第7話:土地神
——領場蓮と八百萬羽沙がオカルト部展示教室で言葉を交わしていた時から、三十分ほど後のこと。
イミナは幽霊という自らの性質を最大限に活用し、人のごった返す高校棟を自由気ままに飛び回っていた。
生きた肉体を持たない幽霊に食事は必要ない。
が、例え死した身であっても、趣味嗜好が消えるわけではない。
ホモ・サピエンスという存在が結局は、他と比べて大きめの脳容量を携えただけの「生物」ならば、それを人たらしめるのは自由意志であり、そして自由意志が生み出す贅肉に他ならない。
趣味嗜好——代謝をし、遺伝子を後世に残すことだけが目的の「生物」には、一切もって必要ないモノ。
しかしそれを欠かせば、人は人で無くなる。無駄なはずの贅肉こそが、ただの二足歩行の生命体を"人"足らしめている。
その上で言うのなら、イミナという"人"は、贅肉の塊だった。
「甘味、甘味、……この季節にかき氷?ふむ、でもこれはこれで良し……」
「甘い」という単語を砂糖的な味覚表現と同時に、「厳しさや規律に欠けた様子」に適用させた日本人のセンスを、イミナは評価していた。
甘さは人を駄目にする。心を極限にまで甘やかし、それに依存したが最後、代償として、大量の糖分は時間をかけて肉体を凌辱していくのだ。
並んだ露店の中から目ぼしいものを選び、陳列された商品をくすね、代金箱にこっそりと小銭を落とす。イミナが手に取った商品は、その瞬間からイミナの従属物となり、他人の目を透過することになるため、外目から怪しまれることは無い。
紙コップに入れられた数本の大学芋は、ものの見事に黄金色に輝いていて、一見すると高校生が作ったものとは思えないクオリティだった。
実際のところそれは、学生たちが「それっぽい見た目」を作ろうと頑張った結果なので、文字通り見掛け倒しではあるのだが。
「はむ」
一本それを口に放り込むと、舌の上をジャンクな甘さが包み、イミナは満足する。
見た目はそれっぽくても、味は学生レベル。甘美とはとても言えない、軽薄な甘味ではある。
だがそれで良い。甘さに高貴さは必要ないと、イミナは考えていた。貴賎の区別なく、万人に与えられるべき幸せなのだと。
つまり、有り体に言って、イミナは幸せの渦中にいた。
安易で簡易な幸せの中に——だが。
「——ようも躊躇いなく、そこまで俗に染まり切れるものだな。お前ほどの女が」
元より人で埋め尽くされたこの空間の中では、声などいくらでも聞こえていたが、そこに響いた声は毛色が違っていた。
文化祭という日常的な賑わいの中に紛れたそれは、鋭く濁った感情に彩られた声音だった。
というより。
その声は
「……無粋ね」
声に覚えがあった。聞き慣れたというほどでは無い、要するに、「聞いたことくらいはある」声。
時間の認識が正しければ、ちょうど一週間前に——、
「————!」
振り向いたイミナの鼻先を、鍛え上げられた剛拳が掠める。それはやはり、一週間前に味わった殺意をそのまま伴っていた。
攻撃を避けたイミナは、宙返りのような姿勢で着地をする。そして、目の前の襲撃者——スキンヘッドの大男、ハドソンを睨んだ。
「おかしいわね——貴方達は二週間は襲ってこないと、聞いていたのだけれど。上の命令を待たなくても良いのかしら」
エルザスとハドソン。一週間前に蓮とイミナを襲った、十字教異端討伐部隊"
今現在迫っている、最も直接的な危機そのものだ。その片割れであり、そして短絡的かつ暴力的な殺し屋が——平和な文化祭の最中、イミナの目の前に立っていた。
そのあまりに突然の襲撃に、イミナも多少の混乱は隠さずにいた。言葉など通じるはずもない凶暴な殺し屋に話しかけてしまったのも、あるいはそのせいかも知れない。
だがハドソンは、イミナの言葉を完全に無視し、次なる攻撃に移っていた。
「はッ——!」
「————っ」
ハドソンの攻撃は、一週間前から変わらず、その肉体を使ったものに限られていた。
殴り、蹴り——人間に出来る原始的な攻撃方法だけだ。精魂を使った異能どころか、ナイフすらも使おうとしない。
だが、攻撃の威力は人外のそれだ。ただの拳がコンクリートを抉り、仮に人の肉体を穿ったのならば、確実にその命を奪うだけのエネルギーを有している。
幽霊であるイミナには、
幽霊と人間の戦いとは、即ち一方的なワンサイドゲームだ。
イミナはそれを正しく理解していた——だからこそ、即刻に取るべき行動を取ることも出来た。
「……!」
ハドソンの放った拳はイミナを捉えることなく、そのまま床へと叩きつけられ、そこら一帯に巨大な亀裂を生み出した。そして彼が顔を上げると、その時、すでにイミナは姿を消していた。
つまり、逃走。
戦闘では不利でも、追いかけっことなれば、幽霊と人間の立場は逆転する。この世に確たる存在を持たない霊体が本気で動き回れば、生身の人間がそれを捕捉するのは至難の技だ。
「……気配も消したか、女狐めが」
忌々しげに呟いて、ハドソンは空ぶった右手を振り、立ち上がった。
ふと、周りを見る。
文化祭に来場していた一般客達——彼らは突然の異常事態に、それぞれがそれぞれの言動で、困惑を露わにしていた。
皆が皆、信仰に無縁な顔をしている。
この善良な一般市民の中に、首から十字架を下げている者など一人もいない。
(まずは悪霊と霊媒師連中だが——無神論者どもめ、お前たちも同列だ)
後で、この学校にいる人間は皆殺しにしてやろう。
いや、死を前に十字架を手に祈るやつがいれば、見逃してやってもいい。
狂気と凶暴性に満ちた心にそう呟いて、それからハドソンは、口元に邪悪な笑みを浮かべた。
悪霊が姿を消すならば、
鼠を追い詰める算段を立てながら、ハドソンは騒めく衆目の中、雲のようにその姿を消した。
自らの肉体を背景と同化させ、不可視のものにする——隠遁法と呼ばれる、基礎的な術の一つだった。
*
「…………そんな」
目の前の光景を前に、僕は言葉を失う他無かった。
新築されたばかりの高校棟、その二階。コンクリート材質で作られているはずの廊下、その一部分が、ひび割れ、二十センチは凹んでいる。
「
「……はい」
津久茂先輩に言われて、僕は頷いた。
一週間前——エルザスとハドソン、"ジューダス"の二人に襲われた時だ。ハドソンの踵落としだったか、その攻撃の衝撃をモロに受けた道路のアスファルトが、ちょうどこんな具合に破壊されていた。
五分ほど前。
驚くほど人の入ってこない展示教室の中、一人悶々と答えの出ない思考に陥っていた時、僕は津久茂先輩に呼び出された。
「高校棟で騒ぎが起こっている。何でもスキンヘッドの大男が、一人で訳のわからないことを喋りながら暴れたそうだ」
そして、連れてこられたのがここ。
三角コーンとガムテープで作られた、簡易的な"keep out"の外側。今のところ、何が起こっているのかも分かっていないであろう野次馬たちの中、僕らはおそらく、ほとんど唯一の当事者だった。
「……これが恐らく、あのハドソンの馬鹿力によるものだったとして……」
「襲われたのはあの女だろうな。ハゲ頭が一人で騒いでたってのも、説明がつく」
イミナさんは普通の人間には姿を見られる事がない。
仮にハドソンがイミナさんと相対していたとして、戦闘の中、いくらか言葉を交わしていたとしたら——いや、交わしていなくても、周囲から見ればそれは、ハドソン一人の大暴れだったはずだ。
「じゃあ、まさかイミナさんは……」
最悪の想像が頭をよぎり、僕は反射的に口元を抑える。
しかしそれを聞くと津久茂先輩は、すぐに首を横に振った。
「いや、無事だろ。一週間前みたく、お前みたいなあからさまな足手纏いがいるならともかく、あの女が単体で、ただの人間から逃げられない筈がない」
「そ……そうなんですか?」
「あれが本気で姿を隠せば、誰にも見つけられねーよ」
とはいえ、と津久茂先輩は顎に手を当てた。
「そうなると、ハドソンの方も別の方法を取ってくる筈だ。奴の目的はあの女だけじゃない。お前や、俺も恐らく殲滅対象——」
「……じゃ、次は僕らが狙われると?」
「多分な。あるいは八百萬や小山と先に遭遇すれば、そっちと戦闘になるだろうが——その場合の心配はするだけ無駄だろう」
それは——僕にも納得出来た。
霊媒術のことを教わるようになってから理解出来たのだが、オカルト部に所属する先輩たちは、誰も彼も化物みたいな人だ。
自分の手で彼らの扱う術を扱おうとして初めて、彼らがどれだけ難しいことを、息でもするようにやっているのかが分かった。
僕なんか、精魂に体を支えてもらって宙に浮くくらいが精一杯だ。
例えば一週間前に見た、手から炎を出して攻撃するとか——あんな、まんま奇跡って感じのもの、出来るようになるまでどれだけかかるか分からない。
それを踏まえて言わせてもらえば、八百萬先輩や小山先輩も——詳細は省くが——僕からすると及びもつかないような霊媒師だった。
あの人たちは多分、とんでもなく強い。
もしハドソンと遭遇しても、僕みたいにみっともなくやられてしまうことは、無いと思う。
「要するに今避けるべきは、お前が一人で奴と遭遇しちまうことだな。と言うわけで、俺から離れるなよ」
「わ、分かりました」
「すると、人混みからも離れといた方が良いだろうな」
確かに、と僕も思った。
この学校に侵入しているのがハドソンなら、あいつはギャラリーの量なんて気にする手合いじゃ無い。周りに人がいたのでは、無関係の一般人にも被害が及ぶだろう。
とはいえ今日は年に一度の文化祭だ。
生徒はもちろん、普段はいない一般の来場客も多い。老若男女、様々な人でごった返している。
人のいないところなんて、ほとんど無いように思えるが……。
「中学棟の五、六階だろ。あそこは展示会場になってない筈だ。部室に行けば小山もいる」
「あ……」
そうだった。
中学棟は、正門のある高校棟と違い、地理的に奥まった場所にある。共用棟、渡り廊下を経由して移動することになるのだが、この道のりが非常に面倒臭い。
その上あそこは六階建だ。上の階に行くにしても、エレベーターは一機しかない。だから文化祭中は、五、六階は学校関係者以外立ち入り禁止になっている。
人がいないところと言えば、今はほぼ唯一の場所だろう。
「……でも、どう言うことなんですか?」
と、僕は津久茂先輩の後について歩きながら、尋ねた。
「先輩が言ってた話だと、連中は二週間くらい、手出しはしてこないって、そういう話だったんじゃ?」
「それは間違いない。今のところ奴らは、他の案件で手一杯の筈だ。お前やあの女の脅威査定などろくに進んじゃいない……それは確かなんだが」
「じゃあ——」
「まあ、大方予想はつくが——それは奴に直接聞けば良いだろうな」
そう言って、津久茂先輩は唐突に足を止めた場所は共用等の階段前、まだ目的地には到着していない。
困惑した僕が、彼の視線をなぞるように前方に目を向ける——その瞬間、ゾッとするような感覚が全身を走った。
スキンヘッド。
そして、醜悪なほどに凶暴な笑み。
僕たちがこれから登ろうとしていた階段の踊り場に立っているのは、見違えようも無い——ハドソンだった。
「————ッ」
そして次に、僕は完全に言うべき言葉を失う。
踊り場にいるのは、ハドソンだけでは無かったからだ。
奴の体の前に、一人の女子生徒が立たされていた。
目を閉じ、ぐったりと
「人質——」
津久茂先輩が平坦に呟いた、その単語が状況の全てを説明していた。
こいつ——一体どこまで。
「動くなよ。いや、動いても構わないが、その場合俺は、このか細い体を、盾として使い捨てることを躊躇しないぞ」
狂気的な表情はそのまま、ハドソンは人質を誇示するように言う。
……よく見ると、人質として捕まっている女子生徒には、見覚えがあった。
若干茶色がかっている、肩元で切りそろえられた髪。やや小柄なくらいの体格だが、その反面、制服の襟や袖元から見える身体は程よく引き締まっていて、見るからに活発というイメージを覚えるその美少女は——見覚えがあるどころでは無い。
「知ってるやつか?」
と、僕の思考を見透かしたようなタイミングで、目線すら動かさずに津久茂先輩が訊いてくる。
「……
友達もろくにいない僕が、辛うじてフルネームを把握していた。
僕みたいなやつとは正反対の、模範的な"良いやつ"だと、記憶している——友達関わりのない僕であっても、彼女の、意識を手放した表情に僅かに残った苦痛の痕跡を見れば、軽く怒りを覚えるくらい——誰からも好意的に見られている少女。
「なるほど——ならきちんと、助けてやらないとだな」
津久茂先輩は言うや、その右手に淡く熱を滾らせる。彼の得意とするところの、炎を操る霊媒術——即座にそれを発動させるための、いわば臨戦態勢だ。
しかしその態度が不愉快に感じられたらしく、ハドソンは眼筋をぴくりと動かした。
「……手っ取り早い方をご所望か?なるほどなるほど、確かに悪かった。お前らのような糞餓鬼めらに対して、人質などと余計な手間でしか無かったな」
大袈裟に、芝居掛かった口調で言いながら、その声音にはほんの少しの穏やかさも存在しない。
その人差し指が、宮本の喉仏にめり込むのが、僕からもはっきりと見えた。
「う」、と気を失ったままの彼女が、僅かに顔を引きつらせる。
「しかし戦うと言うならば、この女はもう邪魔だ。今すぐに棄ててしまおうか——」
「ま、待ってくれ!」
たまらず叫ぶ。
この場で力ある津久茂先輩を差し置いて、僕が余計な口出しをするのは憚られたが、そんな場合じゃない。考えより先に体が動いた。
「な、何をすれば良い?何が望みなんだ?」
僕が震えた声で言うと、どうやら機嫌を直したらしい、ハドソンは再び口元に笑みを戻した。
そして唐突に、宮本を捕まえていない方の手を振りかぶった——何かをこちらに投げつけてきたのだ。
反射的に振り向くと、僕らの背面、壁に突き刺さったそれは市販のサバイバルナイフだった。
「御三家の坊主。お前、それで
と。
濁った瞳で、ハドソンは言う。
「な、何を——」
「ああ小坊主よ、お前は死ななくても良い。お前にはあの悪霊のもとへ案内してもらわねばならんからな」
「あ、案内?」
思わず声を上げた僕を、ハドソンは鋭い声で制した——案内?
悪霊というのはもちろんイミナさんのことを指すのだろうが、案内ってのはどう言う意味だ?
「ふん——俺が死ねば、そっちの女は開放してくれるワケか?お前のような破滅主義者が、無辜の無神論者をきちんと生還させてくれると?」
と、困惑する僕の横、津久茂先輩は落ち着き払った声で尋ねる。
いつの間に壁から引き抜いたのか、その左手には、ハドソンの投擲したナイフが握られていた。
「信用できないか?ならそれでも良い」
ハドソンは言いながら、宮本の首を掴んだ手をごき、と鳴らした。
すぐにでも人質は殺せる——そういうアピールだ。
「せ、先輩……どうするんですか?」
自分の声が驚くほどみっともなく震えていることが、自分でも分かった。
ハドソンに捕らわれているのも、究極の選択を迫られているのも、僕ではない。僕だけが放置された、戦力外だ。なのにこの場で、僕が一番恐怖している。
津久茂先輩は左手に持ったナイフの刃を、首元にぴたりと添えた。
実は峰を当てているとか、誤魔化しでは無い。そもそも、ハドソン相手にそんな子供騙しが通じるとも思えない。あのままナイフを下に動かすだけで、津久茂先輩の頸動脈は掻っ切れるはずだ。
その場を冷たい緊張感が支配している。
一触即発の、誰が何をしても局面が大きく変動する、そんな雰囲気に包まれている。
その中で動いたのは、津久茂先輩だった。
「————!」
彼は首に添えたナイフを、思い切り下へ振り切った。
そして辺りに血が飛び散る——ナイフの刃は、ハドソンの指示通りに確かに津久茂先輩の身体を切り裂いた。
ただしそれは首では無い。
切り飛ばされたのは、
「てめぇ一体何をッ——」
ハドソンの声には、僅かながら動揺が滲んでいた。奴から見ても、津久茂先輩のとった行動は理解できないものだったらしい。
そしてそれは、僕の目にも同じことだ。
「なっ……⁉︎」
自分で自らの手を切り落としながら、表情には僅かの変化も見せない津久茂先輩——そのすぐ近く、宙を舞う彼の右手の輪郭が、不意に揺らいだ。
個体としてのその右手は、瞬く間に形を崩し、形を無くした。そして次の瞬間に
気がつけば、辺りに飛んでいた血液すら消えている。
彼の右手だったものは全て、無形の炎へと姿を変えたのだ。
「ぐっ……!」
——そして驚愕する僕をよそに、ハドソンが声を上げる。
そこから余裕は消えていた。当然だろう、右手から変化した炎は、物理法則をまるで無視し、ハドソンへと襲いかかったのだから。
さしものハドソンも、唐突に右手を切り落とすという津久茂先輩の即興劇には気を取られていた。その隙を突く形の炎の強襲に、全く冷静に対応できる筈はない。
その攻撃は、津久茂先輩の意志が投影されたものだった。
人質として、盾にされる形になっている宮本の身体を器用にすり抜け、炎は的確にハドソンだけを攻撃した。
「くっ!」
ハドソンは反射的にその体を仰け反らせ、炎を避けようと後ずさる。
しかし津久茂先輩は間髪入れず、追撃に入った。ハドソンの野太い両腕を掴み、組み合うような姿勢に移行する。
そしてその過程で、人質が奴の腕から解放された。
「み、宮本!」
はっとして僕は、重力に従い階段から転がりそうになった宮本に駆け寄って、その体を支えた。
気を失ってはいるものの、特に危なげのある様子ではない。無事と言って良いだろう。そのことに僕は、とりあえず胸を撫で下ろす。
しかし——津久茂先輩の機転はすごい。
これで状況は大きく動いた。
人質という、少なくとも精神的には最悪の状況を打開したのだ。僕はともかく、彼とハドソンの立ち位置は対等にまで戻ったはずだ。
——だが。
「……っ!」
振り向いた僕の目に映った光景は、とても自分たちが優勢とは言い難いものだった。
脅迫され、身動きの取れない状況から脱した——それは良い。
だが結果として、津久茂先輩とハドソンが直接に組み合っている。あの馬鹿力を相手に力勝負をしている——これじゃあ、不利も不利なままだ。
「く、は、は……惜しかったなぁ。今の炎が、俺の首から上を焼き尽くしちまえば、お前の勝ちだったかもな」
ぐぐ、と津久茂先輩の体を軸ごとに押し返しながら、ハドソンは言う。
こいつの言う通りだった——奇襲としてのあの炎は、ハドソンには
ハドソンにダメージはない。
そして、力比べでは勝ち目はない。
「……しかし今のは体そのものを炎に変質させたのか?面白い術を使うものだ。意味はなかったが」
「——
今にも力負けして、後ろへ倒れ込みそうな津久茂先輩の言葉には、しかし、一片の乱れも怖れも存在しなかった。
「今の炎は、別にお前を攻撃するために放ったんじゃない」
「……何?」
「はっきり言おう、お前の負けだ。確定的にな」
津久茂先輩が、そう不敵に言って。
次の瞬間——世界が変わった。
「…………っ⁉︎」
僕らのいる、この階段の周り一帯——それそのものが、恐ろしい勢いで
灰色の塗装をされた床が、別のものに入れ替わるように、たちまち真っ白に変色した。コンクリートの壁はぐにゃぐにゃと見る間に形を変え、その一部が、僕らの前方と後方を塞いだ。
「何だっ⁉︎」
ハドソンの声が閉じた空間に響く。
まるでこの場所自体が揺れ動いているようだった。直線落下する自動車内に突っ込まれたような気分だ。
僕は理解不能な現象の中にただ混乱を抱えていた。対照的に津久茂先輩は、眉ひとつ動かさずに、いつの間にかハドソンとの組み合いから逃れ、僕の近くに戻って来ていた。
「せ、先輩!何なんですかこれ⁉︎」
「害はねえよ、安心しろ。それにもう終わる」
「終わる、って——」
と、僕が焦り散らした声で返した、その瞬間——唐突に、目の前の光景が揺れ動くのをやめた。
そして、世界の変質は完了していた。
白。
そして、均一。
僕たちは、白塗りの壁に囲まれた、正方形の部屋の中にいた。
扉も窓も存在しない。部屋というか、箱みたいだ。こんな場所……少なくとも学校の中に元からあったものじゃない。
「炎は攻撃のためじゃない。俺たちの居場所を知らせるためのものだ」
落ち着き払った声で、津久茂先輩が言った。
「知らせる、って……誰にですか?」
「この学校の
「守護神——?」
一体何を言ってるのかと、詳しく尋ねようとして、僕はその言葉を飲み込んだ。
目に入ったからだ。
今の今まで脅威そのものとして場に存在していた男の——無残な姿が。
「が——ぐ、ぁ……」
耳に響く、ハドソンの声。
その表情は苦悶に歪んでいる。
それもそのはず——ハドソンは、その体を何十本もの槍に貫かれていた。
いや、槍ではない。
真っ白なそれらは、この部屋の壁から突き出るように伸びてきたものだ。腕、脚、腹、胸、首——身体のあらゆる箇所を、サイズも太さもバラバラに、的確に突き刺されている。
あれでは、ピクリとも動けないだろう。
単純にその苦痛を考えても体を動かすどころでは無いだろうし、それ以前に、関節も何も全て固められている。
「うっ……!」
胃液の逆流を感じて、口元を押さえた。憎むべき敵とはいえ、体中から血が滲んだその様相は、日常の中突然見せられるにはあまりにグロテスクだ。
しかし、吐き気を催している時では無い。僕は意地のようなもので胃液を押さえ込んでから、慎重に辺りに目をやる。
「おいおいそんなに気を張るな。もう終わったんだよ、安心しろ」
そんな僕の様子を見て、津久茂先輩はひどく緊張感の欠けた声で言ってきた。
「終わったって、これ一体……津久茂先輩が何か、霊媒術を使ったってことですか?」
「いや、俺じゃねえよ。こいつは——」
「——私の力よぉ」
と、不意に会話に新しい声が割り込んだ。
とはいえ新しい脅威というわけでは全く無くて、むしろ聞き慣れてさえいる声だ。
「お……小山先輩」
知らぬ間に、僕の後ろに立っていたのは、小山先輩だった。
いつも通りの、ちょこんとした小柄な年上——しかしその雰囲気は、気のせいかもしれないが、冷たい感じがする。
「その女の子はレンちゃんの彼女ぉ?」
と、開口一番にそんな事を訊いてくる小山先輩。
僕が体を支えている、気を失ったままの宮本を見ての発言だった。
「え、いや違いますけど。あのー、クラスメイトです。うちのクラスの委員長で……」
「そこの男に人質に使われてたんだよ。被害者だ」
要領を得ない僕の言葉を引き継いで、津久茂先輩が端的に説明した。
そう、彼女は被害者だ——精魂の世界とは無関係な。
「ふぅん。で、その男がジューダスのうちの一人ってわけねぇ——おい、津久茂!てめぇあと二週間は襲ってこないとか言ってなかったかコラ⁉︎」
「キレんな、うるせえ。俺じゃ無くてそいつに聞けよ」
と、顎でハドソンの方を示しながら、津久茂先輩は面倒臭そうに言った。
ハドソンは——少なくとも生きてはいる。身体中穴だらけだが、急所は外されているらしく、喋る事も出来るだろう。
「あ、あの、
「うん、そうだよぉ」
「何なんですか、これ?これも霊媒術なんですか?」
と、これは率直な疑問。
僕が教わった霊媒術というのは、確かに常識の外の魔法のような力だ。
しかし、それは精魂という存在が発生させる、あくまで現実の現象だ。体を浮かせたり、炎を発生させたり——そう言った、精魂でなくても道具やらを使えば再現可能な、そんな感じの。
だが、今起こった事は規模がおかしい。
整理してみよう——小山先輩は、「僕ら合計四人を見たこともない部屋に移動させて」、「その部屋に音もなく現れて」、「部屋自体の形を動かして」、「ハドソンを串刺しに」した。
物理法則どころではない、次元とか空間とか、そういうレベルの超常現象が起きている。
「私はねぇ、霊媒師ってわけじゃないのよ、レンちゃん」
「霊媒師じゃない……って、だって、これ霊媒術じゃ無いんですか?」
「私は
「と、土地神……?」
首を傾げる僕の横、津久茂先輩が溜息をついた。
「文字通り、土地を守る神様のことだ。由緒ある土地には
津久茂先輩が驚くって——土地神っていうのは、それほど凄い存在なのか。
「この辺り半径約五百メートル——学校のほぼ全域が、私の
言いながら、小山先輩は串刺しにされたハドソンの方へ歩みを進める。
「壊れたものは治るし、どんなものでも壊せる。思うままのモノを生み出すことも出来る。生死さえも、この学校の中なら自由自在に」
「き、さま……!」
屈辱に歪んだ顔で、ハドソンは唸った。
それを見下すようにして、立ち止まった小山先輩は、勝ち誇るようにその胸に手を置いて、にっこりと笑った。
「津久茂が炎を壁にぶつけただろ?それが私へのサインだったのよ。"異常事態発生"ってな——分かるかハゲ頭。ここに入ってきた時点で、テメェの負けだったんだよ」
ふと僕は、彼女の口調が、津久茂先輩を相手にする時のような、荒々しいものに変わっていることに気付いた。
相手がハドソンだからだ——"同い年以上の異性"。
——僕のいる場所から、角度的にギリギリそれが見えた。
小山先輩の、伸びた前髪の隙間から覗いた瞳。そこには明らかに、人間に向けるような感情が宿っていない。そうやって、ハドソンを見下ろすように浮かべた笑顔は——酷く凄惨な表情だった。
小山舞美。
この先輩も——オカルト部の部員たちは、一筋縄では語れない。
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