89.ピクニック
「じゃあ、そろそろ行くか。今からどこかで昼を食べていけば、ちょうどいいくらいだな」
アルバートが時計を見ながらそう言うので、萌香は慌てて二人を引き留める。
「その前に厨房に寄って行ってもいいですか? 実はお昼の用意をしてるんです」
「ヘディさんが?」
「いえ、私が」
ヘディを手伝いつつ、実は弁当を作っていたのだ。
パウルは一度部屋に戻るというので、急いで厨房に向かう。
「昨夜パウルさんに頼まれたんです。クリステルさんも許可してくれたから広い厨房も使えたし、材料もばっちり」
ニコニコ笑う萌香の頭をアルバートはくしゃりと撫で、顔をのぞき込むように少しかがんだ。
「じゃあ、あまり寝てないんじゃないか。パウルさんも母上も無理を言って」
「大丈夫ですよ。クリステルさんが淹れてくれたハーブティーを飲んだら、朝までぐっすりでしたから。そもそも無理ならいいって言われてたのに、作りたかったのは私のほうです」
仕事のためにはしっかり休もうと思ってたので、朝つらかったら諦めようとも考えていたのだ。結局ワクワクして早起きしてしまったのだが。
朝の打ち合わせで事情を聴いていたらしいヘディも、「ピクニックの準備ですね」とニコニコしていたし、楽しい時間だった。
「ちょっとパウルさん用のお弁当分けますね」
まとめてバスケットに入れていたパウルの分を、一回り小さなバスケットに入れなおす。
アルバートが「パウルさんにはやらなくていいよ。その分は俺が食う」などとブツブツ言いつつ、二つのバスケットを持ってくれたので、「さすがにそれは無理ですよ」と笑いながらたしなめつつ、裏口でパウルに小さい方を渡した。
「おっ、ありがとな。楽しみだ」
大きく笑うパウルにアルバートが渋い顔をする。
「楽しみだじゃないですよ。萌香に無理をさせて」
「私は別に無理はしてないですってば」
「だ、そうだ。お前だって食いたかったくせに、俺の親切心をだな」
「はいはいはいはい! 分かりましたからもう行ってください。萌香、行くぞ」
何かを遮るように大きな声を出したアルバートに手を引かれ、萌香は振り向きながら会釈をしてあわてて歩き出す。
後ろで楽しそうにクツクツと笑い声が聞こえた気がしたけれど、パウルが少しだけ心配そうに表情を曇らせていることに萌香は気づいてなかった。
◆
「萌香は寝てろ。着いたら起こしてやるから」
自動車にバスケットをしまいつつアルバートがそう言うので、萌香は「アルバートさんの隣じゃダメですか?」と聞いてみた。
「いつも後部座席だから……」
――淑女らしくないとか叱られるかな? でも今の立場では私のほうがメイドなわけで……。ん? もしかしたら、相当ややこしいことになってる?
何が正解なんだろうと混乱していると、アルバートが心配そうに眉を寄せた。
「高いところ、苦手だろう?」
その手に薄手のブランケットがあるのを見て、睡眠不足も心配してくれているのが分かる。
優しいなと思いつつ、落ち着いて見えるよう柔らかく微笑んだ。
「アルバートさんの隣なら大丈夫そうな気がするんです」
「んー、でもなぁ」
「それに私が一番怖いのは、急にこう、ぐいっと引き上げられるみたいなことだって気づいたんですよ」
それに、アルバートはいつだって助けてくれる。なんだか妙にその確信が揺らがないので無意識にニコニコしていると、彼は諦めたように大きく息をついた。
「わかった。じゃあ怖くなったり眠くなったらすぐ教えるように」
まじめくさった表情でそう言われ、思わず吹き出しそうになる。
「はーい、アルバートお兄様」
「お兄様はやめなさい」
「ふふふ。だって、過保護なお兄ちゃんって感じなんですもの」
まるでトムがいたら同じことをするんじゃないだろうか? それに気づいたのか、どんどん渋くなるアルバートの表情に、萌香はこらえきれずに笑い声をあげた。
「ああ、もう、うるさい。ほら、さっさと乗れ」
言葉の割に優しい声で助手席側のドアを開けてくれるので、萌香は初めて飛ぶ車の助手席に座ることが出来た。
それは日本車と同じ左側の席。
考えてみると、日本にいたときでさえ助手席には座ったことがないかもしれない。
隣の運転席もよく見え、その構造に改めて興味がわいてきた。
「運転するところを見ててもいいですか?」
「好きにしろ」
どこか呆れたような声でも一応許可は貰ったので、遠慮なくアルバートの手元や足元を見ることにした。
以前イチジョーの自動車に乗った時にも、運転席は簡易的なコックピットのようだと思ったけれど、やっぱり自分が知ってる車とは違うなと思う。まずハンドルが丸くないだけでも変な感じだ。それでも見ていると、思ったほど複雑ではなくて、車の程度の感覚で運転(操縦?)できそうな気がした。
逆に萌香の軽自動車を見たアルバート達も、散々不思議そうにしていたものだ。
新しいおもちゃを見つけたみたいに、トムと二人、いずれ修理できないかなと言っていたけれど、どうなることか。
萌香としては、事故車なんて初めて見たものだから、下手にエンジンをかけたり部品を触って爆発したらどうしようとさえ思ったのに。
興味津々でアルバートの手元などを見ていると、自動車は静かに浮いて、いつの間にか水路の上をすべるように飛んでいた。一通り見るのに満足した萌香が外に目を戻すと、水面がキラキラとしていて、思わず「わあ」と声が漏れる。街路樹に挟まれた水路には船が行きかっていて、そのカラフルな色合いも可愛くて楽しい気持ちになってきた。
「前の席って、特等席って感じですね。すごく綺麗で得した気分です」
進む方向がはっきりと見えるのは、思いのほか落ち着いた。むしろ後ろの席に座るより、前の席のほうが断然怖くない。
これはいい発見! と、内心ガッツポーズをとると、アルバートが微かに微笑むのが目の端に映る。
「そう言えば、この自動車ってアルバートさんのですか?」
イチジョーの車よりはカジュアルな感じではあるが、それでも高級感がある自動車だ。こちらの自動車はすべてこんな感じなのだろう。でも、行きかう台数を見ると、渋滞には無縁な数のように思える。となれば、自分の車を持っているのは珍しいのでは? と、思ったのだ。
「いや、これは仕事用」
つまり社用車みたいな感じだろうか。
やっぱりという思いと、これも仕事の内なんだなという納得。なのに少しだけがっかりしてしまう。せめておうちの車だったらよかったのにと考え、その我儘な気持ちに内心首をかしげた。どうしてそう思ったのかよく分からなかったのだ。
「じゃあ、お姉様のところにも、元々仕事で行く予定だったんですか?」
昨日の様子だと、普通に親せき宅に遊びに行くような感じだと思ったが。
「あれ、言ってなかったか? 俺は今、半分休暇中だ」
「そうなんですか?」
つい最近夏休みじゃありませんでしたっけ?
「ハードな仕事の後は、長めの休暇をとるんだよ」
そういえばパウルが昨夜、地底湖の奥に行くのは難しい仕事だと言っていた。
整備されているわけでもないところを進んで、その奥を調査し、発見物を精査したうえで丁寧に運んでくるのだという。その様子を想像してブルッと震えが走った。
「じゃあ、十分リフレッシュしなきゃいけませんね」
◆
思いの外早い時間に、アルバートは姉の家を少し過ぎた丘に自動車を停めた。
ここはミモリ家の敷地内だ。
「ここならギリギリまでゆっくりしていても大丈夫だろう?」
「ならいっそ、おうちの中で食べるほうが落ち着きませんか?」
無人の美しい公園のような丘は、アルバートと初めて会った場所を思い出させる。大樹の代わりに低木が並んでいて、綺麗に刈り込まれてかくれんぼにはばっちりの空間だ。二日前にロヴィーたちを連れて散歩に来たばかりの場所でもある。
「いや? 姉上の所に行ったら、ロヴィーたちにもみくちゃにされるだろ。その前に十分英気を養っておかないとな」
わざと真面目くさった顔で言われ、それもそうだと思い、うんと伸びをした。
せっかくのお弁当だし、外で食べればヘディの言うようにまさにピクニックだ。
「萌香。テーブルと敷物、どっちがいい?」
「アルバートさんは?」
「足をのばしたいから敷物かな」
「じゃあそうしましょう」
車から出したカバンのようなものは、スイッチを入れればテーブル付きの
でもその代わりに二人で厚めのシートを敷く。たたんだ姿はコンパクトだけれど、広げると二畳ほどのカーペットを敷いたような感じだ。そこにタープ(四本の柱で支えてあるけれど、やっぱり一瞬で大きくなる謎の機能付き)を張って日陰を作る。
その下に座り、バスケットの中身を広げた。
「こっちが冷たいお茶で、こっちが野菜の冷製スープです。で、お弁当はこちら」
「これは?」
「白身魚フライのバーガ……、いえサンドイッチ、かな?」
「魚のフライ?」
色々考えて萌香が作ったのは、コッペパンのような少し柔らかめで細長いパンに、白身魚をフライ風に揚げ焼きにしてタルタルソースを付け、レタスなどと一緒に挟んだバーガーだ。エムーアでも魚を油で揚げる料理はあるけれど、天ぷらというか、フリッターみたいな感じになる。萌香が知る限り、パン粉を付けるのはコロッケみたいな野菜料理だ。
しかもこちらのパン粉は文字通り粉のように細かくするのに対し、萌香は固めのパンを粗目に下ろして使ったから、見た目も違うのだろう。
エムーアでパンに魚を挟むときも、それは塩漬け、もしくは塩焼きが普通だから、色々不思議な感じかもしれない。
でもアルバートはマヨネーズを気に入っていたし、バーガーなら楽しいかなと考えたのだ。
実はもし口に合わないことを考えて、お店が近くにあるところのほうがと提案したものの、却下されてしまった。もしもの場合は、カルラさん宅の厨房のお世話になろう。
「包んであるペーパー少しずつ剥いて、がぶっとかぶりついてくださいね」
一つをアルバートに渡し、萌香も一つ手に取る。すかさず紙をむいて、パクっと食べて見せた。
「ん、おいしい」
少し驚いたような目をしているアルバートに、いたずらっぽく笑って見せる。
よく考えたら、お嬢様が大口を開けるものではないのかもしれないと思ったけれど、これはこういう食べ物だ。萌香が普段目にするサンドイッチのように、一口二口で食べられるよう切り分けてはつまらない。
「なるほど?」
そう言って珍しそうにフライを見た後、アルバートもパクっとかぶりつく。
もぐもぐと咀嚼するのを息をつめて見ていると、ごくんと飲み込んだ彼が子どものように笑った。
「うまい! こんな魚料理は初めてだ。この白いのはマヨネーズ? 昨日とは少し違うみたいだけど」
「タルタルソースです。昨日カイさんに少しマヨネーズを分けてもらったから、それを利用してみました」
「うん。これも美味しい。もうひとついいか?」
「もちろんです。たっぷり召し上がれ」
見る見るうちに完食したアルバートに、萌香は満ち足りた気持ちでにっこりと笑った。
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