98.言葉にしよう

 表面上、九月は穏やかに過ぎていった。


 次元の谷にいるという詩織のことが気にかかってはいるものの、萌香には時折小さな声のようなものが聞こえる以外、なんの手がかりもつかめてはいない。スマホを通して糸を詩織につないでみようと試みてみたものの、今のところうまくいかないでいる。

 ただ、あの手紙をきっかけに常に調査員が萌香のそばにいることになった。

 変化があった時、情報をいち早くつかむため。そして萌香自身を守るため。


「ごめんな。こんなことくらいしかしてやれなくて」

 調査員としてアルバートを任命したパウルが申し訳なさそうな顔をするが、萌香はとんでもないと首を振る。

「十分です。パウルさん、ありがとうございます」

 そう言って隣にいるアルバートに笑顔を向けると、アルバートも深く頷いた。



 イチジョーの海辺でアルバートの求婚を受けた萌香だが、両家の賛同があるにもかかわらず婚約には至っていない。案の定、彼の祖母である女王からの「待った」が入ったのだ。

 本来、王家に連なるとはいえ第三子のアルバートはもとより、本物のエリカであることがわかった上、第二子である萌香エリカの婚姻に親以外が口出しをすることなどできない。あくまで家の問題であり、本人の問題だからだ。

 表向き女王からは『せめて年が明けてから』と言われている。

 なぜかについては言われていないが、イチジョー家でもダン家でも、これがエアーリアの件があったとき、王家としては萌香を利用したいからだということがわかっていた。

 ことが起こってみなくては分からないものの、王太子の後妻、もしくはリュウオーとの何かを考えると、今本物のエリカである萌香が婚約や結婚をするのは困るのだろう。


 イチジョー・エリカという存在は、個人だけど個人ではない。


 想定していたこととはいえ、もし萌香が最初の求婚の時点でOKしていたらアルバートを困らせることはなかったかもしれない。そう考えた萌香が「アルバートさん、ごめんなさい」と謝ると、アルバートは一瞬硬直したように見えた後、軽く萌香の頬をつまんで顔をしかめた。

「おまえはすぐ謝るの禁止。心臓が止まるかと思っただろうが」

 アルバートの顔は怒ってるように見せているのに、なぜか目が少しうるんでるような幻が見えて、萌香は何度か瞬きをした。実際には涙など全く見えないのに。

 微かに首をかしげると、アルバートから「別れる気はないから」と言われてギョッとする。


「私だってないです。えっ? あ、そっか。ごめんなさい、そういう意味じゃないです。もっと早く私が頷いてればよかったんだって思ったから」

 せめて女王陛下に謁見した後話を進めていれば――。

「でも、もっと早くなんて無理だっただろう? 今了承してくれたのだって、かなり急がせたと思ってるよ」

 実際その通りなので萌香も正直に頷く。

 最初の求婚の時はまだ混乱していた。萌香も、そしてアルバートも。


 海岸で告白された時点でも、まだ萌香として出会って二か月弱なのだ。あまりにも時間が濃密で、それだけしか経っていないことが信じられないけれど。

 それでも時間は関係なかった。萌香の気持ちや感情を抑えていたものを解放してしまえば、彼の気持ちに応えない選択肢なんてなかった。

「本音を言えば、一度や二度はフラれる覚悟だったよ。あきらめる気はなかったけれど、まずは萌香に考えさせてくれって言わせることができれば上出来だと思ってた」

 そう漏らすアルバートに、萌香は優しく微笑む。


「日本に三つ子の魂百までって言葉があるんです。きっと私は小さいころに、アルバートさんのことがしっかり胸に刻まれちゃってたんですよ」

 エリカだった頃の萌香はアルバートのことが大好きだったのだから、エリカに戻った今、また彼を追いかけたくなるのは当たり前だったのだと思う。実際に追いかけてくれたのは彼のほうだったけれど。


 アルバートが本気で想ってくれるのが伝わったから、萌香も生半可じゃない気持ちで応えた。本気で向き合うことを決めてしまえば、今まで経験したことのない想いで胸がいっぱいになる。

 萌香は絵梨花で、絵梨花は萌香なのだと、なお一層実感した。

 それでもやっぱり、できることなら彼を面倒に巻き込みたくない気持ちは強い。

「でもね、アルバートさん。もし私のことが面倒だと思ったらいつでも離れて下さい。大丈夫。縛り付けたりしませんから」


 それは萌香のどこまでも正直で本気の気持ちだったけれど、アルバートは怒ったように目をギラリと光らせた。

「おまえね。――くそっ。どうしたらわからせることが出来るんだ? 二度とそんなことが言えないくらいに、俺をおまえに刻み込もうか」

 低く響く声で片手を腰に回され彼に引き寄せられた萌香は、彼を怒らせてしまったという気持ちと、アルバートの言葉と瞳に映る熱量のようなものに戸惑い、少しだけ涙が浮かぶ。

「本気で離れたいわけじゃないだろう?」

「当たり前です。でも、私のことでアルバートさんを苦しめるのも嫌」

「――俺が苦しいのは、おまえから締め出されることなんだけど?」


 苛立たし気にしながらも低く抑えた声はどこか甘く響き、萌香は微かに目を伏せる。明らかに自分が間違ったことを言ったのだと分かったけれど、彼の瞳に浮かぶ熱に目を合わせられなくなったのだ。

 ドキドキして苦しくて、でも同じくらい嬉しくて、どんな顔をしていいのかも分からない。

「ごめんなさい。怒らせるつもりはなかったの」

「だからすぐ謝るな。怒ったわけじゃないよ。少し自分が情けなくなっただけだ」


 アルバートが苦笑を漏らしてから手をはなすと、少し間があってから萌香の頬に軽く口づける。

「俺達にはたくさん言葉が必要みたいだから、たくさん話そう。俺もできるだけ言葉にするよう努力するから」

 萌香が小さく頷いてアルバートの手に触れると、彼はすかさず指を絡め、大事そうにきゅっと萌香の手を握った。


「萌香。大事にするから。おまえが俺を必要ないって言わない限り離れる気はないし、ぜったい泣かせたりしない。約束する」

「でも」

「でもも禁止。俺はおまえの為なら面倒ごとだって大歓迎だ。本気でおまえと生涯を共にしたいと思っているんだよ。信じてほしい」

 アルバートにまっすぐ見つめられ、萌香は少しだけ逡巡した後「はい」と頷いた。

「私もアルバートさんのことを大事にします」

 まじめにそう言った萌香にアルバートが面白そうに眉を上げるので、思わずふふっと笑いがこぼれた。


「私、男の人にこんな風に接してもらったの初めてなんです。今の時点でもすごく大切にされているって感じます」

「本当に?」

「うん。本当。――もっとたくさん恋をしてきたら、もう少し上手に色々できたかなぁなんて思ったりもするんですけど」

「いや? 思った以上に初心うぶで、俺は嬉しいけどね?」

 どことなく余裕が出たように見えるアルバートは、何がきっかけかは分からないが、萌香が実は恋愛らしい恋愛をしたことがないことに気づいたのだろう。その面白そうなアルバートの顔に萌香が怒った振りで頬を膨らませると、彼はクスッと笑いをこぼして萌香の頭を撫でた。


「おまえは大切にされる価値がある。今まではおまえ自身が気付かないでいただけだ」

 そう言って指先に軽くキスをするアルバートに赤くなるが、萌香は(じゃあ、その価値に見合うように頑張ろう)と密かに決意をした。


   ◆


 九月の間、元々の予定通り萌香はミモリ家に通った。

 子守り兼教育係のメイドも無事復帰したため、もともとの仕事である客間メイドとして働いている。ミモリ家では九月に夫婦それぞれに客人が多く、もともとの客間メイドが今年家庭の事情で急に嫁いだためのピンチヒッターだった。


 泊まり込む必要はないためダン家から通うものの、送り迎えは調査員としてアルバートが行い、ちょっとした彼の仕事もミモリ家でしているようだ。

「私がダン家にいて、アルバートさんが実家ではなくアパートって少し変じゃないですか?」

 ダンスの練習を毎日していることもあり夜は必ずダン家にいるのに、なぜかアルバートは毎日自分のアパートに帰る。それを不思議に思ってそう聞いてみると、

「俺の部屋は別の件で使ってるからね」

 と笑われてしまった。結婚前に同じ家にいるのもよくないだろうという理由もあるらしい。なのに、

「なんならおまえもアパートに住む?」

 とからかわれ、萌香はしどろもどろになってしまった。

 そのうちこんなことも軽やかに切り返せるようになるのだろうか?



 女王からの待ったが入ったとはいえ「付き合うな」とまでは言われてない。だから両家公認の恋人としてお付き合いをしている二人だが、萌香の中ではどうしても秘密のような意識が強かった。

 だからでオーサカ屋で外食をしたり料理教室をしたりする以外、二人で外を歩いたりもしない。


 それを変えたのがユリアたちだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る