40.マーケットにて(アルバート視点)

 バイクを高くまで上げないことを約束してエリカをイチジョーの屋敷まで送った後、アルバートは少し用事を思い出したからと言ってマーケットに向かった。

 実際に用事はないのだが、イチジョーに行く前に少し頭を整理したかったのだ。

 トムもまだ到着していないとのことなので、彼が着く頃に向かえばいいだろう。


 バイクを置き、気の向くままマーケットをぶらぶらと歩く。

「相変わらず美しい町だな」

 王都とはまた違う趣のある町は、ただ歩いているだけでも面白いものだ。国中のあらゆる土地を見ているが、イチジョーの美しさは何か特別感があるような気がする。つい先日通った時とも少し違うように思うのは気のせいだろうか。


 ふと雑貨屋の商品に目が留まったアルバートは、そのままぶらりと店に入った。

 窓から見えたそれは二つ折りの丸い手鏡コンパクトだ。どこにでもあるような鏡だが、落ち着いた色合いと草花を模したような意匠が美しい。模造宝石が控えめに散りばめられているのも上品で可愛らしく、アルバートはそれを手に取るとそのまま会計をした。

 包装紙で包み細いリボンをかけてもらったそれをポケットにしまい、再びぶらぶらと散策をする。

 ある程度時間をつぶした後、喫茶店のテラスで冷たい茶を飲むことにした。


 マーケットを歩きながら、アルバートはずっとエリカのことを考えていた。

「エリカがエリカじゃなくなった、か」


 トムが言っていたように、今日会った彼女はまるで別人だった。

 元々エリカは何を考えているのかわからない女だったし、それは今日のエリカも同じだ。だが――

「嫌では、なかったな」


 ポケットに入れた鏡の箱を取り出し、コトリとテーブルに置く。

 樹の上で彼女を見たとき、はじめ精霊に出会ったのかと思った。伝説や空想の類と思われているものでも、仕事柄調べたり不思議な事柄に接することが多いため、一瞬本気でそう思ったのだ。

 男でも女でも、ましてや人でもないものだと。


 すぐにそれが人間の女性だと分かったのに、しばらく見惚れた。いたずらっぽくキラキラ光る瞳や、ほつれた髪が風になびき頬や唇にかかる様が艶っぽく見えて、なぜそこに女性がいるのか疑問にさえ思わなかった。それがエリカだと気づいたときは自分を殴りたくなるくらい呆れたが、今度は彼女の男っぽい口調に驚き、落ちてくるのを見て肝を冷やし、謎の訴えにはどうしたものかと思った。

 落ちてきたエリカを抱きとめたときの彼女はギョッとするほど細くて、バイクから落ちないよう腕に力を籠めるのをためらった。今まで彼女に触れたことは一度もなかったが、それでもずいぶん痩せたのではないかと思う。一か月ものあいだ寝込んでいたのだと思い出し、素直に彼女をいたわりたくなった。


 はじめて彼女の髪を撫でたときの真っ赤になったエリカの顔を思い出し、ふっと笑みが浮かんだ。まさかエリカが自分に対して赤くなるなんて。

「アルバートさん、ねぇ」

 いつも小生意気に「アル」と呼んでいた同じ唇から、同じ声で違う呼び方をしたエリカ。話し方も表情も、以前とは何もかもが違うと思った。

 自分が声をあげて笑うなんて何年ぶりのことだろう。

 エリカがエリカじゃなくなったとトムは言っていたが、実際それを目の当りにしたら彼はどう思うのだろうか?

 そう思ったとき、当のトムが目に入った。


「トム!」

 声をかけて手をあげると、彼はすぐに気づいてこちらに走ってくる。

 視線で前に座るよう示すと彼は素直に従い、自分も冷たい茶を注文した。


「まっすぐ帰らなかったのか?」

 待ち合わせもしてないのに意外なところで会ったことを面白がりながら尋ねると、トムは眉を寄せて弱々しく笑った。

「なんとなくな」

 勇気が出ないんだよと、口の中でモゴモゴとささやいて俯くトムは、間もなくテーブルに置かれた茶を一気に半分飲みほした。妹のことを考えて緊張しているのかもしれない。


「さっき、エリカに会った」

 その言葉にガバッと顔をあげたトムに、アルバートはニヤッと笑う。

「心配するな。イチジョーの姫さんは元気だよ」


 トムのために、先ほどあったことを包み隠さず教えてやる。話をするに従いトムは驚きに目を見開き、信じられないと首を振っているが、アルバート自身自分の目で見ていなければ信じなかっただろう。

「それは、エリカなのか?」

「前より痩せていたがエリカだよ。あれは間違えようがない」

 以前の大人びた様子とは違い、実際に大人になったような隠し切れない色気のようなものも感じたが、それは賢明に口をつぐんでおく。彼女の中にある萌香という「役」のせいかもしれないとふと考えたが、この点に関してはもう少し彼女の話を聞いてみたいと思った。


「やっぱり記憶は、全くないのか」

「そうだな。俺のことも全く覚えてないし、フリッツのことも覚えてなかった」

「そうか……」

「婚約解消の話を聞きたがっていたぞ」

「……それは、話してもいいものなのかな」

 エリカが記憶を失くすほどの心の傷を受けているなら、話すことで癒えた傷を開くことになるかもしれない。だが――

「俺が見る限り、彼女が感じているのは好奇心だったよ」

「好奇心?」

「ああ。自分のことだとは思ってないように見えたし、正確に教えてやっても問題ないような気はする」

「そうか……」

 ホッと息をつき、残りの茶をすするトムを見ながらエリカのことを思い浮かべる。

「まるで別人だよ、あれは」

「そうか……。俺が考えていた以上にそうなのかもな」

「ああ。前のエリカなら、突然俺の前で足なんて出さないだろ」

「はっ?」

 しれっと事実を話し茶を飲むアルバートの前で、トムは盛大にむせた後、陸に打ち上げられた魚のようにハクハクと口を開け閉めする。

「アル、おまえ、まさか」

 予想通りの反応にアルバートはくすりと笑い、手をひらひらとふる。

「何もないよ、あるわけがない。天地がひっくり返ったって、そんなことありえないさ」

「だ、だが」

「それがどんな意味を持つのか。そんなことさえ覚えてないんだよ。あの淑女エリカがね」

 眉根を寄せ声を低めて言ったアルバートに、その重大さに思い至ったらしいトムが、まじめな表情に戻って椅子に座りなおした。


 そう、以前のエリカなら有り得ない。

 ケガをしたとしても人前で足など出さないし、男の前で思わせぶりなことは絶対にしないだろう。婚約者がいなかったとしても、だ。

 以前ならあんな風に無防備な色香など出さないし、人前で感情をむき出しになどしなかったと断言できる。だが何も知らなかったのだと考えると納得できるのだ。あれが演技だとは到底思えない。


 自分のしたことの意味を知った時のエリカの様子を思い出すと、ついアルバートの頬が緩み自然と笑みがこぼれる。真っ赤になって違うんだと訴える様は非常に可愛らしく、あれなら「妹」でも大丈夫そうだ、などと思ったりもするのだ。


「今のエリカは、何をしでかすかわからないのは単純に記憶がないからで、反応は素直で可愛らしいよ」

 彼女の子どもの頃は知らないが、肩ひじ張らずに育てば本来の彼女はこうだったんじゃないか? ――そんな風に考えると、不思議と彼女に対する苦手意識が消えた。何を考えているのかが分かりやすいのも好ましい。

 ついつい面白がってからかってしまったが、以前のエリカなら逆にアルバートをやり込めただろう。下手をすれば、こちらが立ち直れないくらいに叩きのめされた可能性のほうが大だ。


 アルバートの話に落ち着いたのか、トムは茶のおかわりを注文すると背もたれにぐっと体を預け、大きく息をついた。そしてテーブルに置きっぱなしになっていた箱に気づいたのか、「それは?」と尋ねる。


「ああ、手鏡だ。さっきそこの店で見つけて、エリカに似合うと思って」

「そ、そうか」

 なぜか落ち着かなげに視線を揺らすトムにアルバートは首をかしげる。

「どうした?」

「いや。うん。なんだ。お前が年下の女性に贈り物をするのは初めてだなと思ってな」

「ん? そんなことはないだろう」


 特に何でもない日にちょっとしたものを女性へ贈るのは、アルバートにとっては割と普通のことなので、特に深くは考えてなかった。普段から母にも姉にも贈るし、今はいないが恋人にだって贈っていた。従妹や叔母にも送ったことがある。今日だって手鏡が目に入った時に、エリカに似合うと思ったから買った。ただそれだけだ。


「もう年増殺しマダムキラーは卒業か?」

 複雑そうな表情でそんなことを言うトムに、アルバートは顔をしかめる。年上の女性とばかり付き合う彼を揶揄してるのだ。なかには未亡人もいたため、まわりからありもしない妙な勘繰りをされることもなかったわけではない。


「この年になったら、結婚する気もないのに深い付き合いはできないからな」

 だから、ここしばらくは特別な相手は作っていない。結婚適齢期の女性を無責任に縛る気などないからだ。期間限定の軽い付き合い、それで十分。

 仕事上国中を飛び回っているため、待たせることが当たり前になれば、どうしても心にも距離は出る。アルバートは第三子のため家を継ぐこともないので、縁談はもともと少なかった。母親はともかく父親は自由にすればいいという主義だということもあり、結婚話も積極的に進める気はないのだ。一生一人と決めているわけでもないが、それならそれで構わないと思っている。


「今のエリカのことは気に入ったのか?」

 ずばり聞かれるが、有り得ないと苦笑した。

「あれなら妹でも嫌じゃないと思っただけだ。せっかく兄同然と言ってくれたんだからな」

 本人は覚えていなくても。

 ただ、明日がエリカ本人に内緒の見合いの場だということを思い出し、複雑な気持ちになる。

「だから、兄として守ってやらなきゃいけないって思ったんだよ」


 無防備で無垢で無知で、ある意味赤ん坊のようなエリカだから。それをこの目で見て好ましいと思ったから、トムが「かわいそうじゃないか」と言った意味が実感できたのだ。あの状態で見合いなど、赤子を野獣の群れに放り込むようなものではないか。意図せず他の男を誘惑してしまう可能性があることを考えると頭痛がする。さっきの出来事だって、アルバート相手ではなかったらと考えると、背筋に冷たいものが流れた。


「ああ、助かる。俺ではどうしても限界があるからな」

 実の兄では守ると言っても限りがあるのだ。ただ、無理はしないでくれというトムに、アルバートはもちろんだと微笑んだ。

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