75.萌香の部屋②(イナ視点)

「あ、そうだ。叔母の写真を見せる約束でしたよね!」

 ポンと手のひらをたたき、萌香がいそいそとスマホというタブレットの準備をする。いくつか操作をした後見せてくれた色付きの写真に、イナは息を飲んだ。

「エマ……」

「やっぱり似てるんですね」

 萌香が似て非なる世界から来た証拠だと言って見せたというそれに、イナは別の意味で衝撃を受けた。

 体の芯からさざ波のような震えが起こり鳥肌が立つ。

「この方が、萌香の叔母さまなのね」

「はい。父の妹なんです」

「今幸せに暮らしているの? ご結婚は?」

「はい。旦那さんとはすっごく仲良しですよ。写真は……あ、これです。ひそかに美女と野獣って呼ばれてるんですって。強面だけど、すっごく優しいんですよ。子どもはいないんですけど、二人には私も弟もすごくかわいがってもらってました」


 ニコニコと楽しそうに教えてくれる妹そっくりの女性の様子に、イナの目から涙がこぼれる。彼女を包み込むような男性の姿にも胸打たれた。

「幸せで、嬉しいわ……」

 萌香は微笑みながら頷いたが、イナの真意は理解できていないはずだ。


 ――ああ、エマ。ここにいたのね。

 若くして亡くなった可愛い妹。あの日あの子に重なって見えたのは、真由子さん、貴女だったの。

 イチジョーの目を使って見た真由子からは、イチジョーの糸が見えていた。エマと似ている、でも少し違う色の糸。でも二人は同じ人間なのだとはっきりと認識できた。

 だからあの子は大丈夫だと言ったのだ。


 エマ、あなたは違う世界の自分を知っていたのね。もしかしたらその魂は彼女のところに重なっているのかもしれない。だって、真由子には二本の糸がより合わさっているもの。亡くなる前に健康な貴女の元に連れて行ってくれたのかしら。


 萌香の世界とこの世界は、多分すごく近いところにあるのだ。萌香の意識がはっきりした日、この子に重なって見えたのはやっぱりエマだったのだろうか? あの子が守ってくれているのだろうか。


 そこまで考えて、イナはハッと顔をあげた。

 スマホをイナに預けたまま、エリカの手帳を見ている萌香をじっと見つめる。

 慎重に彼女の糸を辿り、ほぐし、根元の部分を見つけた。

 それは見覚えのある糸だ。

 やっと産声を上げた娘にエリカの印があると周りが大騒ぎだったとき、イナの目にだけ見えていた特徴のあるそれ。


 ――この子は……!


 愕然とし、同時に納得もした。

 エリカだ。萌香は私が産んだ娘だ。

 じゃあ育ててきた娘のエリカは?


「エリカは、どこにいるのかしら」

 ポツリと無意識に言葉がこぼれる。


 萌香が見せてくれた、エリカがしたためたという手帳には何が書いてあるのか分からない。だがあの子に真剣に愛する相手がいたらしいことを聞き、イナは自分でもおかしなくらい安堵したのだ。フリッツとの婚約解消は、糸を切ったのではない。本来の相手が遠くにいてイナに見えなかっただけなのだと、理屈ではない何かが囁くように、あるいはすとんと落ちるように、突然納得した。

 だが萌香がエリカだとしたら?

「エリカは、萌香のいた世界に、いる?」

 想像よりも近い外の世界。

 エリカもエマのように外の世界を知っていたとしたら?


 イナのつぶやきに、萌香は

「もしかしたらその可能性は高いと考えてます」

 と言った。

「手帳の文字は英語と言って、私がいた国とは違う国の言葉ですが、学校で学びました。絵梨花が日本語も書けていたことから、日本にかかわりがあるか、もしくは日本が好きな英語圏のアウトランダーと交流があったのでは。そう考えてます」

 ただその相手は、このドレッサーの向こうに見えてたらしいと萌香が苦笑する。

 それはマチルダ大叔母のドレッサーで、かつてエマが、そしてエリカが使っていたもの。


 マチルダ大叔母はかつて、自分の相手は遠くにいるからと言っていた。それは亡くなったという意味だと考えていたのだが、違ったのかもしれない……。

 そのマチルダに可愛がられていたエマも、そしてエリカもそうだったのだろうか。

 イチジョーの、もしくは聖女の力で、本来超えられない何かを超えたのだろうか。


「星が重なれば、もうその人とは会えないと。その後はなかなかそれについての記述がなかったんですけど……」

 萌香が印をつけていたらしい手帳のページを開く。

「エリカはその人をRと記述しています。名前なのか何かの略字なのかはまだ分かりません。ただここに『Rの世界のもう一人のわたくしを引き寄せれば、反動でわたくしがあなたの世界に行けるはず。それはただ行こうとするよりも確実な方法だと考えている。わたくしはわたくしの幸せのために本当のわたくしに戻ります……』」

 そこまで読んで、萌香は喉が詰まったようになり、一瞬泣きそうな顔になった。

「『元の場所に戻りましょう。もう一人のわたくし。いいえ、本当のイチジョー・エリカ。あなたの幸運を祈っているわ』――これって、どういう意味なんでしょうね」

「ああ……」

 なんてこと。


 そうなのか。エリカは知っていたのだ。

 どうやって知ったのか分からない。でもあの子は私が産んだエリカではなかった。

 どれだけ悩んだだろう。

 どれだけ苦しんだのだろう。

 あの子は違うと言い続けていたのに! 自分はエリカじゃないと言っていたのに。


 イチジョーの糸が見えていたから、姿かたちが同じだから。あの子が私の産んだエリカだと、毛一筋ほども疑わなかったなんて。


「お母様?」

 不安そうな萌香に、イナは悩んだ。

 自分が見つけた真実を、あなたはエリカなのだと言っていいのだろうか。

 ぐっと何か苦いものがこみ上げてくる。

 どうする、どうしたらいい。


 脳裏にエリカの姿が浮かぶ。

 人一倍、必要以上にエリカの役を全うしようとしていた私の娘。

「萌香……、最初のページの内容を、もう一度教えて」

「あ、それは手紙の方をこちらの文字に書き直してます」

 ノートに書かれた萌香の文字を丁寧にたどる。


『 ――もう一人のわたくしへ。一条絵梨花。


 これが読めるあなたは、間違いなくもう一人のわたくしでしょう。

 わたくしの今の名前は一条絵梨花。でもここではイチジョー・エリカ(エムーアの言葉で書いてある)なの。


 でもわたくしは、本来ここにいるべきイチジョー・エリカではありません。スライドという事故で、違う自分になってしまったの。わたくしだけどわたくしじゃない、違うわたくしに。


 わたくしはわたくしのいるべき場所に帰りたいと、ずっと思ってました。

 ズレを正し、わたくしたちが元々いるべきだった場所に帰るために。

 だからわたくしは、賭けをします。

 成功する可能性はとても低いけれど、それでも後悔だけはしたくないのです。


 もしもの時のために、わたくしは自分についての記録を残します。もし困ったらそれを見てね。わたくしであるあなたなら必ずわかるはずです。

 鍵はこの屋敷の図書室、入り口から見て左一番奥の本棚の上に置いておくわ。


 あなたの幸運を祈ってます。

 お互い幸せになりましょう。


 絵梨花より、もう一人のわたくしへ。』


 イナと共にそれを読み返していた萌香がスッと青褪める。

 同じことに思い至ったのだろう。

「エリカは……、エリカのほうが、アウトランダーだったんですね」

 低い声で言うのは、すでにもしやと考えていたからだろうか。それでも萌香は動揺したように髪をかき上げる。

「私は……私が……? うそ、なんで? 私は日本で育ったのに……」

「ねえ萌香。ちょっと今から私が言うとおりにしてみてくれる?」

 本来伝えるべきではない子に、イナは糸を見る方法を教えてみた。継承者でなければ何も見えないその方法を。


「私の周りに何か見える?」

「……光る糸みたいなものが見えます」

「あなたの周りには」

「えっと、大きなマントみたいなものが見えます」

「やっぱり」


 イナは大きく息を吸って、バクバクと不安な音を立てる心臓を鎮める努力をする。

「これは本来イチジョーの家長にだけ使える目なの。本来トム以外に伝えることが出来ないこれを教えたのは、あなたが王宮で見えない道が見えたと言ったから。――イチジョーに残る過去の資料によれば、聖女と言われるイチジョー・エリカが持っていたと言われる力でもあるわ。――萌香、あなたは私の娘だわ。このスライドとか言う事故でエリカと入れ替わっていた、本物のエリカよ」

「…………」

 口をパクパクとさせ、何も言葉が出ない萌香のもとにいき、ぐっと抱き寄せる。

 年齢が違う。でも娘だった。本物の娘だった。


「あなたが生まれたとき、特徴のある糸が見えたわ。今確かめてみたけど萌香の持ってるそれと同じ。エリカのは薄かったけど、気にしたことがなかった。――あの子は知っていたのね。どれだけ、どれだけ孤独な思いをさせてたのかしら……」

 涙がパタパタとこぼれる。

 でもあの子も娘だ。愛していたし、今も愛してる。

「私が……ここにいるってことは、エリカは帰ることに成功した。そういうことなんですよね……」

 嗚咽交じりの萌香の言葉にイナは頷く。

 本当は事故の時の萌香の様子を思い出し、もう息をしていないと言ったメイドは、萌香ではなくエリカのことを言っていたのではないかと恐怖に震えたけれど。どうか無事でいてと叫びたい。でもこの子に聞かせるわけにはいかない。


「私はね、この前あなたから、エリカが想う方の所に行ったらしいと聞いたとき、当たり前みたいに、エリカはその方を連れていずれ帰ってくるのだろうって。それは楽しみだわって思ったのよ。だからエリカと萌香に花嫁衣裳を仕立てようって。二人が並んだ姿はさぞ華やかだろうって、すごく楽しみだったの」

 あの子が選んだ男性を見てみたかった。どんな人でもエリカが心から想う方なのであれば、きっと良い縁のはずだ。きっと諸手を挙げて歓迎しただろう。

 でもあの子は帰ってこない。帰りたかった世界にやっと戻れたのだから。

「でもせめて、無事な姿を見たい……」


 萌香の世界の両親はきっと優しい。

 情けないことだが、きっとイナよりも立派なご両親だ。

 この子はこんなに立派に育っている。自分を自分だと疑うこともなく生きていた。幸せな娘に育ててくれたご両親ご家族に、言葉では言い表せないほどの感謝の気持ちが溢れてくる。

 エリカは家族のもとにたどり着けただろうか。

 萌香のようにケガをしなかっただろうか。

 狂おしいほどその所在を、無事を知りたいと思う。


「私が……日本に帰りたいと思うことのほうが……間違いだったんですね……」

 ボロボロと泣き崩れる萌香の頭を撫で、それは間違ってないとイナは言った。

「あなたは萌香として生きてきたんだから、生きてきた世界に戻りたいと考えるのは自然なことなのよ」

 イナにも帰りたい世界がある。

 両親がいて、妹たちが笑っていた、あの十代の日々。

 萌香のそれとは違うが、今も瞼の裏にはっきりと見えるのに手が届かない世界だ。

 萌香の家族は生きていて、イナがエリカの所在を知りたいように、萌香も無事を報せその姿を見せたいだろう。


「私、本当は少しだけ、自分がエリカじゃないかって疑うことがあったんです。ふとした時に、あ、これ知ってるって思うものがあって……」

「――例えば?」

「冬に暖炉の前で、お兄様に絵本を読んでもらったこと、ありますか」

 考え込むような萌香を見つつ記憶をたどる。

 二人は小リビングの暖炉の前がお気に入りの定位置だった時期がある。

「あるわ」

「そ、それで、ドルドルメーって呪文を覚えてるんですけど……。地震の時、もう揺れないでねって、そんな意味の……」

 喉がひゅっとなった。

「それはドリュー、つまり大地の竜よ心を静めたまえという――祖母が、あなたのひいおばあ様が、エリカの誕生のお祝いに作ってくださった絵本の一文だわ。この世に一冊しかない本よ」

 この子はエリカだから、いずれ竜に関わるかもしれないからと、イチジョーの過去の文献をしらべ、分かりやすく絵本に残してくれた祖母。あの本はイナの書庫に保管してある。

「私、小さいころ自分にはお兄ちゃんがいるって思ってたんです。でもいなくて変だなって。なんだ、私の願望じゃなかったんだ……」



 それからは泣いたり話し合ったりと、まさかこんなことになるとは思わなかった、決して忘れられない夜になった。

 二人で情報を照らし合わせ、おそらく入れ替わったのは五歳の時だろうと意見が一致した。エリカが次々と流行り病にかかって寝込んでいた時期。今思えば「お兄ちゃんなんていない」と泣いていたのがあの頃だと気づき、イナはどっと落ち込んだ。


 エリカを普通の女の子として育てているつもりだった。伝説など気にせず伸び伸び生きてほしいと願っていた。

 なのに自分がイチジョー・エリカではないと訴えながら、時につらそうにしながらも、なぜかエリカとして努力する娘の姿がもどかしくて仕方がなかった。

 ただのイチジョー・エリカであることがそんなに嫌なのか。聖女なんかになろうとしなくていいのに。この名付けの習慣さえなければ……そんなことさえ思った。


 でも何もわかってなかった。本当に何もわかってなかった。

 あの子の訴えを、せめてイナだけはおとぎ話だと思い込まずにいたら!

 入れ替わっている。万に一つでもその可能性に気づいていたなら!



 萌香が心を整理するのには時間がかかるだろう。

 日本へ帰りたいとも思うだろう。

 いや、方法がわかればこの子もあちらの世界に行ってしまうかもしれない。

 でもイナは、決してそれを止めるようなことはしないと心に決めた。

 エリカのような思いはさせないと。

 それが贖罪になるかは分からない。ただ、この子が幸せであるよう全力で助けようと心に誓った。同時に――もしそんな機会があるならば、だが――消えたエリカが助けを求めてきたら、あの子のことも命がけで助けよう。



 明け方が近い。

 萌香にとっては休日だったことが幸いだ。今日は一緒に街の散策に出ようと考えていたが、それはまたの機会にしようと話し合った。

 その後、段々雑談といった他愛のない話をする。

 萌香の目下の悩みを聞くと、エリカのキッドを見舞うためにマリーの親戚のところで働けないか考えているという。このままこの世界に慣れるためにも、働くことはしたいのだそうだ。

「ああ、あのお城……」

「ご存知ですか」

「ええ。私は行ったことがないけど、エリカたちは小さいころに泊まりに行ってるわ。そうね、エリカ、いえあれは萌香ね。あなたが小さいころアルバートさんと会ったところよ、確か」

「そう、なんですね」

 ふと考え込むような顔をした萌香が、チラリと上目遣いでイナを見る。

 なに? と促すと、

「小さい子が滞在できるなら、怖くはないんですよね?」

 と真剣な顔をするので噴き出してしまった。むしろ子どもには人気があるくらいだ。楽しく過ごした記憶は、小さすぎて覚えてないのかもしれないが。


「マリーさんも萌香と同じ状況の可能性があるなら、アルバートさんに相談してみればいいじゃない。専門家なんだし」

 異変調査とアウトランダーに関しては最も適した人物だろう。

「ああ、そう言えばそうですね! そうか、その手があった」

 本気で思いつかなかったらしい萌香の笑顔に、イナはにっこり笑った。

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