第3話:九十九の火

 上空ではなお冷える空気と、より明るく輝く月明かり。そして重力圏外に体を支えるイミナさんの腕が、僕を包む全てだった。


 下を見ると、人間一人ひとりが蟻以下の大きさにまで縮んでいる。察するに、今僕が——僕たちが飛んでいる高度は地上から五百メートルほどのところだろうか。

 その事実をようやく頭の芯で理解して、ゾッとした僕は慌ててイミナさんの首に腕を回した。


「い……イミナさん、どうして」


 この"どうして"には、あらゆる疑問が含まれていた。


 どうして触れることは叶わないはずのイミナさんが、僕の体を抱えて飛んでいるのか。

 どうしてイミナさんはこんな上空を飛べるのか。

 どうしてそもそもあの二人組は、いきなり僕たちを襲ってきたのか——とか。


「幽霊は自分の意思で人間に触れることはできない——あの言葉に嘘はないわよ」


 イミナさんはいつになく真剣な、いささかの戯けも無い表情と口調で話しを始めた。それだけ彼女も、この状況に危機感を抱いているという事だろうか。


「幽霊である私から貴方に干渉ことはできない。でも、人間である貴方自身の強い意志があれば、私に触ることは出来る——」


「そっ——そんな、ことが」


 あの時、差し出されたイミナさんの手に触れることが出来たのは、僕は無意識に、イミナさんの手による救いを強く求めていたのだろうか?


「だからレンくん、私の首に腕を回したなら、"離さない"と強い意思で思い続けなさい。この上空で私の体をすり抜けたら、命は無いでしょ」


「っ……!」


 背筋にひやりとしたものを感じて、僕の腕に力が入る。


「で、でも——今までそんな話、聞いたこと無かった!」


 顔を打つ強風とそれによって暴走する髪の毛のせいで、上手く口が回らない。いつも通りの敬語を使う余裕も無くなり始めていた。

 イミナさんはそんな僕の状態を汲み取ってくれたのだろう、ツッコむことなく話を続ける。


「今までの生活で、貴方が私に触らなきゃ困る場面はなかったでしょ——でも、だからさっきのは賭けだったのよ」


「か、賭け?」


「あの初めてのタイミングで、貴方が私の手を掴んでくれなかったら——あるいは、貴方の心に私に身を委ねられるという意志が欠けていれば——私は貴方の手を引くことは出来ず、あそこから逃げることは叶わなかった」


 もしかして、という考えが僕の頭をよぎる。


 あの時僕は試されたのだろうか。僕に、イミナさんを信頼する心があるのかどうかを。

 その試験に僕が合格したからこそ、今僕は生き延びていて——イミナさんは、安堵しているのだろうか?


 だとすれば……僕が「試験」に合格できたのかどうかは、実のところ分からない。


 確かに僕は、イミナさんの手を掴むことが出来た。そこにはイミナさんの手に触れようという意志が存在したのだろう。


 だが、それを果たして信頼だと断言して良いものか、僕には判断しかねるところだ。

 客観的に見ても、僕はあと少しで死ぬところだった。そこに僅かでも「可能性」という手が差し伸べられたのなら、それがイミナさんでなくても、掴んだんじゃないか?


 僕が身を委ねたのは、イミナさんか、単に「助かるための可能性」だったのか、どっちだ?


「……あの二人は」


 結論など望むべくもない鬱々とした思考から逃避すべく、僕は半ば無理矢理に話題を転換する。


「あの二人組は、何者なんですか?どうして僕は襲われたのか……イミナさんは知っているんですか?」


「狙われたのは多分私の方ね」


 言いながらイミナさんは溜息をつく。実際のところそれは、日常的なものでは無く、この状況への殺意とも呼べそうな感情が混じったものだったが。


「彼ら自身で言っていたように、彼らは悪霊退治の専門家——私のようなこの世有らざる者、、、、、、、、をこの世から追放する、そういう連中よ」


「この世から追放、って……」


 物騒な物言いに僕は顔をしかめるが、確かにあの二人組の暴力的な言動は、その表現にはぴったりに合っている気もする。


 しかしその事実は同時に、差し迫った危機の大きさを証明もしていた。


「とにかく、奴らが目的を達成することは、私の完全な消滅を意味する。貴方もどうなるか分かったものじゃ無い」


「……!」


 そうだ、確かにあの二人——少なくともハドソンと呼ばれた大男は、明らかに僕の生命に対する配慮を持ち合わせていなかった。事実僕は、彼らの「標的」は自分だと勘違いしていたのだ。


 そうこうしているうちに、気付けば僕らは住宅街圏内から出て、ビル群の上空を飛んでいた。

 下を歩く沢山の人々からの目撃を避けるためだろう、イミナさんは飛行高度を大幅に上げた。それに伴って、僕の腕にも力が入る。


「……何で急に、あんな奴らが……!」


 叫んだのは、この状況に対する愚痴に近かった。


 イミナさんと共に過ごした十年で、僕はあんな連中に出逢ったことは無い。

 そりゃあ幽霊が実在するなら、世に言うゴーストバスター的なモノもあるのかと考えたこともある。正直に言えば、学園バトルモノのような状況を妄想したこともあるにはある——だが、こんな突然で物騒な展開は待ち望んじゃいなかった。


 こんなもの。

 死んだらすべて終わりじゃないか——と。


 その時突如、水平に保たれていた体がぐらついた。

 それはつまり、僕を支えるイミナさんが体勢を崩したことを意味している。


「な、あっ⁉︎」


 情けない声を上げる僕の目には、イミナさんの透き通るような皮膚を破り、滴り出る鮮血が映っていた——傷?

 幽霊である彼女が?


 考える間もなく、支えを失った僕は真っ逆さまに落ちていく。


 ここは東京の高層ビルより上だ。当然死を覚悟したが、しかし結果としては、僕が百メートルの高さからコンクリートに叩きつけられることは無かった。

 運が良かったのか、すぐ下にあった高層ビルの屋上に落下したのだ。五メートルほど落ちたぁろうか——それでも安全な数字とは言えないが、まだマシではあっただろう。


「ぐっ!」


 背中を打ち付け、その衝撃で息が詰まる。右肘のあたりには、コンクリートで擦ったのだろう、やや重めの擦過傷が出来ていた。


 ぼやけた目を精一杯開くと、すぐ近くに、くるりと回転しながら体勢を整え着地するイミナさんが見えた。

 澄まし顔をしているが、その肩からは見間違いではなく、血が流れている。


「イ……ミナさん、一体何が」


 僕が掠れた声で困惑を口にしようとしたその瞬間、イミナさんの右手が、弾かれたように鉄製の手すりに叩きつけられる。

 見るとその手のひらには、小さな刃物が突き立てられていた。深々と貫通したその刃が、手すりにイミナさんの右手を固定しているのだ。


「——ちょこまかと逃げるな、女。成仏のきわくらい潔くしたらどうだ」


「……!」


 声のした方を見ると、そこには巨漢のスキンヘッド——ハドソンが立っていた。隣にはブロンドの髪をなびかせるエルザスも立っている。


 そんな馬鹿な——こいつら、一体どうやってここまで追いついてきたんだ?


 実態のない幽霊が空を飛べると言うのは、都合が良い気もするが理解できる。イミナさんは普段も浮遊しているのだから。

 だが、こいつらは生身の人間だ。僕らは少なく見積もっても、一キロメートル以上の距離を飛行したはずなのに……。


「そこを動くなよ小坊主!」


「!」


 威圧感の乗った声で叫ばれ、僕は金縛りと言う感覚を理解する。なるほどこれは動けない——この状況でも意識は嫌になるほど明瞭だが。


「まず、そこの女を消してやる。次にお前の両足を折る。逃げられないようにな。その後に、このビルから逆さ吊りにして殺してやる」


「おい、ハドソン——」


「てめぇは黙ってろ!」


 咎めるようなエルザスの声を、しかしハドソンはがなるような大声で押さえつけた。

 その衝突しているようにも見える様子に、僕はますます混乱する。


 どういうことだ……?こいつら、仲間じゃ無いのか?


「俺たちの仕事は何だ、エルザス?」


「少なくとも一般人の虐殺では無い。イカレ、、、も大概にしろ!」


「イカレだと?俺らの仕事は異端討伐、、、、だ。そしてそこの小坊主は異教の国の猿だ!殺して何が悪いっ⁉︎」


 指をごりごりと鳴らしながら、ハドソンはその巨体から見下ろすようにしてエルザスを睨む。

 一方でエルザスは、冷や汗の一つもかいてはいない。ただその瞳に小さな、軽蔑に似た感情を宿して、一言「クズが」と呟いた。


「ふん」


 ハドソンは鼻を鳴らし、手すりに囚われ身動きの取れないイミナさんの方へと歩みを進める。

 宣言通りに彼女の方を先に「退治」するつもりらしい——僕は声の限り、叫びを上げた。


「イミナさん、逃げてください!」


「……無理ね」


 イミナさんは応える——しかし、その声には言葉の内容に反して、相変わらず一片の焦燥すら含まれていないようだった。


 そんなイミナさんの首を、ハドソンの太い手ががっしりと掴む。


「……!」


 こいつも、幽霊であるはずのイミナさんに触れることが出来ている。

 いや、そうか……人間の側からなら、その意思次第で幽霊に触れることができると言うのは、つまりこう言う場面、、、、、、において、人間のみが一方的に幽霊を攻撃できるということだ。


 それなら、イミナさんが僕にその特徴を話さなかったのも理解できる。一方的な自分の弱点を教えるようなものなのだから——信用とかそれ以前の、最低限の線引きだったのだろう。

 それこそ、こんな非常時でなければ崩せないボーダーラインだ。


「化物のような女だ——売女めが。貴様も、貴様を慕う人間も、揃いも揃って罪人だ。手ずからに滅ぼさねばな」


 まるで狂気としか表現出来ない表情を浮かべ、ハドソンはいよいよその指に力を込める。だが何故か、イミナさんはその表情を一切変化させることなく、冷淡な鉄面皮を保っていた。


 ——刹那。


 イミナさんとハドソンの間に空いた、僅かな十センチほどの隙間を、突如何か、、が埋め尽くした。


「何っ……!」


 赤く揺らめいていた。煌びやかに光を放ち、橙色に搭載された熱気の渦。明らかにイミナさんを「守る」形をとったそれは、ハドソンに襲いかかる。

 身を包まれる寸前、間一髪でその巨体の胴を捻り、ハドソンは危険地帯から脱した。


「貴様は……!」


 ハドソンの右手を焦がし、イミナさんを守ったそれは、紛れも無い、明らかな"炎"だった。

 しかし同じくらい明らかに、その炎は自然のものでは無い。何らかの意思すら感じられる、自立した動きを保っている。


 この窮地に取り敢えずイミナさんを守った炎は、ゆらゆらと浮遊したまま戻って行く——この場所に新たに現れた、人影の元へ。


「——フー……」


 は一体いつからそこにいたのか、向かい合った僕らとハドソンら二人組、そのちょうど中間のあたりに立っている。

 口元に咥えた煙草から紫煙が立ち上り、その先から数粒の火の粉が落ちた。


「さすが神の使者ども——人間様の道理を知らねえな」


 炎に照らされ、顔が分かる。いや、顔など見るまでもなく声を聞けば分かった。は、僕がよく知る人間だ。

 皮肉がかった物言い、低血圧が心配になる声音、不機嫌そうな三白眼と、オールバックの黒髪——、


「津久茂……先輩」


 そう、そこにいたのは、間違いなく津久茂先輩だった。

 ついさっきあの公園で、ハドソンの拳をもろに喰らい、口から血を吐いていた——きっと死んだんだろうと、悲観していた。


「……いったい、何が?」


 僕の声には、しかし純粋な喜びというものは宿っていなかった。

 再会を喜ぶには、彼の様相には不穏な違和感が目立っている。


 第一に、イミナさんをハドソンの手から守ってくれたのは津久茂先輩なのだろうが、しかしその手段——自在に動く炎。それはおよそ人間には不可能な、超能力や魔法によって起こされる域の現象だ。

 それに彼は、この短時間で僕らに追いついたどころか、高層ビルの屋上にまで到達している。


 異能という領域。

 それは——今明確な敵として存在する、二人組にも共通する特徴で。


「……貴様、霊媒師、、、だったのか。きちんと殺しておくべきだったかな」


 ハドソンは忌々しげにそう言って、右手を軽く振る。すると、その手を包んでいたはずの炎が一瞬で、たかった虫でも追い払うかのように消えてしまった。


「で、お前は何をしに出てきたんだ?一人で俺らを相手にするつもりか?」


 ハドソンのその不遜な態度は、おそらく戦術的意味のある挑発などではない。単なる「事実」だ。


 津久茂先輩が——何が何だか分からないが——「戦力」としてここに加わってくれた上でも、構図は二対一のままだ。不利であることに変わりはない。


 ……少なくとも素人目には、そのはずだったのだが。


「やめだ、ハドソン」


 そう言って相方の大男を制止したのは、他ならぬもう一人の「敵」、エルザスだった。

 怪訝そうに振り返るハドソンに、彼は言葉を続ける。


「その男、おそらくツクモ、、、の家系だ。霊魂の感触に覚えがある」


「……ツクモ?御三家ごさんけの?」


「日本の霊媒師の中でも、彼らは特殊な術を使う。前にツクモの流れを汲む老人と戦ったことがある——酷い目にあった」


 エルザスの視線が向いているのは津久茂先輩の方向だ。

 危険度の査定——今彼は、目の前に現れた毒蛇の種類を絞り込むような、用心に彩られた目をしている。


 一方で僕は、"何が何だか分からない"という、蚊帳の外にも近い混乱の中を依然彷徨っていた。


 ツクモというのは言うまでもなく津久茂先輩の名字だが——御三家、と言うのは聞き覚えがない、というか意味の分からない単語だ。

 何だ?こいつは一体、何を話してる?


「何だお前、ジジィとやり合ったことがあるのか。そりゃあお気の毒だな」


 津久茂先輩は特に緊迫した様子もなく、世間話でもするような調子で返した。


 一方、エルザスは既に退却という雰囲気だ……こいつは一体、何がしたいんだろうか?


 ハドソンは分かりやすい。何が何でもイミナさんと——僕をブッ殺すという強い意志が伝わってくる。乱暴な、危険な男だ。

 だがエルザスは、どうも仲間であるハドソンを制したり、今だって一見容易く僕たちの前から退却しようとしているなど、理性的な面も多い。最初に遭遇した時も、回りくどく一般人を装って話しかけてきたし……。


 何にせよ、本当に僕らの前から消えてくれるなら助かるのは確かだ。しかしはっきりとした意図が感じられない、それでいてこちらに都合のいい行動というのは、逆に不気味だった。


「——退く、だと?」


 ようやく口を開いたハドソンの声は、しかし明らかに納得から出たものでは無かった。


「甘えもいい加減にしろよ貴様——罪人どもを前に退くだと?戦えば負ける?こんな糞餓鬼に負けると⁉︎」


「負けるとは言わん。だがこちらも無傷では……」


「それは貴様が臆病な愚図だからだ!」

 

 怒号。それと同時に、ハドソンは再度行動を開始していた。

 ビルの屋上を蹴っての跳躍。コンクリートに亀裂が入るほどの衝撃に押され、その狂気的な目で見据えた対象——つまり次の攻撃対象は、津久茂先輩だ。


「……!」


 津久茂先輩は自らに攻撃が向いたことを察するや否や、唇を動かし、咥えた煙草を前方へと飛ばした。

 宙を舞う煙草からこぼれる火の粉——視認に足るかどうかの小さいものだ。しかし、次の瞬間にそれは膨張し、爆散した。


 僕の目の前で起こったこと——爪先ほどの火種が、一瞬で人一人に匹敵する巨大な炎に変身したのだ。炎はそのままに唸り、その体で津久茂先輩を囲い守るような形をとる。さながらそれは、龍のようにも見えた。


 明らかに津久茂先輩という人間の意思で、自然を超越した現象が巻き起こる。それは魔法だった——煙草が地面に落ちるまで、コンマ一秒のうちに起こった魔法。


「しゃらくせえっ!」


 殺人拳と豪炎の衝突。僕から見ればそれはすでに、悪夢でも見ているような——目を逸らしたくも逸らせない、光景だった。


 だが僕は、まさにその時、遠巻きながら拳の圧力や炎の熱とは違った「何か」を感じ取った。説明出来ない、ただ酷く恐ろしげなものを。


 殺意としか形容できないモノのぶつかり合い——その外側から発せられた、驚異的な「何か」に気を取られ、僕は一瞬二人の激突から目を逸らした。


 その逸らした目を二人の方へ戻して、僕は驚愕する。

 ハドソンの両腕が、、、、、、、、消えていた、、、、、


「がっ……あぁ……⁉︎」


 津久茂先輩がやったんじゃない。彼の攻撃手段はあくまで「炎」だったはずなのに、ハドソンは火傷一つ負っていない。

 事実津久茂先輩も、自分の意思とは無関係のその現象に目を剥いていた。


 何よりも、彼の両腕は消えたのではなく、斬り飛ばされた、、、、、、、のだ。


 刀や剣など誰も使っていない。何も無いのに斬れた、としか言いようがない。しかし目に見えない、確かに存在感のある「何か」がハドソンの腕を斬った。

 

 そして、飛ばされた両腕を器用に片手だけでキャッチしたのは——エルザスだった。


「——お前は確か治癒術を使えなかったな、ハドソン」


「……!エルザス、貴様……っ」


 痛みと失血に顔を青くしたハドソンが、精一杯であろう怨恨を声に乗せる。しかしエルザスは、表情一つ変えず——つまり冷酷な鬼のような顔のままで——言葉を続けた。


「そのまま我儘を通しても良い。だがその場合、俺は両腕を失くしたお前の援護などせん。勝手に負けて死ね」


 ハドソンの両腕の切断面からは、止めどなく血が滴り落ちる。刻一刻と、命のリミットさえ近づいているのは誰の目にも明らかだ。


「くそ……!」


 唐突に、ハドソンの強烈な視線が僕の方へ向けられる。その刺すような殺意を直に浴びて、思わず息を呑む。

 今の彼がエルザスの言うことを聞かざるを得ないのは明らかだった。その事実に対する忌々しさが、そのまま本来の「敵」である僕に向けられたのか——こんな、これだけで人を殺せるような視線を。


「消えたか」


「……え」


 津久茂先輩の声で、僕は我に帰る。辺りを見回すと、既にエルザスもハドソンもここにはいなかった。


 いつの間に消えて……いや、これもあいつらの、なんらかの魔法みたいな力の一つか?


「……津久茂先輩、ホントに煙草吸ってたんですね」


 ちらりと、この場の救世主とも呼ぶべき人に目を向けて、僕は言った。


「こいつに有毒物質ニコチンやタールは入ってねえよ。ミント系のハーブを紙で巻いたニセ煙草だ。頭がスッキリするのさ」


「…………」


「そんな目で見るな、神に誓ってヤバいもんは入ってない。まあ……ココアシガレットみたいなもんだな」


「……怪我は?」


 若干訝しむようになってしまった声で、僕は訊く。

 最後に見た時、彼はその骨格を盛大に歪ませ、口から血を吐いていたはずだ。しかし今は、見たところ五体無事の健康体としか言えない。

 僕が見たものが幻ではないと、彼の口元に付着したままの血が辛うじて証明しているくらいだった。


「お前こそ、腕から血が出ているな。治さないのか」


「治す……?」


「なるほど、本当に何も知らないんだな」


 ……この人は何を言っているのだろう?

 この人は、何者なんだ?

 

 今は去ったあの二人組と、この人だけは話が通じていた。僕を守ってくれたあの炎にしても、まるで異能の力としか言いようがない。

 今更敵としてあからさまに警戒したりはしないが、それでも引っかかるような不安が残るのは、自然なことだろう。


「俺は霊媒師だよ」


 声に出さないそんな疑念に答えるように、津久茂先輩は言った——霊媒師?何だそれ?


「詳しいことは場所を変えてから教えてやる。それより、さっさとそこの女の手枷を解いてやったらどうだ」


「女の手枷って……あ」


 言われて、僕は未だ身動き取れずにいるイミナさんの存在を思い出す。

 彼女のことが頭から離れてたのは、少し反省……あまりの緊迫感や恐怖やらで、我すら忘れていたんだから仕方ないとは思うが。


 ともかく僕は、屋上の鉄柵に固定されてしまっているイミナさんの元へ駆け寄る。腰が抜けかけているし、杖もあの住宅街に落としてきてしまったので、実際駆けたりは出来てないが。


「イミナさん、大丈夫ですか?」


「……無事と言えば無事。今はこの小包丁をどうにかしたいけど」

 

 イミナさんは自身の右手を縛る、「手枷」に目を流した。どうも幽霊である彼女には痛みは無いらしいが、動かないんじゃ大問題だろう。

 そうだよな、まずはこれはどうにかしなくちゃならないか。


「つってもこれ、どうすりゃ良いんだ……?」


 見れば見るほどよく分からないものだった。普通武器として使う刃物は(いや武器には限らないか?)、使用者のための持ち手があるものだろうが……これには両刃の短い刃渡りしか存在しない。手裏剣みたいだ。


 僕はともかく、刃で自分の手を傷つけないようにその刃物を掴んで、思い切り引いてみた——単純で馬鹿みたいな行動だったが、結果、いとも容易くイミナさんの枷は解けた。


「って、何だこれ……?」


 引き抜いた刃物は、瞬間、崩れるようにして形を無くしていく。持っている時には確かに質量もあったはずの固体が、まるで蒸発でもしているようだった。


「ありがとう、助かったわ」


「あ、はい……手、大丈夫ですか?」


「ほら」


 そう言ってイミナさんは、僕の前に貫かれた手のひらを差し出した——すでに傷は塞がれている。

 さっきの武器の正体が何なのかは分からないが、ああいう特殊なものを使わない限り、やはり幽霊、人間の常識的な概念は通じないらしい。


 ともかく僕が胸を撫で下ろしていると、ふと足元に、からんと音を立てて何かが転がってきた。

 概ね僕の身長の半分ほどのそれは、見ると、先程住宅街に置いてきてしまった杖だった。


「ここに来る途中に拾った。それがなきゃ困るだろ」


「ああ……ありがとうございます」


 礼を言って、僕は杖を掴み立ち上がる。

 厳密には僕が失っているのは右の"足先"だけなので、立ち上がるくらいのことはできるが、それにしたって手慣れたこの杖を失くさずに済んだのはありがたかった。


 というか、僕が公園に置いてきてしまった津久茂先輩のバッグも、彼はちゃっかり回収したようだ。


「さて、行くか」


「あ……そう言えば、場所変えるって、どこに行くんですか?」


 まあ、こんな他人のビルの上で長話をする訳には行かないのは理解できるが、それならどこなら良いんだろうか?

 僕の家?いや、津久茂先輩の家?


「何言ってる、オカルト部の部室だよ——俺たちの共通の場所は、あそこしか無いだろ。そこで諸々、全部説明してやる」


 僕は左手首の腕時計に目を落とした……あ、ガラス割れてやがる。いやそれは今問題じゃなくて。

 

 機能は生きているアナログ時計の針が示している時間は、午後十一時。教員も全員帰ってる時間だ。

 いくら在校生とて、こんな時間に学校に入れば間違いなく不法侵入が適用されるだろう……何というか、今日は、ベクトルは違えど、色々なリスクを冒さなきゃならない日らしい。


 ……実際見つかったらシャレにならないが、大丈夫なんだろうか。

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