46.イチジョー・エリカ
萌香が困惑して首を傾げると、トムはチビチビなめていたグラスを置いて萌香の隣に座った。
「エリカという名前は、決して珍しくはないんだ」
「ああ、そうなんですね?」
彼が何を言おうとしているのかわからないまま、萌香は相槌をうつ。
「エムーアが昔、たくさんの竜に守られた大きな国だってことは覚えてる?」
「いえ。でも簡単には教えてもらいました」
ここにきてすぐ、モナが教えてくれたおとぎ話を。
『昔、エムーア大きな大きな国でした。たくさんの竜たちに守られた国はとても栄えましたが、ある日大きな災害に見舞われバラバラになってしまったのです。大きかった大地は小さな島国となりました。そこで、当時の王様が守り神の竜にお願いをします。どうかこの国が消えないように守ってほしいと。そこで竜は王様の願いを聞き入れて、お城があった中央の島を空へ持ち上げました。それがラピュータです。竜は今でもラピュータから加護の糸を下ろし、エムーアを守っています』
それをそらんじて聞かせると、トムは「そうだ」と頷き、よくできたねとばかりに萌香の頭を撫でた。
「この国にはたくさんの力をつかさどる竜たちがいて、その竜たちを統べるものをリュウオーという。人の姿で現れたリュウオーを呼び出したのがエリカという娘だ」
「神話からとったんですね」
それ自体はたいして珍しくない話だろう。世界でも神話や昔話、その時代に活躍した人の名前を付けることはよくある話だ。
「ああ、そうだね。ただ、エリカと名付けられるのは
意外と大きな話になったことに萌香は戸惑うが、トムの口調はいたってまじめだ。
チラリとアルバートを見ても茶化す様子がないので、この国では常識なのだろう。
「印ってなんなんですか?」
自分に何か特徴のあるものなどあっただろうか? と考え、萌香は首をひねる。だがトムは萌香の首の後ろにそっと手を当てた。
「この左耳の後ろ首の付け根近くに、花のような印があるんだよ」
「花……? あっ……」
たしかに萌香の左耳の後ろ側、髪の生え際あたりにも薄い花のような形の痣がある。小さなころは顔が赤くなったりすると痣の色が濃くなるので、萌香が緊張したり照れたりすると、それをからかう子がいた。だがそれも年齢一桁ぐらいの時だ。普段は全く目立たないし、わざわざ耳の裏をのぞき込むようなこともしないので、ほとんど存在を忘れていた。
「絵梨花にもその印が?」
初めて知った共通点に知らず声が震えた萌香は、無意識にトムのシャツをキュッと握った。
「そう。絵梨花は生まれるとき難産でね、母に陣痛が始まってからお前が生まれるまで三日もかかった。しかも生まれてすぐは産声をあげず大変だったらしい。だけど、やっとお前が泣いたときに、この印がすーっと浮かび上がったんだそうだよ。まるで命を吹き込まれたようだったと聞いている」
シャツを握る萌香の手を、優しく包み込むトムの手を見つめる。
――萌香もそうだった。
それは、両親から聞いた萌香が生まれたときの話そのものだ。
「だから、女王からエリカの名を賜ったわけなんだけど、うちはたまたま名字がイチジョーだったんだよね」
「イチジョーだとなんなんですか?」
「リュウオーを呼んだエリカのフルネームが、イチジョー・エリカなんだ」
「でも、そんなのただの偶然ですよね?」
「その通り。でもその偶然に周りは勝手に期待をする。聖女としての振る舞いをエリカに求めたんだ。もちろんおまえは普通の女の子だから、本当はそんなことは気にしなくていい。ただ……イチジョーは、初代王の末裔だから、そう簡単ではなかったんだよ」
――悪役令嬢の次は聖女ですか?
ラノベか! と、萌香が心の中でやさぐれたツッコミを入れる。
神話がどこまで本当でどこまでが作り話なのか区別がつかない今、聖女なんて迷信だと笑い飛ばしきれないことが悔しい。「聖女」という言葉も、萌香の翻訳機能がそう言ってるだけで、実際には微妙に違う言葉なのかもしれない。だが、今はのどから手が出そうなほど、圧倒的に情報が足りな過ぎるのだ。
だが多少うんざりした気持ちになりつつも、絵梨花がエリカであることのプレッシャーが、よそのエリカに比べて強かったことだけは理解した。
初代王とは、エムーアが大陸だった頃の王を指すらしい。
王の役割は大きく分けて「政」と「神をまつること」の二つで、イチジョーは竜を祀る側だったそうだ。ただ時代を経て分岐していき、今は竜を祀ることも王家が担っている。イチジョーは何千年も前の王の血が入っていた、それだけの存在だったのだ。
「ようは、ただの一般市民ですね」
うろんな目で両断する萌香に、トムは「ホントにな」と笑う。
「だが時期が時期だったからな」
そう言って肩をすくめるアルバートに萌香が目を向けると、彼は少しだけ姿勢を正して萌香をじっと見つめた。
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