60.トム

 早朝、トムが海岸まで走りに出ると、予想通りすでにアルバートが来ていた。十年以上続けている日課だから特に示し合わせる必要もない。久々に合流しようと考えたのだが、アルバートがすでに何キロも全力疾走した上、かなりの運動をしたように見え思いとどまった。今声をかけたら、間違いなく格闘術の相手をさせられる。学生時代ならともかく、今のアルバートを相手にするのはトムには無理だ。


 ――何か落ち着かないことでもあったか?


 トムにとって、この半年強は驚きの連続だった。妹と親友の婚約解消に始まり、彼女の事故、記憶喪失――。

 本当だったら今年の今頃は、エアーリアの件でエリカに何か起こるのではと危惧していただろうに。まさかこんなことが起こるとは、誰も予想だにしてなかったに違いない。


 昨日久々に会った妹はあまりにも痩せていて、内心受けた衝撃を隠すのが大変なほどだった。元々ほっそりしていたが十代の女の子らしいやわらかな印象だったのに、一気に大人になってしまったかのように感じた。小生意気で大人びた以前の様子とは違う、“女の子”ではなく“落ち着いた女”になったかのような印象。

 これが普通に生きてきて、二、三年かけて徐々にそうなったなら気づきもしなかったかもしれないのに……。

 これは自分が婚約解消を止めることが出来なかったせいかもしれないと、自責の念に押しつぶされそうになった。それほどエリカの瞳には、どこか痛みをこらえているような深い悲しみが見えた気がしたのだ。

 だがエリカは何も覚えていなくても、ためらいなくトムの腕の中で笑顔を見せた。それは彼女がずっと張り巡らせていた要塞を取り去ったかのような柔らかな印象で、妹が生まれた日を思い出す。


 あの日は季節外れの雷がなっていた。

 生まれたのがエリカだと大人たちは大騒ぎだったが、母に抱かれた妹は驚くほど小さくて頼りなくて、こんなに可愛い生き物がいるのかと、トムは愛しさで胸がいっぱいになったものだ。


「はじめまして。ぼくはトムだよ。早く大きくなって、一緒に遊ぼうね」

 絶対にこの子を守ってあげるんだ。

 そんな想いを胸に、兄になった誇らしさでいっぱいになった。あのときの気持ちが鮮明に蘇ったのだ。


 だから今はエリカ自身が自分を別人だと感じていても、トムの妹であるという思いは揺るがなかったし、むしろまた守ってやれるのでは? とも思った。フリッツはいい奴だし、自分の婚約者のメラニーも守りたい相手ではあったが、少し物足りなかったのだろうか。もしかしたら母のように、若いうちに妹を失う日が来るのではという恐怖が根底にあったのかもしれない。


「だが、人生には思いもしなかった出来事があるものなんだな」


 遠目にアルバートを見ながら、昨日の出来事を反芻する。

 違和感を覚えたのはどこからだっただろう? マーケットであの手鏡を見たとき? それともあの子の部屋で、エリカがアルバートを真剣に見て考え込んでいたときだろうか。普段見ることがないような、落ち着かな気なアルがおかしくてニヤニヤしていたが、多分あのときが最初だろう。アルバートのエリカに対する意識が変化した。


 デズモンドの前で、計画通りアルバートがエリカの婚約者候補の振りをしたが、二人の演技力には舌を巻いた。特にエリカの演技力は予想以上のもので、フリッツにさえ見せたことがないんじゃないかと思うほどの色香に目を見張った。

 匂い立つような強烈なエリカのそれに、実はアルバートとエリカが本当に愛し合っていたのかと錯覚したくらいだ。一瞬、心が動いてしまったのはフリッツだけではなかったのだと喜んでしまった。――そうだ、純粋にそれを嬉しいと思ってしまった。

 兄である自分がそう思ったのだ。デズモンドに疑う余地はなかっただろう。


 あの男がいなくなると、スイッチが切れたようにエリカのいうところの「萌香」に戻ってしまったが、アルバートは演技などという慣れないことをしたせいか、しばらくあの子に囚われたままだったような気がした。

 それがいい影響を及ぼしているのか。

 いつものような、エリカへの皮肉が出ることもないし、表情はあまり変わらないが雰囲気が違う。親戚の女の子に見せるのと同等程度にはエリカに優しくて、なんだか妙な感じだ。まあこれは、エリカに変身させられたからかもと考えていたが――。


「やっぱりアルも、実際に兄と呼ばれたのが効果てきめんだったのかな」

 末っ子であるアルバートは、よくエリカのような妹がいなくてよかったとぶつくさ言ってたし、付き合う女性も年上ばかりだから年下の女性が苦手なのかと思っていたが、とうとう陥落したかとニンマリする。

 そうさ。元々エリカは可愛らしいのだ。


「あの子の記憶喪失も、悪いことばかりではなかったな」


 もっとひどい状態を想像して恐れていた。エリカが以前とは違う壁を張り巡らせ、内にこもってしまうのではないかと思ったのだ。

 なぜそう考えたのだろう?

 やはり、鈴蘭邸に引きこもりたいと言っていたからだろうか。

 なぜかエリカは消えたいのではないか? と感じることが、以前から時々あったのだ。

 メラニーに言わせれば、エリカは名前に違わず神秘的だそうだが、あの子は普通の女の子だ。少し変わってはいるけど、それも個性で済む程度の。


 妹は責任感が強くて、基本人の為に動く。

 結婚もそうだったのか。それとも婚約がきっかけだったのか。だとしたら、フリッツの心が別の女性に向いたのは、いっそ幸いだったのならいい。記憶を失うほど辛かったとは思いたくない。そう考えるのは甘いのだろうか。

 エリカの中の萌香がすでに二十歳だというのは、鈴蘭邸が自分のものになるから?

 あの子はそこで一人で生きていきたかったのだろうか。

 トムとしては、もちろんそれでも構わなかった。どこかに消えるくらいなら、すぐそばで幸せでいてほしい。自分たち家族がいる。

 いっそ発明の腕を生かして、女性の道をどんどん切り開くことだって可能だろう。

 女の子らしくないと世間から隠すことをいっそやめてしまえばいいのだ。マチルダ大叔母のように一人で生きたって不幸ではないだろう。


 そばには自分がいる。そしてアルバートもエリカを妹として愛してくれそうな感じだ。

 アルバートの変化は意外と言えば意外だが、悪くはないと思う。このままいい方向に向かえばいい。


 元々両親は、エリカがエリカであるがゆえに、王家の人間との縁は繋がないようにしていたフシがある。だからどちらにせよ、今後もアルバートがエリカの結婚相手になることはないだろう。それを承知で彼は婚約者候補を引き受けたのだし、両親も承知している。彼の母親だけはどう出るかわからないが、結局いつものアルバートの恋人たちのように、「婚約には至らなかった」で済むことだろう。

 だが彼女を妹同然と見て共に守ってくれるなら、彼以上に心強い男はいないのだ。


  ◆


 朝食の後は予定通り鈴蘭邸に向かうことになった。トムにとってはいずれエリカのものになる屋敷のため、マチルダが亡くなって以来初の訪問で少し懐かしい。

 基本的に客に見せるツアーといった雰囲気で、ゲイルとロベルトが興奮で紅潮しているのが微笑ましい。訪問するのはユリア親子とミア親子。エリカと父母と、なぜかキト・フィンセント医師。トムとアルバートに、そしてアルバートの母という大所帯だ。侍女を一人も連れてこないのは父の提案らしい。


 門をくぐると、「萌香」にとっては初めての訪問らしく、物珍しそうに目を輝かせているのが目に入る。庭は自動散水システムのみの稼働なので、あとで雑草の駆除が必要そうだが、

「ちょっと野性味のある感じが、秘密の花園っぽくていいわね」

 と、エリカが少年たちにこっそり言ってるのが聞こえた。どうやらあの三人は今、秘密基地ごっこを楽しんでるようだ。


 邸宅内をある程度見た後は二手に分かれることになった。

 父がエリカに見せたいものがあるらしい。

 そこで母が客を連れてツアーを続け、父とフィンセント、エリカとアルバートが別行動となったため、トムもそちらに行くことにした。アルバートが同行するのは彼の仕事関連だということで、少し嫌な予感がするのだ。


「アル、エリカはアウトランダーじゃないぞ。お前だって知ってるだろう」

「ああ。エリカ本人にも言ったけど、ちょっと予想というか、仮説みたいなものがあるんだよ」


 向かったのは屋敷裏手にある車庫だった。

 ここには確か、今もマチルダが大切にしていたクラシックカーがあるはずで、トムも小さいころからそれが好きだった。それを久々に見られると思うと少し興奮する。


 車庫に入ると、記憶そのままの黒いクラシックカーがそこにあった。だがその横に見慣れぬものがある。真っ赤なそれが目に入った瞬間、エリカが「あっ!」っと言って口元に両手を当てた。目玉がこぼれそうなほど目を見開いたエリカは、信じられないものを見たという風に青ざめ小刻みに震えはじめた。

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