38.いっそ埋まりたい

 萌香が感情を爆発させたのは、小学校低学年以来初めてのことかもしれない。

 あふれてきた涙と悲鳴のような叫びを押さえるため、両手で顔を覆う。


 泣きたくなどなかった。悲劇のヒロインなんてガラじゃない。何度も何度も前向きに進むことだけを考え、エリカを演じようと思った。だが見慣れた故郷が見えてしまった。あれは幻なんかじゃない。蜃気楼なんかじゃない。


 やり場のない怒りが次々にあふれ出し、涙があふれる。

 ただ帰りたかった。イチジョー・エリカではなく、恵里萌香に戻りたかった。

 周りの人たちはみな優しくしてくれる。綺麗な環境で何不自由ない暮らしをさせてもらっている。これがエリカと瓜二つではなかったら、まったく知らない場所で路頭に迷っていたことも分かっている。感謝しているのだ。

 それでも急激に膨らむ感情に気持ちが追い付かない。帰りたい気持ちは消えない。

 自分の置かれた状況に腹が立っていた。どうすることもできない自分に怒っていた。

 本物のエリカの手掛かりがつかめない。それが自分の中なのか、どこか別のところにいるのかさえわからない。萌香であることが曖昧になっていくのが怖くて、だったらエリカである確証があればいいのにそれもなくて、気を抜くとどこか深い穴に落ちていくような恐怖に陥った。


 ――誰か。誰か助けて!


「エリカ……」

 途方に暮れたような声と共にふわっと頭を撫でられた萌香の心臓が大きく跳ね、涙がピタッと止まる。青年から不器用に頭を撫でられたことで、羞恥で顔に血が上り、反対に頭の中は急速に冷えた。自分の心の叫びにだけ気を取られ、青年の存在など完全に意識から消えていたのだ。

 熱くなった顔を、つっと冷汗が流れた。


 ――うそ、どうしよう。やっちゃった。


「ご、ごめんなさい! あっ」

 瞬間的に彼から離れようとしてバイクから落ちそうになり、とっさに伸ばされた腕に抱き留められた。

「気を付けるんだ」


 ため息のような声を耳元で受け、萌香はギュッと目をつむった。助けてくれた恩人の前で突然ヒステリーを起こした上、また怪我をするところだったのを助けてもらってしまった。その事に、恥ずかしすぎてどうにもいたたまれない。

 できることならこのまま地底深くに潜り込んでしまい。埋まるのが無理なら、いっそ小さく小さく縮んで、この男性の前から見えなくなってしまいたいくらいだ。


 ふいに初めて会った時のイナの姿が浮かぶ。普段と違うヒステリックな姿を見せたイナ。彼女も我に返った後はきっとこんな気持ちだったのではないだろうか。


 萌香は涙をぬぐって最後に残った涙をしゃくりあげ、勇気を出して青年を見上げた。

「あの、何度もありがとうございます。突然取り乱してすみません」

「いや……いいんだ。落ち着いたか?」

 困ったように眉を寄せる青年の目には、萌香を咎める色はない。むしろ思いやりが見えた気がして、萌香はますます申し訳なくなって身を縮めた。そんな萌香の頭を再び彼が撫でたので、びくりとして少し離れる。自分の顔が湯だったように熱かった。


「すみません。えっと、頭を撫でられることに慣れてなくて……」


 エムーアの男性が頭を撫でるのは、家族のような親しい間柄の女性だということだ。だがフィンセントやシモンのような父親世代の男性ならまだしも、年の近い男性から撫でられるなど恥ずかしすぎてどうしようもない。

 萌香自身は頭を撫でることは好きだった。可愛いと思う後輩や弟の頭はよく撫でた。だが萌香自身が撫でられた記憶はないので余計かもしれない。


 それでもこの青年が、エリカにとって親しい人間であることは確信できた。頭を撫でてくるくらいだ。普段なら素直に受けてるであろう萌香エリカの言動に困っていることだろう。

「私、あの、記憶がないみたいで……貴方のこともまったくわからないんです。誰なのか教えてもらえますか?」

 熱を持った頬を押さえつつ尋ねてみると、青年はしばらくジッと萌香を見つめたあと、

「アルバート。ダン・アルバートだ」

 と名前を教えてくれた。

「アルバートさん」


 萌香はバイクから降りて

「アルバートさん、助けて下さってありがとうございました」

 と、丁寧に頭を下げる。

 萌香の顔は涙で汚れているし、髪もぼさぼさだ。頭を下げたことで、ワンピースのスカートが大きく裂けているのが目に入る。彼がエリカの知り合いではあっても、萌香にとっては初対面の男性だ。初めて見せるにはあまりにもひどい姿だが、これ以上ひどいことにはならないことを萌香は切に願った。


 ――痛っ。


 裂けたスカートに気づいたことで、足の新たな痛みに気がつく。

 スカートの裂けた部分を少しだけめくって見ると、事故で痛めたのとは逆、つまり左足の太ももの外側から膝にかけてを枝で少し切ったらしい。うっすらと血が流れていた。

「おまえ、いきなり足を出すなよ……」

 アルバートから困ったように目をそらされ、萌香は戸惑った。足といっても、見えるのは太ももの中ほどから下くらいだ。しかも人前なので控えめに痛みの原因を確認しただけで、隙間からほんの少ししか足は見えていない。もちろん下着が見えるわけでもない。


「ごめんなさい。痛かったから確認しようかと……」

「ケガをしたのか?」

「大丈夫、かすり傷です。でもスカートに少し血がついちゃいましたね」


 これ以上血を流したままにしておくのも落ち着かない。屋敷に戻って着替えと消毒をしようと考えた萌香は、とりあえずアルバートに背を向けると襟元のスカーフを折りたたんで、包帯代わりにさっと結んだ。


「記憶がないのは本当なんだな」

 萌香がスカートを戻したのを確認して、彼が大きくため息をつく。

「はい。すみません」

「……ああ、その、なんだ。それは、男の前ではもうやるなよ」

「はあ」

 よく意味が飲みこめない萌香に、アルバートは困ったように頭をすこしかいた。

「本当に意味がわかってないみたいだから、はっきり言うけどな。怒るなよ? それは――女が男を寝屋へ誘う合図だからな」

「は?」


 ――寝屋?……ベッドに誘う合図って……つまり……


 意味が飲み込めた萌香が悲鳴を上げてしゃがみ込むのを見て、アルバートが大きくため息をついた。

「まいった。……これは、いつもとは違う意味で驚かされたな」

「すみません、すみません。本当に知らなかったんです! ごめんなさい、そんなつもりはないんです。お願い、忘れて下さい~」

 涙目で萌香が必死に訴えると、アルバートは一瞬キョトンとした後大きく噴き出した。こらえきれないと言った様子で大きな口を開けて笑う青年に、萌香もホッとして少しだけ笑う。よかった、笑い飛ばしてくれた。


 面白そうに笑う青年は、最初の意地悪そうな印象とは打って変わって見えた。涙までにじませて笑っているので、よっぽどツボに入ったらしい。


「アルバートさんは、笑った顔のほうがステキですね」

 無意識にそんな言葉がこぼれると、アルバートは驚いたように笑いが止まり、目を見開いて萌香を見る。だが萌香は、元々普段から周りの人間を褒めるのが当たり前だったし、求められれば、その人のいいところをより良く見せるアドバイスをすることも日常茶飯事だったのだ。後輩のヘレンに恋した友人、尾崎彰斗のプロデュースとキューピットをしたのも萌香である。


「そう、か?」

「はい」

 にっこり笑った萌香にアルバートは再び面白そうに笑いだし、萌香もつられてしばらくクスクスと笑った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る