74.萌香の部屋①(イナ視点)
ダン家で娘が働いている。
その生き生きとした姿にイナはこっそり笑みを深めた。萌香の希望があったとはいえ、クリステルの誘いに応じたのは正解だったとホッと胸をなでおろす。
思えば夏期の旅行でダン家に来たのは五年ぶりだろうか。主に持ち回りで泊まり合っていたが、イナはイチジョーを留守にすることを好まず、いつもは招く側になっているからだ。
萌香、もといエリカがここで働いていることはクリステルとも相談し「内緒」にしている。そのため萌香と顔を合わせても「客とメイド」の関係であるため、なんだかいたずらをしているようでイナは少し楽しくなってきた。
夕食の給仕の補助に入っていた萌香の仕事は優美で、サラダを取り分ける姿も思わず見とれるほどだった。これは親のひいき目ではなく、人材育成に携わってきたものとしての目からしてもそうだ。そのことがとても誇らしく思える。
サラダが置かれた時、花畑のようなその彩にほおっと感嘆の息が漏れる。
「美しくて食べるのがもったいないわね」
食べ物に対してそんな風に思うのは初めてだとの言葉が聞こえ、萌香とこっそり目配せし合った。こんな時、この子を心の底から可愛いと思うのだ。
女王陛下からの話を夫と息子から、そして萌香からも聞いたが、不思議なほどすとんと腑に落ちた。シモンとトムはまだどこかで、この子は記憶を無くしたエリカだと思っているようだ。だが私にはもう一人のエリカだということが自然と信じられた。
自分が産んだからだろうか。
違う、でも違わない。
理屈ではなく自分の娘。エリカではないがエリカ。
違う世界で生まれていようと、同じ人間ならそれでいいではないか?
もちろん消えてしまったエリカも心配だ。戻ってきてほしい。
でもそれで萌香が消えるのは、胸が引き裂かれるほどつらいと思った。一緒に暮らしていくほどに、肩ひじを張らず素直に見える萌香が可愛くて仕方がなくなった。
そう。とてもとても可愛いし、愛しくてたまらない。
エリカは自分の中に世界を持っていて、秘密がたくさんあったのを感じていた。
ひたむきに努力する姿には感心したし、娘らしく甘えてもくれた。だがふとした時に、あの子がどこか遠いところに行こうとしているようで不安だった。事実そうだったのだが――。
◆
就寝のために客人が各々部屋に戻り、萌香の仕事が終わった頃を見計らってイナは娘の部屋を訪問した。
エムーアの女性は夜更かしをしないのが淑女のマナーだ。イナも普段なら部屋にまっすぐ戻るが、かくれんぼをする子どものようにこっそりと廊下を抜ける。あらかじめ教えられていた萌香の部屋をノックするころにはあまりにもおかしくて、部屋のドアを閉めたあとは萌香と二人でしばらく声を抑えつつも大笑いしてしまった。
萌香が部屋についているシャワーをあびている間、イナは部屋の中を眺める。
ベッド以外の家具はイチジョーから運んだものだが、チェストの上に複数置かれたカードに目が留まる。一見しただけでも大切にレイアウトされているであろうそれは、柔らかい色彩で絵が描かれていて、見ているだけでも笑みがこぼれた。
「お待たせしました。今お茶を入れますね」
萌香が部屋着になって戻ると、さっそく手際よく茶の準備を整えてくれる。その様子を見ながら、イナは微かに眉をさげた。
「元気そうでよかったわ。でもまた、少し痩せたわね? ちゃんと食べてる?」
「食べてますよ。今はよく動いてますから」
そう笑う顔は血色もいいので嘘はないのだろう。
それでも今はまだ体力がなくて、仕事以外のことに割く時間がなかなか取れないことが目下の悩みらしい。
「そう? 無理をしてないならいいけど」
「ふふ、毎日楽しいですよ」
萌香はポットの茶をカップに注ぐ。夜なので目が冴えないようにだろう。ハーブティーだ。
その間イナの目はさっき見ていたカードに戻った。興味深くカードを見ていき、その一枚を手に取るとクスッと笑いがこぼれる。それは子どもと一緒になっていたずらをしている父親の描かれたカードだ。その後に母親に叱られている絵が続くのが滑稽で凝っている。署名はアルバートだと気づき、イナは笑みを深めた。
萌香が楽しめるよう考えているのがよく分かるそれを、彼は毎日送ってくれているらしい。
「アルバートさんはまめにカードをくれるのね?」
イナがそう言うと萌香は楽しそうに一瞬頬を赤らめた。
イチジョーにいるときも二人でいる姿は自然で楽しそうだった。それはエリカとは違う、最も大きな点だ。
「あなたとアルバートさんの結婚を考えなかったわけではないのよ」
思わずそんなことを呟く。あなたと呼んだが、エリカのことだ。エリカのことだが、ふとそう考えた娘は萌香だった気がして一瞬混乱した。この子が娘のままでいてほしい願望が夢を見せたのだろう。そうは思っても、遠い昔に思いをはせ、無意識に言葉がこぼれる。
「小さなころはトムがやきもちを焼くほど仲が良かったものね」
そうだ。アルバートとエリカは小さなころに会っていた。
ニコルから聞くその様子は微笑ましく、彼がクリステルの息子だと知ったのは子どもたちが帰ってきてからのことだった。
エリカを生んだ後なかなか体調が戻らなかったイナは、一時期二歳年下の妹ニコルにトムとエリカを預け、休暇旅行に連れて行ってもらってた。そのころにはまだニコルには子どもがおらず、「姉さまたちが子どもに構えないなら、私が子どもたちに遊んでもらうわ!」と申し出てくれ、それに甘えたのだ。
「マムの息子だし、年の頃もちょうどいい。トゥークとはいえ、末っ子で王家とは距離もある。そうお父様ともそう話していたんだけど……」
イナは幼いエリカとアルバートが一緒にいるところを見たことがなかった。だが、最初は時が来たらその話を進めようと決めていたのだ。
イチジョーには家長にだけ受け継がれる秘密がある。
これは夫でさえ知らないことで、いずれはトムに受け継ぐものだ。だからエリカ……いや、萌香には話せない。だが、ぽろっとこの子が呟いたことが本当ならば、近い力を萌香はすでに持っているのかもしれない。
イチジョーはかつて、竜を祀るものだった。
その血のためか、家長は代々人をつなぐ糸のようなものが見えるようになる。大昔には敵味方を判別させる力だったのかもしれないが、イナが知る限り、この力は縁談を決めることで主に使われてきた。良縁をつなぎ、悪しきものを退けるためだ。
そのため政略結婚であっても恋愛結婚と変わらないと周りには思われるほど、親族は夫婦仲睦まじいのが特徴だ。
幼いころのエリカが持っているその糸は綺麗な光を放ち、その先にアルバートが見えた。トムとメラニーをつなぐ糸よりもはっきり見えたほどだ。
でもいつからだろう。その光が薄くなった。
いや、むしろ途切れたように見えた。
相手が生存しているにもかかわらず、そんなことになるとは聞いたことがない。過去の記録を調べてもよく分からなかった。
大叔母のマチルダは生涯独身を貫いた。詳しくは分からないが、相手が亡くなったのだろう。他に縁もあったはずだし、事実イナが家長になった時にも彼女から伸びる糸が見えたが、マチルダは一人でいることを望み、生涯独身を貫いた。
誰にも相談することが出来ず悩んでいた時、ニコルの夫の親戚筋から縁談が来た。以前のものに比べかなり薄いものではあったが、エリカのやわらかな糸がしっかりと繋がったのでその話を進めた。
なのに婚約を解消すると聞いたときは、イチジョーの力を全否定された気持ちだった。エリカは糸の存在や力のことを知らない。だが万が一間違った糸をつなげば、時代を混乱させることもあり得る。冗談抜きでその可能性をはらむことにイナは恐れおののいた。
エリカが自分の宣言通り引きこもってる間、イナは見えない何かを感じ、常に目が回るような感じがしていた。それはあの事故の日のあとまで続いた。
無理やり糸を切ったことによるものだと思い、エリカにも強い影響が出ているものだと考えた。本人は見せていなくても、実はショックだったのだろうとも。
だから記憶喪失だと言われた時、切れた糸をなんとか元に戻せないか必死だったように思う。あの頃は自分が自分ではないようで常に世界がぐらぐら揺れていて、記憶さえ紗がかかったようだ。それが萌香の回復するとともによくなっていって――。
物思いにふけり長く沈黙していたことに気づき、イナは苦笑した。萌香が黙って続きを待っているのだ。
「でも彼とエリカの間には壁があったから、進めなくて正解だったのよ」
初めてエリカとアルバートが正式に対面したのは五年前、やはりこの家でだった。
その時二人の間にはうっすら糸が見えるものの見えない厚い壁があったので、縁談を口にしなくてよかったと安堵したのだ。
「壁ですか?」
「そう。うまく言えないんだけど、透明の柔らかい壁……巨大な寒天のようなものが二人の間に常にある感じかしら」
「か、寒天ですか?」
驚いて目を丸くする萌香につられ、思わず吹き出す。自分でも奇妙な表現だと思う。
「他に何かいい表現がないか考えたんだけど、ガラスというほど固くはない感じだったから。透明で周りには見えない。柔らかいからぶつかっても大丈夫。だけど二人が一緒にいると、その壁が邪魔で居心地が悪いんだろうな。そう感じることがよくあったわ」
幼馴染で執事兼家事長のロッテに何気なく聞いたことがある。かつてあった糸の存在を知らない彼女は、
「生理的に合わないのでしょうね。そういうこともありますよ」
と笑っただけだった。
そんなことがありえるのだろうと、首をひねらなかったと言ったらうそになる。
それでも二人はトムを介して礼儀正しく接していたし、問題はないように見えた。
だが今の萌香とアルバートの間には、その奇妙な壁が消えている。
ニコルが今の二人を見たら喜ぶだろう。最初に縁談を持ってきたときに、どこか気が進まなそうだったから。
「だから萌香との婚約は進めてもいいと思ったんだけど」
実は萌香にもイチジョーの糸が見えるのだ。しかも綺麗に光る糸が。
ある日それに気付いたから、この子はエリカで間違いないと、きっと何か狂っていた歯車が正常に戻ったと安心した。
ただある日、この光る糸は聖女の力に関係するかもしれないと思い至った。
萌香の糸は複雑な模様を描き、糸というよりは大きな一枚の布のように見えることもあるのだ。
ベルベットを思わせるような柔らかなそれは見惚れるほど美しいが、反面、怖くて先を見ることはできないでいた。それでも思いきって見たところ、アルバートとはしっかり糸が繋がるのが見えたので縁談を進めてもよいものと考え、シモンにそう伝えていた。
だが婚約の言葉に萌香はプルプルと首を振る。
その様子が不思議ではあるが、萌香の知る世界は、あまり親が結婚を決めることはないそうだ。トゥークやジェン階級では、条件が合って親が同意したら婚約。第二子以降でも選定は不可欠だが、それは特に問題がない限り進めることが出来る一種の契約なのだ。しなかったのは今の萌香が厳密にイチジョーの娘ではなかったからだ。いっそイチジョー家に入れようとしたものの、今はダメだと女王から言付かった。
萌香が聖女だった場合、王太子妃にどうかと暗に言われた。
萌香の気持ちは尊重するが、今伴侶がいないなら、そのつもりで準備してほしいとも。
できることなら萌香には、少しでも幸せになれる相手と添わせたい。
縁は必ずしも一つとは限らないが、王太子殿下はそれではない。
女王陛下にそれを告げたときしばらく黙っておられたが、ではリューオーのほうかもしれぬと言われた。
アルバートとはつながると言ったにもかかわらず、彼では世間に与える影響がないに等しいためか「そうか」と言われたに過ぎない。
アルバートが萌香に求婚したのは好機だった。
最初に求婚者候補のふりをするという話が出たときにも、いずれそうなるのではと密かに期待していた。いっそそのまま一気に話を進められたらよかったのにと、自分がその場に立ち会わなかったことを悔やんだ。
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