39.萌香

 二人でひとしきり笑うと、アルバートは萌香にバイクの後ろに乗るよう促した。

「そろそろ戻ろう。送っていく」

「でも、これ以上ご迷惑をおかけするわけには……」

「どうせ同じ場所に向かうんだから、一緒に行ったほうがいい。怪我もしていることだし」

 同じ場所と言われ、萌香は急いで頭の中の名簿をめくる。今日から来る客に、彼の名はあっただろうか?


「俺は明日の客役でもあるけど、今日はトムの友人として来てるんだよ」

 少しだけ意地悪そうな笑顔でニヤリとしつつもフォローしてくれる青年に、萌香はポンッと手のひらを合わせた。

「ああ、そうなんですね!」

 そういえば、エリカの兄の友人も泊まると聞いていたことを思い出す。彼がそうなのだろうか? 明日の客役でダンという姓は二人で、確かもう一人はクリステルだったはずだが。

「明日のお越しだと思ってました。奥様はもう屋敷のほうに?」

「奥様?」

「クリステル様、でしたよね? ご夫婦でいらっしゃるのかと思ってましたから」

 兄の友人が夫婦で来ているものと考えた萌香は、再びアルバートに噴出されたことで自分の間違いに気づいた。同じ姓で二人参加だったこと、名前の並びから妻が当主で夫がついてくる形なのだろうと思い込んでいたのだ。

「いや、悪い。母が若く見られたと、大喜びする姿が目に浮かぶよ」

 涙をふきながら笑うアルバートは、一瞬だけまじめな声でそう言ったものの、再び笑い出してしまう。かなりの笑い上戸らしい。


「すみません、お母さまだったんですね」

「そう。俺は独身だよ」

「失礼しました」

 軽く頭を下げて謝罪をすると、髪がさらにほつれたようで、パラリと髪がこぼれる。一度ほどいてまとめ直そうとして、はたと手が止まった。


「あの、もう一つ教えてもらってもいいですか?」

「なに?」

「……ほつれた髪を直したいんですけど、男性の前で髪をほどくのって……」

 さっきのこともある。まさかと思いつつ尋ねると、彼は心持ち顎を上げ、ニヤッと意地悪な笑みを萌香に向けた。

「今日はずいぶんと大胆だな。俺を誘ってるのか?」


 ――不安は的中ですか、そうですか。


 からかわれたことに脱力しつつ、とりあえず失態を重ねずに済んだことに安堵する。


「いえ、誘ってません。教えて下さって、ありがとうございます」

 兄の友人なら、きっと彼も結婚を控えた身だろうに。ずいぶんと軽い男だ。

 それでも髪がぼさぼさのままでは、きっと屋敷の者を驚かせてしまうだろう。軽くため息をついてアルバートに背を向けてもらうと、萌香は手早く髪をほどき、まとめなおした。


「では帰ります」

 歩いて戻ろうと踵を返す萌香に、アルバートは「怒ったのか?」と言いながらバイクをゆっくり萌香の横につける。

「いえ、怒ってないですよ」

 実際そうなので正直に答えたのだが、彼は少し眉を寄せ「悪かった、からかいすぎた」と頭を下げるので驚いた。

「いえ、本当にただ帰るだけで、怒ってませんから」

「じゃあ送ろう」


 そう言われ、今は少しだけ浮かせている状態のバイクをちらりと見る。

 さっきは一種の興奮状態で気にならなかったが、車ならともかく、周りに壁もない状態で浮かぶことを考えるだけで血の気が引いてしまう。萌香はふるふると首を振って辞退したが、それでは勘違いをさせてしまうことに思いいたり、渋々正直に伝えることにした。

「私、高いところが苦手なんです。それ、飛びますよね?」

「は? だっておまえ、さっきは樹の上に登ってたじゃないか」

 ――ですよね。

 実際樹の上で逢って驚かせたのだ。否定できない。


「さっきは、ゲイルさんたちが泣いていたから。パニックを起こして落ちたら危ないと思って、励ますために登ったんです」

「苦手なのにか?」

「私は苦手ですけど、木登りが得意な男の人になりきって登ったから平気だったんです」

 本当のことを話しているのだが、彼は微かに首をかしげる。

「演技をしたんです。お芝居のつもりで。役になりきれば、怖くないから」

「役?」

「はい」

「木登りが得意な男になりきったって?」

「そうです」


 意味が通じないことぐらいは分かっている。だが萌香が言っていることは真実だけだ。だがエムーアで目覚めて以来、萌香の言葉をそのまま信じるものなどいない。どうせこの青年だって信じはしないのだから、ウソをつく意味もないのだ。

 萌香がこっそりとため息をつくと、青年は何か腑に落ちたかのように「ああ」と呟いた。そして、

「今は萌香?」

 と言ったのだ。

「えっ? なんで」

 久々に呼ばれた名前に驚くほど動揺する。日本でも、ほぼ親や親戚にしか呼ばれなかった名前だ。でもあだ名ではない、自分の本当の名前。


「さっき、蜃気楼を見たあとに言ってただろう。自分はエリカじゃない、萌香だって。トキオに帰りたいんだって」

 トキオとは東京のことだろうか。

 取り乱してそんなことを口走ったのかと、萌香の口の中に苦いものが走る。

「――貴方はそれを信じるんですか?」

 考え込むように言った青年に、萌香の声は自分でも驚くほど冷たく響いた。


 アルバートはバイクを停止させると、考え込むように口元に手を当てた。

「信じるのかと言われたなら、答えは否だな」

「ですよね」

 半分落胆、半分安堵して萌香は頷いた。知らない人の前でバカなことを口走ったと自分でも思う。


「だけど、エリカが元々、自分への違和感を訴え続けてたことは知ってるかい?」

 上目づかいで伺うようにこちらを見る青年に、萌香はもう一度頷く。

「そうみたいですね。アウトランダー? とかいうものに憧れてたって教えてもらいました」


 努力家で、大人っぽくて、仕草が洗練されていて、同じ顔なのになぜかとても美人に見える。そのくせ子どものようにおとぎ話に憧れていた女の子。

 それが萌香から見たエリカの印象だ。


「トムが言うには、エリカは小さいころからイチジョー・エリカであることを否定していたらしいが、他の名前を名乗ったとは聞いたことがない」

「そうなんですか?」

 ドキリとした。

 エリカが、イチジョー・エリカであることを否定していた。それももしかしたら聞いたことがあったかも知れないが、高熱を繰り返したせいか、聞いた記憶がところどころ曖昧だ。

「さっき役になりきったと言っていたな。エリカは表では完璧な淑女の仮面をかぶっていたんだぞ?」

「淑女の仮面?」


 ドキッとした。

 萌香がエリカを演じようとしているように、エリカもエリカを演じていたということなのだろうか。


 ――それとも単純に、エリカが猫をかぶっていたことを比喩しているだけ?


「以前の記憶がないらしいことはトムから聞いてる。今も何も思い出せないのか?」

「そう、ですね」

「ふーん」


 どこか面白そうにしている青年に萌香はいぶかし気な目を向けると、彼はフッと何かを思い出したように笑った。


「前にエリカが婚約解消の話をしてた時に」

「えっ?」

 突然出てきた単語に驚いて声をあげた萌香に、アルバートは「ああ、それも覚えてないか」と呟く。

「アルバートさんは、エリカが婚約してた人を知ってるんですか?」

 エリカの親しい人ならおかしくないかもしれないが、彼はその場面を見ていたのだろうか。しかも彼は「婚約破棄」ではなく「解消」と言った?


「フリッツのことも、何も覚えてない?」

「フリッツさん? えっと」

「元婚約者の名前だろう」

 そういえば、そんな名前だった気もする。

「……あー、えっと、前にイナさん、いえ、お母さまから動画は見せられたんですけど、ちょっと名前や顔が印象に残らなくて……」

 なぜか取り繕うことなく本心が漏れてしまうと、アルバートは再び吹き出し大笑いする。かなりの笑い上戸だなと思い、萌香は苦笑した。むしろバカなことをすべて彼が笑い飛ばしてくれるので、取り繕う気にもなれない。


 いったい彼は、エリカの何なのだろう?

 ぽつりとこぼれた言葉に、アルバートは涙目のまま「兄みたいなものだと言われたな」と言った。アルバートも元婚約者のフリッツのことも、エリカにとっては兄同然だと言われたことがあったのだと。


「婚約破棄の場面をアルバートさんは見てるんですか?」

 誰も教えてくれなかったことを知ってる人がいたことに、萌香は目を輝かせた。ずっと聞いてみたかったのだ。本人ではなくても、間近で見ていた人に出会えるとは!

「破棄じゃなくて解消な」

 萌香の言葉を訂正した後、アルバートは少し考え込むような仕草をする。婚約解消についての話を聞いたとき、兄のトムも一緒だったそうだ。


「聞きたいなら詳しく話してやりたいところだが、今は時間がないだろう。あとで話そう」

「わかりました」

 何か気がかりがあるような様子には気づかず、萌香は笑って頷く。トムも一緒のほうがいいだろうという意味だと思ったのだ。好奇心だけを見せる萌香に、アルバートは不思議な視線を向けた。


「ふーん。エリカよりも、萌香のほうがいいな」

「そうですか?」


 突然の萌香肯定に、萌香本人はキョトンとする。

 おそらく彼がそう言ったのは、先ほど萌香が彼に「笑ったほうがステキだ」と言った事のお返しなのだろう。イナ同様、エリカとしての記憶がなくてもいいという意味なのだと萌香は素直に受け取り、礼を言った。


 ――兄ではない人だけど、「お兄ちゃん」という存在も悪くはない。

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