42.こんなのらしくない
指先が氷のように冷たい。
もう一人のわたくし? それは記憶を失くす前の自分という意味なのだろうか。それとももう一人エリカがいて、やっぱり萌香とは違う人なのだろうか。
「意味、わかんない」
何度読んでも理解できない。
段々と空気が薄くなったように呼吸が苦しくなる。
今自分が見ているものが何なのかわからない。
自分で自分にいたずらを仕掛けた?
それとも、初めてここで目を覚ました時に考えたように、これは大掛かりな誰かのいたずら?
ドレッサーの引き出しをすべて出してひっくり返してみるが、他のメモは見つからなかった。ただ貼り付けてあった場所に基盤のようなものがあり、何かの仕掛けで落ちるようになっていたらしいことが辛うじてわかる程度だ。
エリカは絵梨花だった。恵里香ではなく絵梨花。
最初に萌香の頭に浮かんだ漢字は合っていたということだ。
ならば自分が絵梨花で、その記憶をすべて忘れてしまっただけなのだろうか?
だが、それならなぜ日本語が書ける?
便箋の文字は、萌香の筆跡ではない。
このドレッサーだって、物置にしまっていたものを、たまたま萌香が選んだものだ。だが、元々自分のものだと分かっていたから選んだのだろうか。こうなることが分かっていて、あえて絵梨花は物置にしまったのだろうか。
――私は本当に「イチジョー・エリカ」? じゃあ「恵里萌香」だと思っている私の記憶は何?
――エリカに変わった発言が多かったというのは、日本人である萌香の記憶のせい?
――事故のせいで、エリカの記憶だけが消えたの? だとしたらなんで?
様々な疑問がとめどなくあふれてくる。
『……あの子、『エマはもうすぐ消えるわ。でも大丈夫よ』――そう言ったの』
『――だからもう二度と……お願い、二度とイチジョー・エリカは消えるなんて言わないで』
いつかイナが話していた言葉とともに、あの日――日本での最後の日を思い出す。
信也を迎えに行くために車を走らせていたら、稲妻が見えた。雨が降ってきて、窓を閉めて……
「……事故?」
ハンドルを切って急ブレーキをかけた感触と、強い衝撃と恐怖が甦る。
萌香の手からはらりと便箋が落ちた。呼吸がどんどん浅く激しくなってくる。
「――私は……、萌香は……死んだ?」
空気が足りないかのようにハッ、ハッ、ハッ、ハッと小刻みの呼吸音だけが響く。苦しくて苦しくて目の前が暗くなり、意識を手放したいのに手放せない。
「助けて……」
消えたのは……死んだのは萌香? 私の記憶は前世のものなの?
呼吸がさらに激しくなって床の上をもんどりうつ。
手を伸ばしてベルを鳴らせば、誰かが来てくれることは分かっている。
だが過呼吸で視野が極端に狭くなり、意識が暗闇に飲まれそうになっていても、
元々誰かの前で助けを求められない性分だった萌香は、ついさっきアルバートの前で感情を爆発させたことが恥ずかしくて、これ以上誰かに迷惑をかけたくない気持ちのほうが上回っていたのだ。
床に四つん這いになり、意識的に荒い呼吸をゆっくりにするために意識を集中する。
――こんなのただの過呼吸だ。死ぬほどつらいけど、死にはしないんだから。
目を閉じて、意識的に腹式呼吸をしていく。
『エリカ』
さっきのアルバートの困ったような声と、不器用に撫でられた感触を思い出す。その感覚は不思議と心が休まり、エリカが彼を、兄のようなものだと言ってたらしいことを実感した気がした。
ごろりと仰向けになって深呼吸を繰り返し、ようやく落ち着いてくると、苦しさで勝手に流れていた涙をぬぐう。
「今日の私は、情緒不安定だね……」
涙が流れるのは、ただの生理現象だ。
悲しいわけじゃない。萌香が死んだなんてまだ信じない。
「だって、同じ顔だもの」
萌香は、自分の心の片隅に追いやられていた冷静な自分を引っ張り出す。冷静な自分は少し離れたところから、「ヘレンみたいな美人に生まれ変わってないんだから、萌香は死んでないに決まってるでしょ?」と、あきれた顔で肩をすくめるのだ。
せっかく何かの手掛かりをつかんだだけなのに、パニックを起こすなんてらしくないわよ、と。
「うん、こんなの私らしくない」
泣いたり、助けてなんて言ったり、そんなの萌香じゃない。
高いところに登って落ちたり、誰もが知らないと言ってた日本が見えたり。驚くことが多すぎて、多分まだ脳みそが興奮してるか何かで普通ではなくなってるだけだ。きっと、そう。
天井に手を伸ばし、ぐっと拳を握る。
この手を取ってくれる相手はどこにもいないのだから、しっかりしなきゃだめだ。
「絵梨花。あなたはどこにいるの?」
――私が忘れてしまっただけなの?
萌香は落とした手紙をもう一度読み直し、深く息をついた。
「
この手紙の意味を。もう一人のわたくしという真の意味を。蜃気楼とはいえ、日本が見えた理由を。
そして、萌香は本当はエリカなのか。やっと見つけたヒントだ。怖がって怯えても意味はないし、混乱しているなど時間がもったいない。
「どんな時だって、楽しいことやいいことを見つけたほうが絶対にいい。そのほうがうまくいく可能性が高くなるもの」
図書室は明日まで閉鎖され、鍵はイナが持っている。すぐに確認はできないことを思い出せば、焦ったところで仕方がないと自分を戒められる。
萌香は散らかしてしまったものをきちんと片付け、もう一度メイクと髪を整え直した。
ここは舞台。私が演じるのは記憶を失くしたエリカ。取れてしまった仮面は、
「もう一度しっかりつけなおさなくては、ね」
役柄は――
「令嬢の裏の顔は、冒険好きなお嬢様。うん、これにしよう」
優しい母と立派な父、そして兄に囲まれて育った女の子。
上の兄弟がいる感覚は今一わからないので、身近な兄もしくは妹がいる人を思い出してみる。概ね仲がいい印象だが、エリカとトムは割と年が離れているので、少し違うかもしれない。
「ヘレンのお兄さんは五、六歳上だった気がするけど」
高校から留学し、そのまま現地の大学へ進んだそうだから就職も海外だろう。会ったことはないので参考にはならなくて残念だ。
「んー、私が男で信也が妹だったらと考えてみたらどうかな……」
少し想像をする。
信也とは五歳年が離れているので、萌香は昔から小さなお母さんだった。信也は生意気を言いながらも甘えていい存在として、時に萌香に生意気な態度をとる。それほど喧嘩らしい喧嘩もしたことがないのは、年の差のせいか、性差のせいか。
「迎えに行けなくてごめんね……」
雨の中、きっと萌香が来るのを待っていただろう。
両親から萌香は、自身が「お姉ちゃん」であることを強要はされたことがない。それでも両親から信頼されている自信があったから、萌香は「姉」で「大人」であることを自然と自分に課していたのだ。
あの事故で自分が死んだなら、なんて親不孝なんだろうと悲しくなる。
「でも私のケガが、あの事故のものだとしたら?」
…………そうなると、なぜこんな場所で別人扱いされているのかって最大の謎が残るわけで……。
「……うん。この謎は後回しにしよう」
そう決意し、今は役作りに意識を切り替える。
『エリカより萌香のほうがいいな』
アルバートはそう言っていたが、トムの方はわからない。だが嫌な感じではなかったから、兄の前では萌香でいてもいいのかもしれないが……。
「それは実際会ってから考えればいいわね」
台本がないのだ。すべて厳密に決めることはできない。
「もともと私は役者じゃなくて裏方さんだもの」
時々
もう一度顔色よく見せる化粧を施した顔は、自信たっぷりのお嬢様に見えた。
「マスカラがあれば完璧だったのに」
きっちりアイメイクをしたら、泣くことなんてできないから。
「車の中には色々入れてるのにな」
小道具やメイク道具など、ちょっとしたものを積んでいた軽自動車は、友人からは何でも出てくるポケットみたいだと笑われていたことを思い出す。
萌香は少し考え、アイライナー代わりに上向き加減に濃い目のアイシャドウを引く。一見メイクしている感はないが、意志が強そうな印象になったのを確認し、鏡に向かってニッコリ笑ってみせた。
「大丈夫、もう泣かない」
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