90.昼寝(アルバート視点)
「うまかった。ありがとう」
正直なところ、萌香に無理をさせてしまったという気持ちもあるが、風変わりな昼食ですっかり満たされたアルバートは、心の底から感謝の言葉を述べた。
萌香がこれほど料理が得意だとは思ってなかった。だが自惚れでなければ、彼女がアルバートを喜ばせたいと考えてくれたことがよく分かる晴れやかなその笑顔に、体の奥底から愛しさがこみあげてくる。
――まずい。このままだと抱きしめてしまう。
もしくは素早くキスしてしまおうか?
そんな一瞬の妄想を振り払い、バスケットをしまいに自動車のドアを開けた。
もし下手なことをして彼女に嫌われたら――。そんなことを考えただけで、胃の奥が大量の石を飲み込んだかのように重くなる。
――こんなこと、今まで考えたこともないのにな。
こっそりため息をつきつつ、しまったバスケットの代わりに薄手のブランケットを手に取る。振りむくと心地いい風の中、うっとりと風景を見ている萌香の目は予想通り眠たそうにトロリとしていて、その愛らしさにアルバートの目じりが下がる。
肩の力が抜け安心しきっているこの姿を、絶対に守りたいと思った。
「萌香。まだ時間は十分あるから、少し休んどけ」
近道をした上、外食ではないから給仕の時間が省かれた分、まだ十分余裕がある。
面白そうにブランケットを受け取った萌香は、いたずらっぽく目をきらめかせた。
「お昼寝はすごく魅力的ですけど」
「時間になれば起こしてやるぞ?」
「外で寝るのって、お行儀的に大丈夫なのでしょうか?」
エリカとして、淑女として。
当たり前の行動が分からないとき、冗談のように萌香は聞いてくる。
その気安い感じは彼女の信頼を得ていると感じられ、少しだけホッとした。
「俺しかいないんだから、構わないだろう」
だからいつものように気楽な感じで答えてやると、萌香は眉間にしわを作って、子どものように少し難しい顔をした。彼女の中で何かを天秤にかけているようで、それが少々面白い。
迷いを払えるよう、手本を見せるように腕を枕に寝そべって見せる。
「兄貴の言うことは素直に聞いておくものだぞ」
そううそぶいて見せれば、萌香はクスクス笑ってゆったりと体を伸ばした。
その無防備さにドキリとすると同時に、少しだけ良心が咎め目を閉じる。
親兄弟でもない男の前で横になるなど、本来あってはならないことだ。
これは、以前足を見せる意味を教えただけで真っ赤になった萌香には、断じて教えるわけにはいかない。少なくとも今はダメだ。
今は純粋に彼女を休ませたい。自動車の後部座席や姉の家より、今自然に任せた方が十分休めるはずだ――と思う。
彼女はさっき俺を兄と呼んだんだから大丈夫だ。
そう自分を納得させて片目を開けてみると、萌香がこちらを見ているのでドキッとした。
「アルバートお兄様、子守歌を歌ってください」
子どものようにニコッと笑われ、思わず吹き出す。
「なんだそれ」
「歌を聞きながらなら、すごくよく眠れそうな気がするんです」
ふわっとした話し方なのは、彼女がすでに半分眠りかけているからだろう。
「エムーアの子守歌とか……あ、流行の歌とかあるなら聞いてみたいなぁ……」
「ふむ。流行の歌ねぇ」
実のところアルバートは、歌うことが嫌いではない。仕事のきつい現場での緊張緩和や酒場など、たまに歌うこともある。ただし男相手にだ。
今まで恋人相手にさえ歌ったことがないなとぼんやり考えるていると、萌香に「アルバートさん、だめ?」と聞かれ、半身を起こした。
「それくらいのおねだりなら可愛いものだよ、おちびさん」
あえて萌香を小さな子ども扱いすると、とりあえず最初に浮かんだ歌――去年流行っていた歌を歌う。
それは遠くにいる「君」を想い、応援する詞。
聞く人によって「君」は家族だったり、友人だったり、あるいは恋人だったりするのだろう。
あまり大きな声ではなく、側にいる萌香の耳に心地いい声量を心がける。
「アルバートさん、やっぱりいい声……」
ふにゃっとしたその声は、まるで寝言のように、独り言のように。
「こんな声で歌われたら、意中の女性は……イチコロよね……」
萌香は囁くようにそう言ってすうっと寝入ってしまった。
きっと、アルバートに聞こえているとは気づいていない。そんな素の無防備さだ。
――だったら落ちてくれよ。
アルバートは思わず頬杖をついて苦笑する。
――こんなことでお前が俺を見てくれるなら。少しでも同じ想いを返してくれるなら。一生、それこそ嫌って程歌ってやるのに。
無意識にこぼれたらしい萌香の言葉は、アルバートの求婚を完全になかったことと考えていることが分かる。もしくは――忘れてしまったのか。
そう気付いてしまうと胸の奥を刃物で抉られたかのような痛みが走り、息がうまくできない。
あれは絵梨花ではなく萌香に言ったんだと、彼女に信じてもらうにはまだまだ時間がかかりそうだ。実際アルバート自身、あの頃は二人を同じ人物、変わってしまった絵梨花だと思っていた部分があったのだから、たぶん仕方あるまい。
「今なら、たとえ二人並んでても、見分ける自信があるんだけどな」
『絵梨花が戻ってきたときのためのことは、もう考えなくてもいいから』と、明るく言い切った萌香。彼女がここで生きていくことの覚悟を感じたことで、ますます萌香の孤独に触れた気がした。二人が同じ人間でありながら、違う世界で違う生き方をしてきた違う人間だとはっきり認識したからだろうか。
風に吹かれて萌香の口にかかってしまった髪を払ってやる。
指先に触れた滑らかな頬と唇の柔らかさに一瞬硬直したけれど、意志の力を総動員して手をはなす。
「枕がないと寝にくいか?」
萌香が自分の手を枕に横向きに寝ている姿に、ふと、腕枕をすることをいたずらめいた気持ちで想像する。
萌香は驚くだろうけど、怒らない気がする。たぶん。なんとなく……。
――でもしばらく口をきいてくれなくなりそうだ。
目が覚めて腕枕をされていたことに気づいたら、真っ赤になってアルバートから逃げる姿が容易に想像できた。でも状況が状況なら楽しいだろうが、せっかく会えたのに今それをやられたら、自分が心底後悔することも分かる。
それでいて万が一、「お兄様だから別に平気」みたいな顔をされても、間違いなく落ち込む。
――いや、むしろその可能性のほうが高くて試す気にもなれない。
「ああ、くそっ」
小さく毒づき、再び自動車から小さめのクッションを持ってきて、萌香の頭の下に差し込んでやる。萌香はすっかり寝入っているらしく、全く目を覚ます気配がなかった。
安心できる場所を作れていることの誇らしさと、疲れてるんだなという労りの気持ち。なのに彼女からまったく意識されていない虚しさに、少しだけ遠い目になった。
可愛くて可愛くて、少しだけ憎たらしい。
生まれてはじめて生殺しの気分を味わいながら、ごろりと仰向けに転がる。
ちょっとしたことで世界を手に入れたかのように有頂天になったり、地の底にたたきつけられたかのように落ち込んでみたり。
アルバートは、生まれてこの方味わったことのないような感情に振り回されている。
ふとした時に浮かぶのは、萌香の笑顔や何でもない会話ばかり。
それは苦しくてたまらないのに、同時に言いようのない幸福感もあって、自分が自分ではないみたいだ。一人の女に振り回される男を見ては常々不思議に思っていた真実が、自分の元にも訪れたことに戸惑い、なぜか妙に誇らしく、それでいて少しだけ恐ろしくもあった。
自分もデズモンドのようになってしまったら……。
一瞬そう考え、有り得ないと首を振る。
デズモンド対策だった絵梨花の求婚者役を、もうしなくていいと言われた時。誰かが例のことを萌香に教えてしまったのかと思ったが、彼女の様子からそれはないと気づきホッとする。
だが萌香が、面倒ごとをすべて自分で抱え込もうとしていることに気づき、正直ため息をつきそうだった。
もう恋に狂ったあの男のことは心配ない。
そう教えてやりたいが、タイミングを間違えると気に病みそうなので悩みどころだ。
――絶対何があったか知ろうとするだろうしな。
あの茶会以降も、イチジョー家にはデズモンドの求婚のカードは届いていた。しかもそれは段々とエスカレートし、そろそろ結婚の準備をしなければならないという具体的な内容になっていたという。
デズモンドの中ではアルバートの存在も、茶会での出来事もなかったことになっているようだ。
イチジョーからはデズモンドの実家に再三の抗議をしたものの、家を出ているデズモンドがどこにいるのか分からないと、なんとも頼りない返事が来ただけだという。デズモンドは早くに両親を亡くし祖母の養子に入っているため、抑えが利かないようだ。
美しく、優秀な後継者だったはずなのに――。
とうとう匙を投げたのか、デズモンドは勘当したので好きにしてくれという、投げやりなカードが届いたという。
事態を重く見たイチジョーは、ロデアの本宅もラピュータの別邸も明らかに警備を厳重化して見せ、萌香、もといエリカがまだ実家にいるように工作されていた。
しかし萌香がアルバートの姉のところに泊まり始めた日の夜。
ダン家にデズモンドが侵入して捕まった。
どういうわけか、萌香が名を変えて就職していることを知ったデズモンドが、深夜萌香の部屋に侵入したのだ。
もちろんこれは、萌香の身の危険を感じたイチジョー家に協力したダン家が仕掛けた罠だ。実際に使われたのは、萌香の部屋とは逆方向にあるアルバートの部屋。
ほぼ使われていないことと場所的にもちょうどいいだろうと、女性らしい部屋に仕立てられた部屋に、まんまとデズモンドは現れた。
捕らえられた時、彼の所持品は首も簡単にはねられそうな大きなナイフや拘束具、催眠作用があるとされる薬などがあった。
『エリカ。僕の女神! 貴女は僕のものだ。僕以上にエリカを愛する男なんているはずがない。エリカ、出ておいで。一緒に行こう。その髪一筋だって、誰にも渡すものか!』
目を血走らせた彼の口からは聞くに堪えない妄想が次々に吐き出され、萌香が寝ているように見せかけていた枕はずたずたに引き裂かれる。
警護部隊に拘束されたものの、一瞬の隙をついて振り切られた。
デズモンドの行く手を遮ったアルバートは、怒りを超えて妙に冷たくなった心でその喉にこぶしを叩き込む。致命傷にはならないが、思わず膝をつく程度の絶妙な力加減。だがそのあと腹に、もう一発こぶしを入れるのは忘れなかった。
愛を語ったその口で、愛する当の女を傷つけようとする男の姿に虫唾が走る。
めちゃくちゃに破壊された部屋も、デズモンドが何を言い何をしたかも、絶対萌香に知られたくないと思った。絶対傷つけたくないし、悲しませたくない。
どう説明すれば、この話を避けて萌香を安心させることが出来るのか。
それでもデズモンドは殺人未遂の現行犯。しかもその相手は
あの男が太陽の下に出てくることは二度と出来まい。
そもそも今回の出来事も、アルバートが休暇を取らざるを得ない事情ができたから現場にいられたわけだが。ある意味、自分を殺しかけた精霊の存在に感謝するべきだろうか……?
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