91.ヴィレーニア(アルバート視点)
エムーアで一番質の悪い精霊はヴィレーニアだと言われている。
異変調査の中でも、アウトランダーとつながりがある場所は要注意で、この精霊に命を奪われた、もしくは奪われかけた調査員も少なくはない。
現場の調査員に女性がいないのはこのヴィレーニアが女を嫌うからで、まず命の保証ができないことが大きい。
そしてもう一つ。男性であっても既婚者は現地調査ができない。嫉妬深いヴィレーニアは既婚者の伴侶の姿をとり、誘惑し、命をからめとるからだ。
大抵結婚をすると現場を離れざるを得ないのは危険が大きいからだが、これが大きな理由の一つだと知るものはあまりいない。世間では迷信だと思われていることも多いだろう。
しかし数日前、アルバートが地底湖の奥でめぼしい品を丁寧に保管機に入れ、湖を戻ろうとした時のことだ。
暗い水の中。小さな灯りと勘を頼りに、相棒が持っている命綱を辿っていく。
それはいつもと同じ作業だったはずなのに、気付くとアルバートはどこかの建物の中にいた。
――ここは?
水中にいたはずなのに、自分が潜水着ではなく普段着であることに気づく。
個人の家だろうか。大きな木枠の窓が並んでいる廊下だった。ガラスのようなのに外が見えないが、夕方らしく赤い光が斜めにさしている。左手にある板のようなものに触れると、それは音もなく横に滑り、その奥が部屋であることが分かった。床に触れてみると、何か植物を編んだものを敷き詰めてあるようだ。
そのとき風が吹いた。
一瞬目を細めると、白い花びらが室内にハラハラと舞い散る。
その向こうに萌香がいた。
ワンピースはくるぶしまである長さだが、前で重ね合わせるだけの簡易な造りだ。ウエストをゆるくリボンを結んだだけのようで、胸元が大胆に開き、歩くたびに膝上あたりから下がチラチラと顔を出す。裸足のつま先はうすいピンク色の爪の形まではっきり見えた。
それは完全に親密な――夜の姿だ。
彼女がまとめていた髪のリボンをほどくと美しい髪が風に広がり、ふわりと甘い匂いがした。
唇は蠱惑的に赤くアルバートを見て嬉しそうに弧を描く。
『アル』
当たり前のように胸に飛び込んでくる
「違う。おまえは萌香じゃない」
現実としか思えない甘やかなその感触に、意志の力を総動員して彼女を押しのけ、アルバートに甘えるような姿から目をそらした。その姿はあまりにも魅惑的で、泣けてくるほど「ありえない」と思うのに、あらがうことが正しいのかだんだん分からなくなってくる。
萌香ではない。かと言って絵梨花でもない。
ここがどこなのか、それさえ霧がかかったように分からなくなる中、それでも目の前にいるのが自分の大事な女性ではないことだけはわかる。
知らない場所。似ているのに違う誰か。
急激な孤独感に襲われ、無性に萌香に会いたくなった。――いや、萌香の元に「帰りたい」。そう思った。
自分を見てくれないことに焦れたのか、萌香ではない萌香の手がアルバートの頬に優しく触れた。
『ねえ、アル?』
甘い声。あの茶会でだけ呼んでくれた、親密な呼びかけ――。
思わずアルバートの口から盛大にため息がこぼれる。
「萌香は俺を、そんな風に呼んではくれないよ」
今思えば、エリカを演じていた絵梨花を、さらに演じていた萌香(なんてややこしいんだ!)。
アルバートはあの時すでに萌香に心捕らわれていたのに、彼女はただ演じていただけ。演技でしかそんな親密な呼び方をしてはくれないし、絵梨花とはまた違う大きな壁を作っている。
そんな虚しい気持ちでニセモノの萌香の手を外すと、拗ねたように唇を尖らせて見せた。
『私じゃダメ?』
――まいったね。これはいっそ、本人から同じことを言わせてみたいなんて思ったじゃないか。
絶対言わないだろうけど、と苦笑して、懸命に口づけを求めるニセモノを遠ざけた。
「ダメに決まってるだろ。俺にとっての萌香は一人だけなんだよ」
カッとしたようなニセモノの顔。
同時に白い閃光に目がくらみ――――
気が付くと水を吐き出して激しくせき込んでいた。
溺れかけていたところを、異変に気付いた相棒が仲間を呼んで辛うじて救助されたのだ。
パウルに「ヴィレーニアだ」と告げると、彼は驚いたように目を瞬かせた。
アルバートは独身だ。だからこれは、本来有り得ない事態だった。
でも状況から、それはまごうことなき事実。ヴィレーニアは、アルバートの呼吸器を引きちぎっていた。それは特徴的な、まるで噛み切ったかのようなあと。
それでもアルバートがヴィレーニアを受け入れなかったために、辛うじて命を取られずに済んだのだと考えられた。
しかし今のままでは、アルバートは現場で働くことはできない。
原因が分かるまで他の男にも危険が及ぶ可能性を考えれば、調査続行自体が不可能だ。
死にかけたことから、少し長めの休暇を半ば無理やり取らされた。仕事はあと一日で終わるはずだったのにだ。
悔しかった。
同時に苦しかった。
――萌香。精霊には、すでにお前は俺の伴侶に見えているらしいぞ。実際は、全く手が届かないのにな。
太いままの自分の指輪を撫でる。
これを半分にして伴侶の指にはめるのは、今までただの古臭い風習としか思っていなかった。でも今は、その習慣がまるで二人の絆を表すように思えるのが不思議だ。
最近の流行りは、小さな宝石を埋めたり、裏側に互いの名を彫ることだという。
――萌香ならどうしたいだろう。
『私、年下で可愛いタイプが好みなんです』
昨夜、ぽろっとこぼれたかのように機嫌よさそうな萌香の声が、またもや蘇る。
スマホにあった男の顔がちらつく。
あの男との口づけを目の前で見てしまったかのような気持ちになり、苦いものを飲み下す。
『……アルバートさんからもらうカードのイラストが、すごく好きで』
『アルバートさん、可愛い』
今朝の会話を反芻し、寝返りを打って萌香の顔を覗き込んだ。
哀れな男心をかき乱す罪な女は、邪気のない顔で幸せそうに眠っている。
好きだと言われた対象は自分の絵なのに、無様なほど心躍ってしまった。
電話にも出てくれないから、カードも読んでないかもとさえ思っていたのに、素晴らしいカードをアルバートのために作っていてくれた。
自分の心をきちんと受け止められているようで嬉しくてたまらなくなる。
今夜もオーサカ屋でパウルと合流することになっているけれど、実のところアルバートは気が重かった。
――嫁に欲しいとか、気楽に言ってくれるな。
カイと萌香の二人が同じ国で生きてきたこと、しかも本来であれば同じ年代を生きていたもの同士であることが、こんなにも心乱すことになるとは思いもしなかったのだ。
カイが萌香と同世代であっても、二人の間に長い時が生まれてくれてよかったと思わずにはいられない。誰も入り込めない二人にしか分からない空気が嫌だった。
自分たちに見せる顔とは違う明るい顔に、正直なところ嫉妬した。
カイが妻にベタぼれなのは明らかだったけれど、それはそれ。息子のヨウが満更でもなさそうだったことに、腹の奥がモヤモヤとする。
調査だと言い訳して、カイと二人で離れた萌香の唇の動きを勝手に少し読んだ。
『やっぱり常識とか日本と違う…………。こんな非常識なの、家族には諦めてもらう……、第三者は巻き込めない……』
ショックだった。
カイが萌香になんと言ったのかは分からないが、萌香は慎重にアルバート達を遠ざけている。巻き込めないってなんなんだ。
厳密に言えば萌香はアウトランダーではなかった。
五歳で絵梨花と入れ替わり、再び戻ってきた、本物のイチジョー・エリカ。
なのに育ってきた環境から、常識も知識も違う。
もし、入れ替わりがなかったら?
――婚約解消も事故もなかっただろう。今ごろフリッツとの結婚準備を進めていたはずだ。
そんなことが確信でき、胸の内に鋭い痛みが走った。
フリッツと婚約していたのが萌香だったら、どんなことをしても奪っていたのではないかと思い、これじゃデズモンドと同じじゃないかと嫌悪感で胸の内がくすぶる。
俺のほうが先に出会っていたのに。
幼い彼女のことなんて何も覚えていないのに、その事実があることに歓喜していた。
昨夜は萌香のカードを何度も見ながら、絵梨花のことを思い出した。
――絵梨花と萌香が同一人物なら、俺に見込みはないかもなぁ。
絵梨花はアルバートを兄同様と言っていたが、男として見たことは一度もないだろう。あれば、「アル。あなたはもう少し、一人の女性を大事にするべきだと思うわよ?」などと、呆れたようには言わなかっただろう。
時々不思議な目をしていた絵梨花。目が合えば、小生意気な態度ばかりだったけれど、あれも演技だったのだろうか?
それでも、深く深く自分の気持ちをのぞき込めば、絵梨花に惹かれそうになった場面が幾度もあり、無意識にブレーキをかけたことがあったことに今更ながら気づき愕然とした。
「くそっ。嘘だろ」
アルバートがいることに気づいてないとき、一人何か考え込んでいた絵梨花を何度か見かけたことがある。柔らかい空気、穏やかな表情、時に切なげな横顔。
自分には決して見せようとしないその顔を、その努力を、アルバートは認め素直に尊敬していたけれど、お互い苦手な相手だと認識していたと思っていた。
それなのに、もし万が一(そんなことあるわけないが)絵梨花から想われることがあったとしても、萌香ではないから、萌香に似ているだけだから、決して想いを返すことができないと確信できるのが我ながらおかしい。
なぜだかは分からない。
でもそうなのだ。
どれだけおかしいと思っても、それだけがまごうことない真実なのだ。
――名実ともに萌香を守れる、第三者などではない立場になりたいよ。
彼女に信頼されたい。時間をかけようと思うのに、萌香が聖女である可能性が高まるにつれ、気を付けないと焦る気持ちが止められなくなる。
「どうしておまえだけ、複雑なことに巻き込まれていくんだ?」
できることなら、丁寧に真綿にくるんだように大事にしたいと思うのに。
どう見ても今の彼女は、未知の世界への細い糸の上を、そろりそろりと歩んでいるようにしか見えない。自分の道がそれしかないかのように。自分以外がそこへ来ることは不可能だとでも言うように。
――いくらだって俺を巻き込めよ。非常識だってなんだって、喜んで全部受け止めるから。
「萌香。俺じゃだめか?」
一番そばでおまえを愛し、おまえを守る男が、俺じゃだめか?
盛大なため息をつきそうになるのを、歯を食いしばって止める。萌香が素直に頼れるとしたら、それはいったい。
「兄貴ならいいのか?」
家族なら仕方がないと、この手をとってくれるのだろうか?
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