向きに宙を回り、バシリスクはなんとか窮地から脱出する。さらに彼は着地したその足で地面を蹴り、襲撃者から距離をとった。


 彼我の距離は五メートルほど。

 敵は追撃を重ねこそしなかったものの、その右手には、未だ炎を纏っている。


「津久茂、総司——」


「ほう?」


 敵として、脅威として認識した男が目の前にいた。

 こいつが健在ということは、やはりハドソンは負けたのか。バシリスクがそう確信を得たのとほぼ同時に津久茂は、


「俺なんぞの名前を知られているとは、ありがたい事だ。お前の相方は死んだぞ——バシリスク=オールウェンス」


「……!」


 そう告げられて——すでに自分の正体が割れていたことには意表を突かれたものの、バシリスクにとってその宣告は、予想通りの結末でしか無い。眉一つ動かすことはなかった。


 だがそれを見て津久茂は、訝しむように首を傾げた。


「知っていたのか?」


「少し考えれば分かる。あれが貴様に挑んで勝てるものか」


「……解せんな。派閥は違えど仮にも仲間だろう。負けるのが分かっていたなら、何故あの男を止めなかった?せめて哀しそうなツラくらい見せたらどうなんだ」


仲間、、?」


 言われてバシリスクは、自分の口角が僅かにつり上がっているのに気付く。

 考えてみれば痛快なジョークだ——あれ、、を敵の方から仲間と見なされ、挙句「哀しめ」とは。


「あれは"悪"だ。それ以外の何者でも無い」


「悪……だと?」


「自らの神のみを是とし、それ以外を頑として認めない。認められざる者ならば片端から殺す。それが許されると思っている。……そんな狂人を悪と呼ばず何と呼ぶ?」


 バシリスクはハドソンの死に関しては、一切の後悔も懐いてはいなかった。

 自らの狂信のみを根拠に殺戮を繰り返すあの男は、同じ組織に属するバシリスクからしても明確に"悪"でしか無い。現在の攻撃対象である悪霊にも勝るとも劣らず、死を以ってすら是正されるべき対象だ。


 しかし津久茂はその答えを聞いて、さも不愉快そうに目を細めた。


「異端を排し信仰を是とする、ジューダスお前らの言葉かよ、それが」


「否定はしないさ。しかし一緒にされるのも心外だ。俺が排すのはただ一つ——"悪"だけだ」


 言いながらバシリスクはおもむろに右足を浮かせ、軽く地面を踏んだ。——それが合図だった。


 何も無いバシリスクの足元から唐突に、ばしゃ、と水音が立つ。

 初め魚が跳ねた程度だったそれは、見る間に増大し、氾濫寸前の大川の如き轟音を奏で始めた。


 唸り、人の意志によってそのベクトルを決定された災害。

 水とは、原初の時代から数多の人命を奪い蹂躙した天災に他ならない。あの先の大震災でも、津波という"水害"さえ存在しなければ、あそこまでの惨劇は生まれなかった。


 精魂は術者の意志によって現実を変革する。

 津久茂という敵に向け、形を持たない圧力として襲いかかる。


「く——!」


 津久茂は右腕に巻いた炎を掲げ、目の前に迫った波を防ごうとする——しかし炎と水がぶつかり合うその直前、彼は自分のとった行動が、過剰防衛だったことに気付く。


 波は津久茂の足元を過ぎ去っただけだったのだ。せいぜい制服の裾下が濡れた程度の被害。元より発生させられたのは、それだけの水量だったのだ。


「何のつもりだ……?」


 津久茂は拍子抜けしたような思いで言う。


 何も無いところから水が発生した。確かにそれは法理の外の術だ。しかし結果、この雑居ビルの屋上はせいぜい、雨に降られた程度に濡れてしかいない。

 傍目から見ても何の意味も無い、攻撃ですらない行為だった——いや、それで合っていたのだ。 


 バシリスクの行使した術。

 両者の足元をただ濡らしただけ——しかし。


「ふッ!」


 身体に漲る気迫に押し出されるようにして、次の瞬間、バシリスクは瞬きほどの時も空けずに津久茂の眼前へと迫った。


「なっ——!」


 突然のことに、流石の津久茂も狼狽する。精魂による補助を考えても、明らかに人間に出来る動きの範疇を超えていた。


 その速度は明らかに、肉体改造特化の殺し屋であったハドソンすらも凌駕している。

 とても肉眼で捉えられはしないほどの速度で迫ったバシリスクは、たちまちに津久茂の懐に入り、勢いのままにその鳩尾に掌底を叩き込んだ。


 呼吸が止まり、思わず津久茂は膝をつく。

 

「……馬鹿な……一体、どういうカラクリだ?」


「それをわざわざ教えると思うか?」


 短く応えながら跪く津久茂の傍に立ったバシリスクは、しかし、とどめを刺そうとはしなかった。それ以上の追撃をするでもなく、踵を返す。


「お、前……どこへ行くつもりだ」


「……一度の不意打ちで相手の力量を見誤るほど俺は愚かじゃない。俺の速さを見た以上、貴様はすぐにでもそれに対応してくるだろう。今にしても、もし追撃を試みようものなら、恐らく俺は身を燃やす事になっていた。違うか?」


「……!」


 バシリスクの指摘した通りだった。

 津久茂は身体を内から圧迫されるかのような痛みの渦中に居ながら、すでにその右手を炎に変異させ、反撃の準備を整えていた。仮に深手を負うことになろうとも、少なくとも絶対に刺し違える事は可能な形で、だ。


「今ここで戦ってもお互い損でしか無いだろう。俺にもまだ、お前たちに対する討伐命令は下っていない……任務外で負わなくていい傷を負うのは御免だからな」


「……ふん。確かにハドソンとは違うようだな。恐れ入ったよ」


 若干の笑いを含んだ、そんな言葉を吐きながら、津久茂は右手の状態を臨戦態勢のそれから元に戻した。


 痛みが引いて立ち上がることが出来るようになる頃には、バシリスクはもはや影もなかった。


 実力は折り紙つき。状況判断には一定以上に長け、引き際も弁えている。さらには、津久茂でも対応できないほどの身体能力——なんらかの術によるものなのだろうが、そのカラクリは未だに不明だ。


「……厄介な奴に目をつけられたものだな、領場」


 とは言え、今のまま、、、、ならそれほど案ずることは無いかもしれない。

 バシリスクが未だ待機命令を出されているならば、少なくともあの男が、それを自ら破ってくることはしないはずだ。


 恐らくは最低でもあと一週間ほど——ハドソンから得た情報を考えれば、もっと長い可能性もある。

 ジューダスの襲撃そのものに対する抜本的な対抗策もいずれは必要になるだろうが……ひとまずの猶予は得られたはずだ。


 念のため学校周囲の偵察に出た甲斐はあった。

 一つ溜息をついた津久茂は、まだ若干痛む腹をさすりながら、雑居ビルを後にした。

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