61.鈴蘭邸

 萌香ははじめて訪れた鈴蘭邸の美しさに目を奪われていた。どこもかしこもイチジョーの屋敷とは少し異なる、どこか懐かしいような温かみの感じられる場所だ。

 門から玄関に続くアプローチの周りは、雑草もそうでないものも元気に茂っていて、そこからあふれる生命力が力を与えてくれるような気がした。


 昨夜はエリカの手帳をざっと見ただけで、いつのまにか眠っていたらしい。アルバートの仮説も頭の中をぐるぐるとして落ち着かなかったし、疲れていたのだろう。

 それでも朝食の席でクリステルの明るい笑顔を見ると不思議と落ち着く。

 彼女が「萌香」を気に入って、もしものときは引き受けるというのは本気らしい。イナにも実際そう言ったが、彼女の反応は意外なものだった。


「あら。もしエリカが二人になったら、どちらも私の娘にするわよ? 帰るところがなければの話だけど」

「お母様?」

「今まで私が、それを考えたことがないと思う?」

 不思議そうに言われ、萌香は言葉に詰まった。


「もしかしたらエリカではないかもしれない。そう思わなかったわけじゃない。でもどちらかと言えば、昔のエリカに戻ったような気がして混乱したのは確かよ。でももしエリカが二人いるなら、それはそれで嬉しいと思っていたところ。事故前も事故後も、どちらのエリカも大切だって痛感したから」

 息が止まりそうだった。のどに何かつかえて目の奥が熱くなる。

 だが次にイナが「エリカだったら分裂くらいしそうだし」と呟いたのが耳に入り、呼吸困難になるほど笑い転げ、少し離れたところにいたシモンたちから不思議な目で見られてしまった。


 ――ああ。女は強いわ。


 イナは萌香の言葉を信じなかったわけではないのだ。受け止め、じっくりと消化し、どうしたらいいかを考えていてくれたのだ。

「ありがとう、お母様。大好き」

 考える前に、素直にその言葉が出た。この先どんな答えが出ても、自分にはここにいてもいいと言ってくれる人がいる。それが本当にうれしかった。



 だから鈴蘭邸でシモンから思いもよらなかったものを見せられた時、萌香はとても驚いたがすぐに冷静になれた。

 トムとアルバートが一瞬萌香に手を伸ばすのが見えたが、その手が届く前に懐かしい軽自動車に駆け寄る。ひどい事故車だ。

「それはお前のもので間違いないね?」

 シモンの言葉に頷く。

 運転席側の前方から運転席ドアにかけて強い衝撃を受けたことが分かる車は、ガラスがほとんど割れていた。

 フィンセントによると、萌香はこの車の中にいたのを助け出されたらしい。

「エアバッグが作動しなかったのね」

 そのせいで口の中と目の上を切ってしまったのだと納得していると、どうやらシモンたちは絵梨花がこれを作ったものだと考えていることが分かった。


 ――えっ。絵梨花って、こんなものが作れる人だったの?


 発想が変わってる人ではなく、発明家? だとすると、前世の記憶を頼りに作ったという説も出てしまうため、車の中も検分することにした。

 ボンネットを開けると、見慣れた内部が顔を出す。

 車の下を覗くと、漏れたオイルを受け止める素材が置いてあった。

 キーはあったが、エンジンはかけないほうがいいだろう。万が一のことがあったら困る。

 窓の割れていない助手席側のドアを開け座席の下をのぞき込むと、あの日持っていたバッグが潜り込んでいた。中には財布やスマホ、メイク道具など見慣れたものばかりで嬉しくなる。

 ナンバープレートも見慣れたもので、車検証も入ってる。


 ――うん。間違いなくこれは萌香のものだわ。絵梨花が作ったものじゃない。


 次に割れたガラスに気を付けながらトランクを開けようと思ったが、中を覗き込むとトランク内は細かいガラスの破片でいっぱいだ。中に置いていた道具箱のひとつにもひびが入っているのが見える。ただ散乱はしているが、アウトドア系の製品を中心にそろえていたためか、ぱっと見それほどダメージがないように見える。

 とりあえずガラスの破片を掃除しなければならないだろう。


 萌香は深く二度深呼吸をした。

 自分は萌香だった。エムーアの一条絵梨花ではなく、日本の恵里萌香だ。

 何が起こったかは分からないが、車の事故でこの世界に紛れてしまったのだろう。それを口にするため、緊張で乾いた唇を舐める。心臓がバクバクした。


 黙って様子を見ていたシモン、フィンセント、トム、アルバートの顔を見る。

 シモンの顔は厳しく、フィンセントとトムの顔は心配そうだ。アルバートは何を考えているかよく分からない。

「エリカ?」

 シモンが咳払いをして、優しい口調で声をかけた。

「おと……シモンさん、やっぱり私は絵梨花ではないみたいです」

 少し震える声で告げた萌香に、「まさか」と呟いたのはトムだ。

「お前は俺の妹だ……」

 その言葉に萌香はうつむく。どういうわけか、萌香も本当に彼を兄だと思うのだ。こんなに素敵な男性を前にしても異性とは全く思えず、とても近しい感じがすることを否定できない。

「私もトムさんはお兄ちゃんにしか思えないんですけどね……。絵梨花じゃなくてごめんなさい」

 萌香は思わず泣き笑いになってしまい、唇をかんだ。


「信じられん……」

 そう呟いたのはフィンセント。身体的特徴まで一致する萌香と絵梨花が別人だとはあり得ない、と。

 萌香は耳の後ろに手を当て、アルバートを見た。

「萌香は、アウトランダーの記憶ではなかったみたいです」

 それに頷く彼が何を考えているのかは分からない。彼の監視対象にでもなるのかと考え、急に大きな壁が出来たような気がした。


 ここにイナやクリステルがいればよかったと思う。

 今の気持ちはアウトランダーというよりアウトサイダーだ。わかっていたことなのに、いざその証拠があったら動揺するなど、自分でもおかしいと思う。

「じゃあエリカはどこに行ったんだ?」

 冷静さを保とうとしているのだろう。落ち着いた声で話すシモンの声は、どこか安心を与える何かがあった。動揺し戸惑ってはいるが、萌香を排除しようとしているわけではないらしい。


「おととい手紙を見つけました」

 ポケットに入れた手紙を見せると、何が書いてあるかわからないシモンは怪訝な顔をする。内容を読んで聞かせると、ますます困惑した顔になった。

「私にも意味は分からないんです」

 正直にそう答えると、アルバートが大きく息を吐く。

「要は、エリカが何か起こしたことが原因で、萌香がここにいるってことなのか?」

 萌香はその声にうつむいた。多分絵梨花はアルバートのそばにいたくて、あなたを追いかけようとしたんだと言いたかった。だが、うまく伝えられる気がせず声が出ない。

「で、その記録ってやつは見つけたのか? 昨日図書室に行っただろ?」

 淡々とアルバートにそう言われ、萌香は小さなノートを取り出した。開いたシモンがまた戸惑った顔をする。

「これは、何と書いてあるんだ?」

「すみません、私もあまり読めないんです。手紙は日本語でしたけど、それは英語なので」

 だが、言語が違うという認識がない彼らには意味が通じないようだ。


 シモンがゆっくり頭を振った。

「君がエリカにそっくりだからさらわれてきた……ということはないだろう。エムーアでエリカは現在あの子だけのはずた。生まれて隠せるものではない。ましてや姿かたちが同じなんてありえないだろう。――君はいったいどこから、どうやってここに来たんだ? この変わった自動車の状態を見ても自主的に来たとは到底思えない。それだけの大怪我したんだ。これは、どう見てもまともな出来事じゃない」


 死んでいたかもしれないんだぞと言われ、萌香は改めてゾクリとする。


「この車を運転していたとき、何か黒いものが飛び出して来たことは思い出しました。それを慌てて避けたことも。でも、それでどうしてここにいるのかはわからないんです。気がついたら事故から何日もたってましたし、最初はその事故のことさえ覚えてなかったんですから」


 思い出したきっかけは絵梨花の手紙だ。だがその内容も含め、萌香にもここにいる男たちにも、おかしくなるくらい何も分からない。理解できない。

 日本語で書かれた手紙は萌香が書いたものでは? とも思われたようだが、それも仕方がないだろう。見たこともない文字を萌香だけが読める。筆跡が違うと言っても、彼らには区別がつかないのだ。


 ただ異質。

 今までのエリカとは違うもの。それだけは確実なのだ。


 その時、地面が一瞬突き上げるように感じ、続いてゆらゆらと揺れだした。地震だ。

 揺れはそれほど大きくないが、地面が揺れていることに四人の男たちは大騒ぎだった。地震が珍しい土地なのだろう。とっさに萌香を守ろうとしてくれるのは嬉しいが、大したことではない。

「落ち着いてください。大した揺れじゃないです」

 せいぜい強めの震度二か三程度だ。ほんの数秒で揺れはぴたりと収まっていた。この程度では、歩いていれば気付かないレベルだ。


 ずいぶん落ち着いていると言われ、「日本は地震が多いんです」とこたえると、気のせいか男たちの顔が青ざめている。エムーアでは地震は竜が起こしていることで、十年に一度あるかどうかの代物らしい。

 萌香は口の中で拍子を付けて「ドルドル・メー」と呟いた。小さいころ誰かに聞いたのか、それとも勝手に自分で考えたものか分からないが、もう揺れないでねというおまじないだ。何年かぶりに思い出して懐かしくなる。絵本かアニメの呪文かもしれない。


「もし萌香がエリカじゃなかった場合、母が引き取ると言ってます」

 気を取り直したアルバートが、シモンにそう言った。

「ああ。妻もさっき、エリカが二人になっても構わないとは言っていたが、こういうことを想定していたわけだ」

 シモンが肩をすくめる。

「イナさん、エリカなら分裂くらいしそうだって言ってました」

 萌香がまじめな顔をして教えると笑い声が起き、場の空気が和む。


 隣にいたトムが萌香をそっと引き寄せて抱きしめた。

「ごめんな。よくわからないけど、迷惑をかけて」

 その優しい声に萌香が顔をあげると、一瞬泣きそうな顔をしたトムの顔が目に入る。すると彼の手が後頭部に伸び、顔を胸につけられた。

「見るな」

「トムさん……」

 萌香はその背に手を回し、小さく「お兄様」と呟くと、彼は「うん」と頷く。

「どうしても別人だとは思えないんだ。ごめんな。萌香がちゃんと帰れるように守るから許してくれ」


 その言葉に頷くと、ぐっと誰かに腕を引かれた。アルバートだ。

「それは俺の仕事だから」

「アル……」

 トムの腕が緩み、今度はアルバートに引き寄せられ正面に立つ。

「まだ何も分からない。だが絶対調べてみせるから。ちゃんと最後まで守るから大丈夫だ」

 なにも心配するな。

 両肩に手を置かれ目の奥をのぞき込むようにして言われ、萌香は「はい」と返事をする。

「私、アウトランダーだったんでしょうか……。特別なことは何もできない、普通の女だと思うんですけど。面倒なお仕事を増やしてごめんなさい」

 彼の業務に関わることだろうが、謎が多すぎるのは事実なのだ。萌香の存在が何かの手助けになるならいいが、今はただの厄介ごとでしかないだろう。


「おまえね……」

 なぜか少し呆れたような顔をしたアルバートは大きく息をつき、「まあ、いいや」と言った。

「ただ俺は、まだおまえがアウトランダーの記憶の持ち主だって可能性は捨ててないんだ。萌香は二十歳だって言ってただろ?」

「はい」

「エリカの年齢との二年のズレに意味があるのかもしれない」

 彼は絵梨花が消えたわけじゃいと信じたいのだろうか。

 そう考えた萌香は、なぜか胸の奥に小さな棘が刺さったような痛みを覚えたが、気づかないふりをした。


 ――絵梨花、あなたは今どこにいるの?

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