97.蚊帳の外

 萌香がポカンとしていると、カイが焦ったように「あちゃあ」と手で額を抑えた。

「エリちゃんがドン引きしてる」

「ああ、やっぱりコントか何かでした?」

 アルバートとカイはずいぶん仲良くなったんだなぁと萌香が笑うと、「コントちゃうわ!」と軽く怒られてしまった。


 なぜかカイが一人オロオロしているように見えるが、一体いつからそばにいたのだろう? というか、なぜアルバートはカイに叱られているのだろう?

 カイがアルバートの肩を抱き、小声で何か小言のようなものを言っているのは分かるが、アルバートも何か反論をしている。

 ぽつんと一人残された萌香はしばらく首を傾げ、まあいいか、と立ち上がった。

「なんだか私はお邪魔みたいですし、先に帰りますね」

「ちょちょ、ちょっと待って、エリちゃん。もちょっと話そうか」

「えー」

「えーじゃありません。今帰られたら、おっちゃん泣く!」


 ――カイさん、泣くんですか。


 (絶対嘘だ)と、わざと白けた顔をした萌香にカイが苦笑しながら隣に座り、一つ隣のベンチにアルバートは追いやられてしまった。

「あんな、エリちゃん」

 萌香に話しかけたものの、どう話そうか考えるように首をかしげるカイに萌香も首をかしげて見せる。しばらく何も言わないので、萌香は再びラピュータを見ることに専念した。昨日の朝まであそこに住んでいたと考えると、やっぱり不思議な気がする。


「ねえ、カイさん」

「うん?」

「島が浮かぶって、やっぱり変な感じですよね。私最初、ガリバー旅行記の世界に来たかと思いましたよ」

「ガリバー? あれは小人の国じゃなかったか?」

「そうですよ。その後巨人の国に行って、空飛ぶ島ラピュータ、それから馬の国に行くんです」

「はあ、知らんかったわ」

 目を丸くするカイに、萌香はにっこり笑う。その向こうにいるアルバートと目が合って少しだけドキッとしたけれど、何でもない顔で再び空を見上げた。


「ここは、スウィフトの描いたラピュータとは全く別の世界ですけどね」

「まあ、そうやろな。違う世界。――だからな、色々違うよな。日本とも」

 改めてそんなことを言うカイを見ると、突然彼から、「エムーアでは恋人になるにはどうするか知っているか」と聞かれ、萌香は首を傾げた。

 長子だと、基本的に親に婚約者を決められるのは知っている。

 それ以外だと――

「ナンパ?」

 たしかメラニーたちとレストランでランチをした時、そんな話をしたはずだ。


「それはきっかけの一つやな。こっちだと、二人で食事したり出かけたりして、周りに一緒にいることをアピールをするのが、すなわち付き合ってるってことらしいねん」

「へえ、曖昧なんですね」

 顔をしかめた萌香に、カイは訳知り顔に深く頷く。

「せやろ? やっぱ日本人としては、好きです、付き合ってくださいがないとイヤやんな?」

「ですね。私、ここに来る前に付き合ってると思ってた人がいたんですけど、まさに、それがなかったから勘違いしたんですよ。彼に俺の好きな人ってまわりに言われて、でも私は直接言われたことは一度もなくて……」

「でもエリちゃんとしては彼氏だと思ってた」

 その言葉にこくりと頷く。

 しかもキスまでされて、勘違いしないほうが変だと思うのだ。

「結局、自慢げに好きな人が出来たって報告されたのが最後なんですけどね。その人には告白したのかなぁ。ま、どうでもいいですけど」

 顔もロクに覚えていない男だ。二度と会うことはないのだし、今となれば心底どうでもいい。


 本気でそう思っている萌香の頭を、カイがガシガシッとなでた。

「でもなぁ、エリちゃん。ちょっと驚くこと教えたるわ」

 そう言って耳元に口を寄せたカイの言葉に、思わず萌香は「えっ⁈」と大きな声を出してしまった。それにアルバートが思わずと言った風に立ち上がるが、カイに座れと言われ、もう一度渋々座る。

 萌香はそんなアルバートをじっと見て、「あ、じゃあやっぱり、さっきのは空耳……」と呟いた。


 カイが教えてくれたのは、エムーアでは男性が女性に好きだの愛してるだの言うのは、恋人や夫婦になった後、ベッドの中でだけだという習慣だったのだ。

「驚くやろ? 俺、全っ然気にしないでメリに好きだって言いまくってたから、メリに教えられて仰天したねん」

 若いころの奥さんに、はっきり好きだと言いまくっていたカイに、萌香は「メリさん、幸せ者」とにっこり笑う。今も仲良さそうな夫婦は、見ていても幸せになる。

 カイも自慢気に胸を張って見せるのが可笑しくて、萌香はクスクス笑った。

「じゃあ私は、一生聞くことはなさそうですねぇ」


「今聞かせたばかりだろう」

 怒ったような顔のアルバートが来て、萌香を挟んで反対側に座る。よく見れば、彼は首まで真っ赤なことに気づき、萌香は再びポカンとした。

「えっ?」


 何を聞いたのかよくわからず、通訳を求めるようにカイを見ると、カイは頭を掻いて少しだけ同情するようにアルバートを見た。

「そのにいさんとな、習慣の違いについて話してたわけよ。で、エリちゃんのことが好きなら、好きです、付き合ってくださいって言わなあかんっちゅう話をしたわけ」

「えっ?」

 カイはいったい何を言っているのだろう?


 萌香は背後のアルバートから緊張感が伝わってきて、正直怖くて振り向くことができない。

「なのに突然結婚なんて言い出すからびっくりしたわ」

「仕方がないだろう。それじゃ、いざって時に萌香を守れない!」


 アルバートの強い口調に、萌香は深く息を吐いた。

 デズモンドのことも、これから萌香が聖女かもしれないことで起こることも、あくまで萌香の問題なのだ。アルバートにはなんの責任もない。

 そんなことをじっくりと説明する。

「絵梨花は戻ってこないから、私がエリカだから、求婚者の真似もしなくていいってことも了承してくれたでしょう?」

「した。だから改めて萌香に求婚してる」

「私は絵梨花じゃない」

「絵梨花ならむしろこんなこと言うか!」 

 訝し気に萌香がアルバートを見上げると、後ろからカイがポムポムと萌香の頭を軽く叩く。


「エリちゃん。ややこしいのはわかるけど、ちゃんと話を聞いたりや。にいさんは、ちゃーんと萌香ちゃんに話をしてる。ほんまは分かってるんやろ。鈍い振りせんでもええねん」

「でも!」

「俺はええと思うけど? 前に日本に異世界人が来たらって話をしたやん? でも、元々事情が分かってて、なおかつその世界にも本人にも興味があるなら話は別やないかな? ――まあ、もし泣かされるようなことでもあれば、責任もって俺がいい男探してくるから、今はまじめに話聞いたげて」

 そう言うと、こっそり萌香の耳元で「ここで生まれ育った男がエリちゃんに告白するのが、どれだけ勇気と気合いが必要だったかは分かってあげてな?」と早口で囁くと、カイは「先戻ってる」と手を振って去って行く。


 改めてアルバートと二人きりになると、あまりにも自分の心臓の音がうるさくて萌香は耳をふさぎたくなった。

 沈黙が続いて、酸素が足りない気分になる。

 アルバートも同じなのか、大きく深呼吸をした。


「萌香」

「はい」

 視線は感じるものの、萌香はうつむいたまま顔を上げることが出来ない。

 守ってくれなくてもいいと逃げ出したい気持ち半分、彼の気持ちを聞いてみたい気持ち半分。甘えちゃいけないという気持ちと、彼の手を取りたい気持ちまでが心の中でせめぎ合う。自分でもどうしたらいいのか分からなかった。


「――俺は、萌香が好きだよ。樹の上で萌香に初めて会って、最初精霊だと思ったんだ。見惚れた。同じ顔なのに絵梨花だなんてまったく思わなかった。同じ人間だって分かっていても、俺にとっては違うんだ。それだけはまずわかってほしい」

 低く懇願するようなアルバートの声に、萌香は頷く。

 思い切って顔を上げてアルバートを見ると、彼の顔は一見怒ってるようにも見えるくらいこわばっていて、それでも萌香と目が合うとホッとしたように目元が緩んだ。


「俺は萌香を守りたい」

「でも」

「しっ。今は俺の話を聞いてくれ。――お前が一人で頑張ろうとしていることも分かってる。だから兄貴になろうと思った。お前が頼ってくれるならそれでもいいかと。でもダメなんだ。兄貴みたいな存在じゃ、いざというとき何もできない。外にはじき出されて何もできず、手をこまねいていることになることが、この先きっと出てくる。俺はそんなこと、きっと耐えられない」


 萌香はふと、父が入院していた時の出来事を思い出した。

 同じ病室だった人の容態が急変し、でもその人の恋人は奥さんじゃないからそばに行くことが出来ないと泣いていた。彼女のほうはまだ大学生くらいで、婚約さえしてなかっただろう。まだ中学生だった萌香は、紙切れ一枚の差をその時初めて知った。


 萌香を見つめるアルバートの目は真剣なもので、からかうような色はどこにもない。

 カッコいい人だなぁとぼんやり考える。声も素敵で、見た目も素敵で、面倒見がよくて。

「アルバートさんは素敵すぎて、私にはもったいないです」

「なんだよ、それ」

「だって世の中、私より素敵な女性だらけですよ」

 喉の奥のほうがギュッと痛んで、涙が出そうな気がした。


「私なんかアウトランダーもどきで、聖女かもしれなくて。調査対象ならまだ協力できます。でも、でも、ぜったい面倒なことが起こるもの! 私はアルバートさんを巻き込みたくない!」

「いくらだって巻き込めよ!」

「やだ」

「頑固だな。お前に巻き込まれるなら、むしろ歓迎だって言ってるんだよ」

 怒ったように、呆れたように。

 アルバートは手を上げ、萌香のこめかみのあたりにそっとあてる。


「おまえは、俺の知らない世界を見せてくれるだろ?」

「それは、そうかも、しれないですけど……」

 そういう意味なら、彼にとって価値があるのだろうか。彼にとって面白いものが一番近くで見られるという意味では。

 そう考える萌香の考えを読んだかのように、アルバートは呆れたように皮肉気な笑みを浮かべた。


「俺は萌香が欲しい。誰にもやりたくないし、触れさせたくない。こんなに誰かを欲しいと思うのは、生まれて初めてなんだよ」

 そのかすれた声に、萌香は思わず息を飲む。

「誰かと付き合っても、一緒にいれば楽しいけれど、仕事で離れている間に女が離れることは多かったし、それを気にしたこともなかった。執着したことが一度もないんだ」

「……それ、ちょっとひどくないですか?」

「ひどいかもな。でも俺は、その程度の関係しか築いたことがないんだ。――でも萌香は違う。離れてる間、気が狂いそうなくらい声が聞きたかった。会いたかった。お前が俺から離れるなんて考えたくもなかった。俺のものじゃないって分かってる。でも、お前が好きだった男の顔が今もちらつく。俺が萌香の好みじゃないことくらいわかってるけど、お前から少しでも好きだと言われれば有頂天になった」


「私の好み?」

 アルバートの熱っぽい視線と声にくらくらする。それでも萌香の好みじゃないという部分に首をかしげると、アルバートは「年下で可愛いタイプ」と言うので、萌香は「ああ」と呻いた。


「あれは、カイさんとの言葉遊びみたいなものです。あの時はヨウさんと真反対の人を言っただけです」

「でもあの男は」

 アルバートの指摘に萌香は一条修平の顔を思い浮かべ、たしかに彼は可愛い系の顔だったなぁと思った。

「彼は一つ年上でしたし、別に顔が好みってわけでもなかったです。私、見た目の好みはそんなにないんです」


「じゃあ、どういう男が好みなんだよ」

 彼の少し拗ねたような顔が可愛くて、萌香の顔に自然と笑みが浮かぶ。不思議と心が落ち着き、アルバートの顔がまっすぐ見られるようになった。

「それは、一緒にいて楽しい人。声が素敵な人。優しくて頼りになる人」

 萌香にとって、好きになった人が好みの人だ。


「ねえ、アルバートさん。絵梨花のことは? 一度も惹かれたことはないですか?」

 萌香の質問に、アルバートが一瞬ぐっと詰まった後、「一度もないと言ったら嘘になる」と早口で言った。その言葉が、萌香の最後の鍵を開けてしまった。


「ありがとう、嬉しいです」

「嫌じゃないのか?」

「全然。だって絵梨花は私だもの。絵梨花は嫌いで萌香は好きだと言われたほうが信じられないですよ」


 ――絵梨花。完全な片思いなんかじゃなかったよ。


 絵梨花のRが運命の人なら、萌香の運命の人はアルバートでもいいのだろうか。

 心の赴くまま、素直に好きになってもいいのだろうか。


「じゃあもし、また私と絵梨花が入れ替わったら、絵梨花と結婚しますか?」

 萌香が少し意地悪な質問をしてみると、アルバートは「ないな」と首を振る。

「やっぱり違うから。もし今目の前に絵梨花がいても、萌香とは間違えない自信があるよ」

「本当に?」

「本当に」

 まるですでに萌香の偽物を見たことがあるかのように、アルバートが自信があるように頷く。


「でも、デズモンドには私と絵梨花の区別がつかないんですよね」

 いつどこに現れるか分からないストーカーのことを口にしただけで、萌香はぶるっと全身に震えが走る。そんな萌香にアルバートは「大丈夫だ」と囁いた。

「詳しいことは言えないけれど、あの男はある重罪を犯し、外には出られない。――大丈夫。お前とはかかわりのないことだよ」


 アルバートの厳しい表情に、萌香はその罪についても、本当に外に出ないのかも聞くのはやめた。ただ彼の言葉を信じようと深く頷く。

 彼に迷惑をかける可能性が一つ減った。重要なのはそちらのほうだと思い、改めてアルバートを見つめた。じっと見つめ、覚悟を決める。


 もし萌香ではなく、彼のほうに何かあった時。アルバートが兄の親友だという今の立場で、何もできずに自分が蚊帳の外に追い出されるのは嫌だと思った。それは嫌だと、心の底から思った。


「アルバートさん。私、好きになったら絶対よそ見はしませんよ。もう自分の気持ちにストッパーなんてかけません。重いって言われても知りませんから」

 頑張って萌香がイタズラっぽく微笑んで見せれば、アルバートは呆然とした後「むしろ願ったり叶ったりだろ」と、かすれた声を出す。


「私が甘えても嫌じゃないですか?」

「嫌じゃない。何かしてほしいなら、言ってくれた方が嬉しい」

「じゃあ――もう一回好きって言ってほしいです。男の人から告白されたの生れて初めてなんですもの」

 嘘じゃないって実感したい。


「好きだよ、萌香。本当に好きだ。二人きりの時だったら、これから何千回何万回だって言ってやる」

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